旧約聖書の中に「全焼のいけにえ」というのがあります。これは礼拝する人が、神様に「自分自身を全部」ささげることを現すいけにえです。実際には、傷のない最高の動物を連れて来て、その頭に手を置いて、自分自身の身代わりとしてその動物を殺して全部焼きます。ささげる人の心は「私のすべては神様のものです」「私の命全部をささげます」という献身の心です。神様に対する完全な献身、完全な服従、完全な明け渡しを表明しているのと同じです。エフタは敵アモン人と戦う時に、全焼のいけにえをささげます、と誓いました。
30 エフタは主に誓願を立てて言った。「もしあなたが確かにアモン人を私の手に与えてくださるなら、
31 私がアモン人のところから無事に帰って来たとき、私の家の戸口から私を迎えに出て来る、その者を主のものといたします。私はその者を全焼のいけにえとしてささげます。」
エフタは動物をささげるのではなく、家の戸口から出て来る「人間」をささげる、と誓いました。人間をいけにえにすることは聖書で禁じられています。ですが、エフタは勝たせてくれるなら、迎えに出てくる人をささげても良いと本気で思ったようです。これは軽い気持ちではなく、彼の献身の気持ちの現れでした。しかし、この誓いは後で大変な犠牲となり苦しみとなります。
32 こうして、エフタはアモン人のところに進んで行き、彼らと戦った。主は彼らをエフタの手に渡された。
33 ついでエフタは、アロエルからミニテに至るまでの二十の町を、またアベル・ケラミムに至るまでを、非常に激しく打った。こうして、アモン人はイスラエル人に屈服した。
34 エフタが、ミツパの自分の家に来たとき、なんと、自分の娘が、タンバリンを鳴らし、踊りながら迎えに出て来ているではないか。彼女はひとり子であって、エフタには彼女のほかに、男の子も女の子もなかった。
人間を殺してささげることは禁止されていますが、「全焼のいけにえ」として人をささげることはエフタの献身の現れです。神様は彼の一番大事な一人娘を生け贄としてささげることになりました。エフタにとって最高の人、一番大事な一人娘、かけがえのない命です。それを神様にささげることは最大の犠牲です。彼は苦しみます。
35 エフタは彼女を見るや、自分の着物を引き裂いて言った。「ああ、娘よ。あなたはほんとうに、私を打ちのめしてしまった。あなたは私を苦しめる者となった。私は主に向かって口を開いたのだから、もう取り消すことはできないのだ。」
彼は苦しみますが、娘本人は自分の命を神様にささげる気持ちがありました。
36 すると、娘は父に言った。「お父さま。あなたは主に対して口を開かれたのです。お口に出されたとおりのことを私にしてください。主があなたのために、あなたの敵アモン人に復讐なさったのですから。」
この後エフタは最大の宝である最愛の娘を神様にささげました。人間をいけにえにすることは禁止されているので、この事件には賛否両論あります。でも、神様は人間の最大の宝をささげるのふさわしい唯一の存在であることは事実です。
似たケースですが、神様はアブラハムをテストされたことがあります。最愛の一人子イサクを神様にささげることができるかどうかのテストです。
(旧約聖書 創世記 22:2)
神は仰せられた。「あなたの子、あなたの愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そしてわたしがあなたに示す一つの山の上で、全焼のいけにえとしてイサクをわたしにささげなさい。」
アブラハムはこのテストに合格しました。彼は本気で息子を神様にささげました。
(創世記 22:12-18)
御使いは仰せられた。「あなたの手を、その子に下してはならない。その子に何もしてはならない。今、わたしは、あなたが神を恐れることがよくわかった。あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しまないでわたしにささげた。」
(…中略…)あなたの子、あなたのひとり子を惜しまなかったから、わたしは確かにあなたを大いに祝福し、あなたの子孫を、空の星、海辺の砂のように数多く増し加えよう。そしてあなたの子孫は、その敵の門を勝ち取るであろう。あなたの子孫によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる。あなたがわたしの声に聞き従ったからである。」
一番大事にしている人やモノを惜しまずに手放して神様にささげることは、神様はそれ以上に価値のある方、崇めるべき方だと認めることです。ですが、イエス様は上から「ささげなさい」と要求する方ではありません。犠牲は僕らから神様へ、が先ではありません。まず神様が僕らのため、救い、赦すために「ご自分のいのち」を犠牲にしてくださいました。
(新約聖書 1ヨハネ 3:16)
キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。ですから私たちは、兄弟のために、いのちを捨てるべきです。
僕らが神様に献身して何かをささげるとすれば、それはイエス様がしてくださったことへの感謝です。「いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。」と聖書はいいます。(2コリント9.7)同時に神様は僕らが命をささげても惜しくない唯一の方です。
(新約聖書 ローマ 12:1)
そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。
神様はこの世のどんなものよりも尊い方です。神様のためにこの世の宝を手放すことは、もっと大きな祝福につながります。
(新約聖書 マタイ 19:29)
また、わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子、あるいは畑を捨てた者はすべて、その幾倍もを受け、また永遠のいのちを受け継ぎます。
神様のために宝を手放しましょう。神様はそれよりももっと大きなことをなさる方です。主のために手放す人はもっと大きな報いを受けます。主は偉大です!
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