聖書に、お正月の定めが書かれています。それが出エジプト記の12章です。
1主はエジプトの地でモーセとアロンに言われた。
2「この月をあなたがたの月の始まりとし、これをあなたがたがたの年の最初の月とせよ。
新共同訳は正月、と翻訳しました。
12:2「この月をあなたたちの正月とし、年の初めの月としなさい。
●聖書の意味がわかるための3つのポイント
この聖書の言葉の意味がちゃんとわかるためには、3つのことが必要です。
①自分の考えを脇に置いて神様の考えに明け渡すこと。
1つは自分の考えを脇に置いて、神様の言葉を受け入れることです。偏見とかこだわりとか、ポリシーを一度手放すことです。これは、最初はなかなか怖くてできないようです。受け入れちゃったらどうなるんだろう、という不安があります。でも、それは人間の勇気ではなくて、神ご自身である聖霊がそうさせてくださる、と聖書は言います。しかも、聖霊が与えられ助けられるときに、僕らには不安や恐れではなくて平安(安心)が与えられます。
(ガラテヤ4.22)
「しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安…」
自分の理解、自分の考えにこだわらないで、明け渡します、とお祈りすると聖書のことばがスゴくわかるようになります。そのように、神様の前にひざまずくこと、を聖書は「礼拝」と訳しています。「礼拝」という言葉を原文で調べると、ほとんどが、ひれ伏すことや明け渡すことという意味です。「礼拝」する時に聖書の意味が僕らの心に入ってきます。そこに恐れはないし、逆に聖書がわかることと愛や喜びが与えられることはセットです。
②話の流れの中で自然な意味で理解すること
聖霊によって教えてもらうんですが、人間は勝手なので、神様によって教えられた、とか、聖霊によってわかった、と言いつつ自分の考えとか好みがやっぱり入ってしまいます。その時に、聖書の話の流れの中で自然に読むのが大事。例えば、ニュースの映像とか動画は面白いところだけ、切り取とりがちです。例えば政治家が変な発言したら、そこだけ切り取って、どういう話の流れかというのは無視して、揚げ足をとったりします。でも、大事なのは、話の流れです。聖書も同じく、神様はその一行だけを言っているのではなく、全体の話の中で理解するのが大事です。
③聖書全体の教えの中で理解すること。
さらには、分厚いけど、聖書全体の教えの中で理解することが大事です。これは、段々できるようになってきます。
最初はわかるところだけ、食べられるところだけ、でスタートするんだけど、だんだん長くなるとつまみ食いでなく、聖書全体の教えの中で理解するようになります。
そのことを踏まえて神様が旧約聖書で年の初めにまず、すべきことを定められたところを読みます。1節です。
●「主」の意味
1主はエジプトの地でモーセとアロンに言われた。2「この月をあなたがたの月の始まりとし、これをあなたがたの月の始まりとし、これをあなたがたの年の最初の月とせよ。
「主」というのは、神様のことです。神様の名前を「主」と翻訳したんだけど、原文ではユダヤ人は恐れを持ってこの言葉を読まない。発音しない。だから、もともとどういう言葉だったかわからない。神聖な神様の名前です。モーセという人が神様とお会いした時、あなたの名は何ですか、と聞かれたらどう答えればいいですか?と質問しました。その時の神様の答えは「わたしはある」という答えでした。
(出エジプト3.14)
「わたしは『わたしはある』という者である。」
「主」の意味には主は存在の全て、命の全て、という意味があります。わたしは存在そのものである。
わたしは命そのもの、全てのものは、わたしが作り、わたしによって存在している、という意味があります。それが宇宙を作り、全ての命をお作りになった唯一の神様の名前です。
その宇宙を作り、全ての存在を支配している神様、主が言われます。
●当時の状況と神様の怒りと裁き
1主はエジプトの地でモーセとアロンに言われた。
当時、イスラエル人たちはエジプトで奴隷として苦しめられていました。王様ファラオはイスラエル人に男の子が生まれたらすぐ殺せ、と命令していました。何万、何十万の赤ちゃんが殺されたかわからない。そして、生き延びたとしても、彼らは奴隷として利用されるために生かされているだけでした。エジプトは虐待を続け、イスラエル人たちの体力気力を奪っていました。神様は命を作り、命を愛する神様です。だから殺すことを許さ図、殺してはならない、とおっしゃっています。(出エジプト20.18)神様は罪や悪をそのまま放っておく神様ではありません。悪に対して怒り、正しくさばく神様です。
神様はエジプトの王様ファラオに警告します。わたしはあなた方の全ての家の子どもを長男を殺し、エジプト中に大きな叫び声が起こる、という警告です。
(出エジプト記11.4-6)
4モーセは言った。「主はこう言われます。『真夜中ごろ、わたしはエジプトの中に出て行く。エジプトの地の長子は、王座に着いているファラオの長子から、ひき臼のうしろにいる女奴隷の長子、それに家畜の初子に至るまで、みな死ぬ。6そして、エジプト全土にわたって大きな叫びが起こる。
●唯一の助かる方法
その時に、神様の怒りと裁きを逃れる唯一の方法を与えてくださったのがこの12章です。その方法は、まずイスラエル人だけに知らせたんだけど、エジプト人や他の国籍の人もこれを信じて助かった人が大勢いたことが書かれています。その方法とは、身代わりに殺される羊を用意しなさい、というものです。
(3-7節)
3イスラエルの全会衆に次のように告げよ。 この月の十日に、それぞれが一族ごとに羊を、すなわち家ごとに羊を用意しなさい。4もしその家族が羊一匹の分より少ないのであれば、その人はすぐ隣の家の人と、人数に応じて取り分けなさい。一人ひとりが食べる分量に応じて、その羊を分けなければならない。5あなたがたの羊は、傷のない一歳の雄でなければならない。
