僕らは死後の世界を見たことがないけど、パウロは誰も見たことのない神様のみもとに行った体験があるようです。それは素晴らしすぎる世界のようです。
(2コリント12:4-5)
パラダイスに引き上げられて、人間には語ることを許されていない、口に出すことのできないことばを聞いたことを知っています。また、その啓示があまりにもすばらしいからです。
パウロはもし死刑になることがあっても、「そのほうが、はるかに望ましいのです」「死ぬことは利益です」とさえ言います。
(21)
私にとって(…中略…)死ぬことは益です。
(23)
私の願いは、世を去ってキリストとともにいることです。そのほうが、はるかに望ましいのです。
パウロはあまりにも素晴らしい世界を知ってしまったようです。同じように、僕らイエス様を信じる人は死んだ後に素晴らしい主のみもとに導かれます。
一方で、肉体にとどまる必要もある、とパウロは言います。イエス様を信じた人は肉体に生きていても、生きているのはキリストです。僕らの体はキリストの体の一部であり、キリストの命が僕らの命となっています。(ガラテヤ2:19-20)だから、僕らがこの肉体で生きることは、イエス様に用いられ、イエス様の働きをすることになります。僕らの働きはイエス様との共同作業です。パウロは問題があるピリピの教会を助け励ますためには自分は生き延びる必要がある、と言います。
(24-25)
しかし、この肉体にとどまることが、あなたがたのためにはもっと必要です。
このことを確信しているので、あなたがたの信仰の前進と喜びのために、私が生きながらえて、あなたがたすべてとともにいるようになることを知っています。
パウロが生き延びることは、ピリピの教会にとって必要でした。このときピリピ教会は外からの迫害があり、内側の不一致があり、にせ教師の問題もありました。このような試練の時に、兄弟姉妹を愛して助けることは地上でしかできないことです。また、福音を伝えることも地上でしかできないことです。伝道するためには生き延びる必要があります。
(20)
私の願いは、どんな場合にも恥じることなく、今もいつものように大胆に語り、生きるにしても死ぬにしても、私の身によってキリストがあがめられることです。
僕らが地上で生きる目的は隣人を愛し助けるためです。僕らは天国に国籍がありつつ、地上に生きています。模範はイエス様です。
(27-28)
ただキリストの福音にふさわしく生活しなさい。そうすれば、私が行ってあなたがたに会うにしても、離れているにしても、あなたがたについて、こう聞くことができるでしょう。あなたがたは霊を一つにして堅く立ち、福音の信仰のために心を一つにしてともに戦っていて、どんなことがあっても、反対者たちに脅かされることはない、と。そのことは、彼らにとっては滅びのしるし、あなたがたにとっては救いのしるしです。それは神によることです。
天の国には派閥がなく、完全な一致があります。天国に行って、あの子嫌いとか、あの先生につく、この先生につく、というのはありません。ルーテル派、聖公会、JECA、ホーリネス、というのもありません。そのように、天国の市民として、地上でも一致して生きなさい、と言います。模範はイエス様です。この後2章は模範としてのイエス様の謙遜な姿を書いています。
(2.6-8)
キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。人としての姿をもって現れ、自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。
キリストは神のあり方を捨てられないとは考えず、キリストでさえ、神のあり方を捨てて、しもべとなり、死刑囚となり、罪人のためにご自分をささげてくださいました。あなた方もそのように相手の下に立ちなさい、と続きます。それが天国の市民として地上で生きる姿です。やがて天でイエス様と顔を合わせてお会いするときには全てが明らかになります。そして完璧な姿に変えられます。
今は欠点があるけど、理解も足りないけど、人生の目的は自分のためでなく、神様のため、そして兄弟姉妹が愛し合い助け合うためです。その力は自分の力でなく、私たちの中におられるキリストの働きです。今は欠点だらけだし、体も弱いし、心も醜いです。でも、イエス様とお会いするときに全てがイエス様の栄光と同じように変えられます。
(ピリピ3.20-21)
しかし、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、私たちは待ち望んでいます。
キリストは、万物をご自分に従わせることさえできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自分の栄光に輝くからだと同じ姿に変えてくださいます。
この世を去って主のみもとにいる方がはるかに望ましいです。でも、地上ではイエス様の働きをする役目が与えられています。それらは全部、キリストが崇められることが目標です。
(1コリント 10:31)
こういうわけで、あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現わすためにしなさい。
(ヨハネ 6:27)
なくなる食物のためではなく、いつまでも保ち、永遠のいのちに至る食物のために働きなさい。
僕らの人生が主の栄光と力の現れでありますように。苦しみがあっても、栄光が待っています。素晴らしすぎる世界が待っています。期待しつつ、希望を持ちつつ、喜びつつ、天国市民として生きましょう!ハレルヤ!
0 件のコメント:
コメントを投稿