2023年1月5日木曜日

エレミヤ8章

 人間は月や星や太陽をまるで神様のように拝みます。当時のエルサレムの人たちもそうでした。が、天体は人を救うことはできません。人々はまるで神様のように太陽や月に仕え、伺ったりしていました。神様は彼らの望み通りにさせます。彼らの遺骨を彼らの神である日や月の前にさらしますが、何も起こりません。太陽も月も神ではないので、彼らを救うことはできません。


(1-2節)

「そのとき──主のことば──人々は、ユダの王たちの骨、首長たちの骨、祭司たちの骨、預言者たちの骨、エルサレムの住民の骨を、墓から取り出し、それらを、彼らが愛し、仕え、従い、伺いを立て、拝んだ日や月や天の万象の前にさらす。それらは集められることなく、葬られることもなく、地の面の肥やしとなる。


遺体が葬られずに放置されるのはユダヤではすごく屈辱的なことだそうです。神様は人を使って(敵国を使って)彼らのお望み通りに太陽や月の前に骨をさらします。そして、今までお伺いを立てたり、従ったりした太陽や月や星は彼らの命を救うことはありません。

生きて働いておられる神様は答えてくださいます。答えてくださるだけでなく、永遠のいのちを与えてくださいます。月や星は答えてくれません。月や星や太陽の前で骨が干からびて行くことは、相手が神ではなかったことを意味します。


この時代、神様のみことばに仕える預言者たちや祭司たちからおかしくなり、国中がおかしくなっていました。

これは、指導者たちに責任があります。神様を教える人たちから先におかしくなり、ウソを教えていました。


(8節)

どうして、あなたがたは、「私たちは知恵ある者、私たちには主の律法がある」と言えるのか。だが、見よ、書記たちの偽りの筆が、それを偽りにしてしまった。


10-11節)

身分の低い者から高い者まで、みな利得を貪り、預言者から祭司に至るまで、みな偽りを行っているからだ。彼らは、わたしの民の傷を簡単に手当てし、平安がないのに、「平安だ、平安だ」と言っている。


指導者たちは偶像を拝み天体を拝む人々の罪を指摘せず、彼らの罪を肯定し「平安だ、平安だ」と言っていました。偶像礼拝をしても大丈夫、姦淫しても大丈夫、盗んでもウソついても大丈夫と言っていたようです。結果、国民全体が確信を持って神様から離れていきました。指導者の中で「それは罪だから神様に戻ろう」という人はいなかったようですみんな利得を貪っていたからです。(10)目先の利得のためだけに平気で嘘をつく国になっていました。教える人も聞く人も利得のために暴走するようになっていました。


(4-7節)

あなたは、彼らに言え。『主はこう言われる。人は倒れたら、起き上がるものではないか。離れたら、帰って来るものではないか。

なぜ、この民エルサレムは、背信者となり、いつまでも背信を続けているのか。彼らは偽りを握りしめ、帰って来ることを拒む。

わたしは気をつけて聞いたが、彼らは正しくないことを語り、「私は何ということをしたのか」と言って自分の悪を悔いる者は、一人もいない。彼らはみな、戦いに突き進む馬のように、自分の走路に走り去る。空のこうのとりも、自分の季節を知っている。山鳩も燕も鶴も、自分の帰る時を守る。しかし、わが民は主の定めを知らない。


利得のために神様のことばを教えなくなった結果、神様から離れることになんの恥じらいもなくなっていました。


12

彼らは忌み嫌うべきことをして、恥を見たか。全く恥じもせず、辱めが何であるかも知らない。だから彼らは、倒れる者の中に倒れ、自分の刑罰の時に、よろめき倒れる。──は言われる。


聖書は罪を教えています。罪は人を滅ぼすからです。病人に「あなたには病気がある」と教えるのは病人が癒されるためです病気の人に「そのまま大丈夫」というのは見殺しにすることです良い医師は悪いところをちゃんと「悪いですこのままだと死にます」と言ってくれる医師です

同じように、神様は僕らに罪を教えています。罪がハッキリわかると神様に謝ることができるし、方向転換もできます。赦されて癒されることができます。でも、罪を指摘せず、「大丈夫、大丈夫」というと癒しも救いもありません。


イエス様が地上に来られて、僕らに教えてくださったことは「悔い改めなさい」です。罪を指摘するのは愛しているからです聖書は「罪の赦しを得させる悔い改めが、エルサレムから始まってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる。」とあります。(ルカ24.47)


そのままで大丈夫、というのは嘘です。愛ではありません。罪は赦されます。悔い改めて赦されるのが福音ですこの赦しの福音を拒否する人の死後は「苦しみもだえている」と書かれています。(ルカ16.25)永遠に苦しみ、もがき続けるくらいなら目を失ってでも神様のみもとに行くほうがいいです永遠の地獄を経験するなら片手になっても神様のみもとに行くほうがいいです。(マタイ5.29-30)


僕らが伝えるのは福音(良い知らせ)です将来に救いがないのに「平安だ、平安だ」とウソを教えるのは残酷です。そのままで大丈夫だよう、というのは見殺しです。罪のままだと神様の裁きに会います。その罪の裁きをイエス様が引き受けて赦しと命を与えてくださいました。


僕らに罪があります。そして、イエス様による赦しが用意されています。今日も罪を認めて悔い改めましょう。本当の愛は「悔い改めなさい」というメッセージです

0 件のコメント:

コメントを投稿