6あなたがたは、この月の十四日まで、それをよく見守る。そしてイスラエルの会衆の集会全体は夕暮れにそれを屠り、7その血を取り、羊を食べる家々の二本の門柱と鴨居に塗らなければならない。
1月10日に殺すための小羊を用意して、それを4日間、よく見守ってそしていよいよ1月14日の夕暮れにみんなの前で家族が集まる前でその子羊を殺します。その血を抜いて器に取り、それを玄関の門柱とかもいに塗りなさい、という方法です。これが、神様の怒りと裁きが過ぎ越される方法です。玄関の血は、この家族のために、身代わりの羊が確かに殺された、という印です。
(12-14節)
12 その夜、わたしはエジプトの地を巡り、人から家畜に至るまで、エジプトの地のすべての長子を打ち、また、エジプトのすべての神々にさばきを下す。わたしは主である。13その血は、あなたがたがいる家の上で、あなたがたのためにしるしとなる。わたしはその血を見て、あなたがたのところを過ぎ越す。わたしがエジプトの地を打つとき、滅ぼす者のわざわいは、あなたがたには起こらない。14この日は、あなたがたにとって記念となる。あなたがたはその日を主への祭りとして祝い、代々守るべき永遠の掟として、これを祝わなければならない。
この方法は、その家の中にどんな人が住んでいるかの尺度は関係ありません。いい人が悪い人か、ではなく、何をなしたかどうかでもなく、神様が裁きを免除されるのは門柱とかもいに血が付いているかにかかっていました。その家の中にいる男の子は自分が神様に殺されるかどうかは、全て玄関に塗られた羊の血によっていることを身をもって体験しました。親にとっては、自分の愛する子が殺されず、神様の怒りに合わず、赦され、生かされるのは、この血によっているということを恐れを持って体験したし、それを毎年思い出して、まず、新年のはじめにそれをしなさい、と神様が定められました。
(14節)
14この日は、あなたがたにとって記念となる。あなたがたはその日を主への祭りとして祝い、代々守るべき永遠の掟として、これを祝わなければならない。
毎年、その家のお父さんは新年のはじめに羊の血を玄関に塗って、その意味を子どもたちに説明しました。これが神様が定めた新年行事です。
(出エジプト11.24-27)
24あなたがたはこのことを、あなたとあなたの子孫のための掟として永遠に守りなさい。25あなたがたは、主が約束どおりに与えてくださる地に入るとき、この儀式を守らなければならない。26あなたがたの子どもたちが『この儀式には、どういう意味があるのですか』と尋ねるとき、27あなたがたはこう答えなさい。『それは主の過越のいけにえだ。主がエジプトを打たれたとき、主はエジプトにいたイスラエル
の子らの家を過ぎ越して、私たちの家々を救ってくださったのだ。
●イエス様の十字架の死による救い
「主」という神様は全ての存在そのもの、という意味だとさっき言いましたが、イエス様はご自分のことを「わたしはある」とおっしゃり、「主」ご自身だと証言されています。(ヨハネ8.58)また、その神様であるイエス様のことを、あの殺された羊だと言います。神様の怒りと裁きが、羊を殺すことによって免除された出来事は、イエス様の十字架によって全ての人の罪が赦されることの予告でした。
(ヨハネ 1:29)
ヨハネは自分のほうにイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。
(1コリント5.7)
私たちの過越の子羊キリストは、すでに屠られたのです。
今、新年に羊を殺して玄関に塗ることはしないけど、イエス様が十字架で僕らの身代わりに死んでくださり、僕らが赦され、神様の怒りと裁きが免除されたことは、新年、まず家族でそして教会で思い出し、感謝すべきことです。二千年前にキリストが死なれたことが、私たちの唯一の救いです。
その時、血のついた家から玄関から出てはいけない、と神様は言われました。
(22節)
22ヒソプの束を一つ取って、鉢の中の血に浸し、その鉢の中の血を鴨居と二本の門柱に塗り付けなさい。あなたがたは、朝までだれ一人、自分の家の戸口から出てはならない。
子羊の血に守られて、許されて、神様に裁かれず、呪われず、祝福と命をいただいて生きことは、羊が殺された家にとどまる時に有効です。出てはならない、と神様はおっしゃいました。血による救い以外に方法がないからです。その家を出ても大丈夫ということはありません。これは僕らにも適用できます。イエス様の十字架の血による赦し以外に安全なところはありません。神様の血がついた家、教会を出ても大丈夫ということはありません。イエス様の救い以外には守りも祝福も命もないことをあらわしています。
今も、聖書によると、神の怒りと裁きは用意されています。私たちが死ななければならない神の罰があります。
いくら、神様の家を出て何かを成し遂げても、お金持ちになっても、永遠の命を失ったら何にもなりません。
神はイエス様の十字架の血をご覧になることによって、僕らへの裁きを過ぎ越してくださるのです。
神様は過越の羊を殺し、玄関に塗って子どもたちに教えることを、毎年の新年行事として定められました。僕らも、新年にまずイエス様の赦しと恵みを感謝して、子どもたちに、家族にそれを教え確認し合いましょう。この方以外には救いはありません。
今年も、イエス様の十字架の恵みに留まりましょう。いいひとか悪い人か、上手くいってもいかなかくても、十字架の赦しは完璧です。比べ合って威張ったり、落ち込んだりする必要はありません。いつも十字架のイエス様の恵みにとどまって感謝する一年でありますように。
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