2歴代32.1-19
「恐れる」とは単に「怖がる」という意味だけでなく「敬う、重んじる」という意味があります。相手や状況を「大きなもの」と感じることです。
「敵を恐れる」とは「敵を実際より大きく思う」ことです。その結果、自分の心がそれに縛られてしまいます。
逆に「神様を恐れる」は「神様を重んじる、偉大なお方だと思う」ことです。
その結果、僕らは礼拝し、感謝し、賛美します。
30章から31章を読むと、神様の素晴らしさを思い出しすことは喜びを生み、感謝を生み、礼拝を生み、さらに神様の素晴らしさを知っていく、そのような循環がありました。神様を恐れることは自由をもたらします。他のものに縛られなくなっていくからです。
神様以外を恐れると不安と緊張に支配され、神様の祝福と自由を失っていきます。例えば、
「人に嫌われるのが怖い」と言う人は、人からの評価を大きく重んじています。
「お金がなくなるのが怖い」と言う人は、お金による安定を重んじています。
そのように人やお金や状況に囚われると僕らは自由を失います。
だから僕らが恐れるべき(重んじるべき)は、神様だけです。平安と喜びをもたらすのは「神様を重んじ恐れること」です。
ヒゼキヤは敵国アッシリアが攻めてきたときに人々に言います。
"彼は民の上に戦時の隊長たちを立て、彼らを町の門の広場に召集し、激励して言った。
「強くあれ。雄々しくあれ。アッシリアの王や、彼とともにいるすべての大軍を恐れてはならない。おののいてはならない。彼とともにいる者よりも大いなる方が、私たちとともにいてくださるからである。
彼とともにいる者は肉の腕だが、私たちとともにおられる方は、私たちの神、主であり、私たちを助け、私たちの戦いを戦ってくださる。」民はユダの王ヒゼキヤのことばによって力づけられた。"
歴代誌 第二 32章6~8節
これとは逆に、敵はユダの人々の心に恐怖を植え付けようとします。「このままだと滅びるぞ」「お前たちの神には救えない」「ヒゼキヤを信じるな」とです。
"「アッシリアの王センナケリブがこう言っておられる。おまえたちは何に拠り頼んで、エルサレムの包囲の中にとどまるのか。
ヒゼキヤは、『私たちの神、主は、アッシリアの王の手から私たちを救い出してくださる』と言って、おまえたちをそそのかし、飢えと渇きで、おまえたちを死なせようとしているではないか。"
歴代誌 第二 32章10~11節
"おまえたちは、私と私の先祖たちがすべての国々の民にしてきたことを知らないのか。諸国の神々が彼らの国を私の手から救い出すことができたか。
私の先祖たちが滅ぼしたこれらの国々の神々のうち、だれがその民を私の手から救い出すことができたか。おまえたちの神がおまえたちを私の手から救い出すことができるとでもいうのか。
今、おまえたちは、ヒゼキヤにごまかされるな。このようにそそのかされてはならない。彼を信じるな。どのような国、どのような王国のどのような神も、その民を私の手や私の先祖たちの手から救い出すことはできないからだ。まして、おまえたちの神は、おまえたちを私の手から救い出すことはできない。」"
歴代誌 第二 32章13~15節
実はこの戦いは「何を(誰を)恐れるか」の戦いです。
31章を読むと、この国全体に喜びと感謝と賛美が溢れていたことがわかります。
そしてそんな時だからこそ、敵はやってきます。敵は神様ではなく、敵の大きさを見るようにと誘惑してきます。「私たちの強さを見ろ」と言います。逆にヒゼキヤは、「私たちとともにおられる方を見ろ」と言います。
"「強くあれ。雄々しくあれ。アッシリアの王や、彼とともにいるすべての大軍を恐れてはならない。おののいてはならない。彼とともにいる者よりも大いなる方が、私たちとともにいてくださるからである。"
歴代誌 第二 32章7節
神様の大きさ、強さはレベルが違います。なのに、敵はまるで神様より強いかのようにアピールしてきます。僕らにもこの類の攻撃があります。例えば、状況の悪さ、お金のなさ、健康不安、人間関係の不安などを大きくみせて恐れさせます。僕らもそれに囚われて、まるでそれが全てかのように一日中考えてしまったりします。
「恐れるな」「心配してはいけません」と聖書は何度も何度も僕らに言います。それだけ僕らは神様以外のものを恐れがちだからです。みなさんの心は何を恐れているでしょうか。何を一番大きく感じているでしょうか。
今日も神様の恵みを数えましょう。神様の偉大さを賛美しましょう。その栄光だけを褒めたたえましょう。大きくなってしまった問題よりも、神様の大きさを思い巡らし、言い表しましょう。そこにこそ勝利があり喜びがあり、自由があります。ハレルヤ!
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