2023年1月4日水曜日

エレミヤ15章

 神様は必ず罪に対して正しく怒り裁く方ですそれは確定していて、それをエレミヤは伝えなければなりませんでした。どんなに熱心に「裁かないでください」と祈っても、裁きは確定です


(1)

「たとえモーセとサムエルがわたしの前に立っても、わたしの心はこの民に向かわない。この民をわたしの前から追い出し、立ち去らせよ。」


モーセとサムエルは背く人たちの赦しを祈り願った代表的な人たちです。そのような人たちが祈ったとしても、神様はエルサレムを裁き、それは徹底していて、この神様の怒りと裁きを見て世界が恐れおののくとさえ言われています。


(2-6)

『主はこう言われる。死に定められた者は死に、剣に定められた者は剣に、飢饉に定められた者は飢饉に、捕囚に定められた者は捕囚に。』(…中略…)わたしは彼らを、地のすべての王国にとって、おののきのもとにする。(…中略…)エルサレムよ、いったい、だれがおまえを深くあわれむだろう。だれがおまえのために嘆くだろう。だれが立ち寄って、おまえの安否を尋ねるだろう。(…中略…)わたしはおまえに手を伸ばし、おまえを滅ぼす。わたしはあわれむのに疲れた。


こんなに厳しい神様の裁きを語るエレミヤは人々から嫌われ迫害されます。エレミヤは孤独ですそれでも彼は神様に任命された者として語らずには入られません。彼の熱心というよりも、彼に与えられた神様のみことばは燃える火のようで、心の中にそっとしまって置くことができません。


(エレミヤ20.9)

『主のことばは宣べ伝えない。もう御名によっては語らない』と思っても、主のことばは私の心のうちで、骨の中に閉じ込められて、燃えさかる火のようになり、私は内にしまっておくのに耐えられません。もうできません。


エレミヤは普通の人間ですいくら預言者であっても人々から嫌われ攻撃されると痛み、傷つきます。彼はそれを悲しみ嘆いています。


(10)

ああ、悲しいことだ。私の母が私を産んだので、私は全地にとって争いの相手、また口論する者となっている。私は貸したことも、借りたこともないのに、皆が私を呪っている。


(15)

「主よ、あなたはよくご存じです。私を思い起こし、私を顧み、迫害する者たちに、私のために復讐してください。あなたの御怒りを遅くして、私を取り去らないでください。私があなたのためにそしりを受けていることを知ってください。


エレミヤが神様のみことばを喜んでいるのは事実です。でも、それゆえにこの世の人たちの調子を合わせることができずに孤独です。みことばを語らなければならないゆえの悲しみと嘆きもあることを神様に訴えています。


(16-18)

私はあなたのみことばが見つかったとき、それを食べました。そうして、あなたのみことばは、私にとって楽しみとなり、心の喜びとなりました。万軍の神、主よ、私はあなたの名で呼ばれているからです。私は、戯れる者がたむろする場に座ったり、喜び躍ったりしたことはありません。私はあなたの御手によって、ひとり座っていました。あなたが私を憤りで満たされたからですなぜ、私の痛みはいつまでも続き、私の打ち傷は治らず、癒えようもないのでしょう。あなたは、私にとって、欺く小川の流れ、当てにならない水のようになられるのですか。」


神様のみことばを教える人は孤独です。神のみことばはこの世の考えと違うからです。そしてこの世の人はみことばに反対するし、バカにします。だから多くの人が聖書のことばを知りつつ妥協したり、うすめたり、足したりして嫌われないように教える誘惑を受けています。神様はエレミヤに言われます。


(19-20)

もし、あなたが、卑しいことではなく、高貴なことを語るなら、あなたはわたしの口のようになる。この民に対して、わたしはあなたを堅固な青銅の城壁とする。彼らは、あなたと戦っても勝てない。わたしがあなたとともにいて、あなたを救い、あなたを助け出すからだ。──主のことば──


僕ら人間はいつも神様の真理とこの世の考えの中で揺れています。そんな僕らに聖書は言います。


(ローマ12.2)

この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分を変えていただきなさい。そうすれば、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります。


神様の裁きは徹底しています。人々が聞きたくない恐ろしい神の怒りと呪いはあります。それを身代わりに受けてくださったのがイエス様ですあの十字架の処刑こそ神様の徹底した怒りとさばきです


(ガラテヤ3:13)

キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。なぜなら、「木にかけられる者はすべてのろわれたものである。」と書いてあるからです


神様の徹底した怒りと裁きはイエス様の上に注がれました。イエス様を信じる人は救われます。信じた人はすでに神の裁きを受けた人と見なされます。(ローマ6.6-8)この世の終わりにはもう一度神様はこの世を裁かれます。僕らはこのイエス様の十字架による救いを伝えます。人から変なヤツ、と思われたとしても、神様の怒りと裁きから救うのはこのイエス様以外にはないからです


(使徒4:12)

この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです


1コリント1:23-24)

私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えるのですユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かでしょうが、しかし、ユダヤ人であってもギリシヤ人であっても、召された者にとっては、キリストは神の力、神の知恵なのです


イエス様による救いを伝えましょう。この世の人たちはバカにしてもです神様の怒りと裁きは確定しています。そして、救われる道も用意されています。神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます!(1テモテ2.4)

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