自分の手で個人的に仕返しをしてはならないと神様は何度も僕らに教えておられます。24章ではダビデはサウルにいのちを狙われ続けましたが、それでも神様が与えてくださった王様だと認め、復讐しませんでした。
そんなダビデですが、仕返ししたい気持ちや怒りに捕らわれてしまうこともあります。25章では、自分を侮辱したナバルを憎み、怒り、家族を全員皆殺しにしようとして行動します。それでも神様はダビデを止めてくださいました。ナバルの妻アビガイルの命がけのとりなしによってダビデは復讐をやめます。復讐はむしろその人にとっての罪になります。(25.31-33)
ダビデは仕返ししないことを選ぶ経験の中で、神様が正しく裁いてくださることを確信して行きました。実際にナバルは神様によって殺されました。(25.38)ダビデは神様が正しく裁かれるという確信を成長させます。26章では再びサウル王に命を狙われます。しかし、この時はダビデは神様の守りを信じ切っていました。
(2-4節)
そこでサウルはすぐ、三千人のイスラエルの精鋭を率い、ジフの荒野にいるダビデを求めてジフの荒野へ下って行った。(…中略…)ダビデはサウルが自分を追って荒野に来たのを見たので、斥候を送り、サウルが確かに来たことを知った。
ダビデは逆にサウルに近づきます。殺すためではなく、サウルの命を大切にしていることを示すためです。部下のアビシャイは「私に殺させて下さい」(8節)と言いますが、ダビデはそれをやめさせます。なぜなら、必ず神様が神様のタイミングで罪人を裁かれるからです。
(9-11節)
しかしダビデはアビシャイに言った。「殺してはならない。主に油そそがれた方に手を下して、だれが無罪でおられよう。」ダビデは言った。「主は生きておられる。主は、必ず彼を打たれる。彼はその生涯の終わりに死ぬか、戦いに下ったときに滅ぼされるかだ。私が、主に油そそがれた方に手を下すなど、主の前に絶対にできないことだ。
ダビデは寝ているサウルの枕元に近づきました。それは、そこにあった槍と水差しを持って帰り、たとえ殺せる状況であってもサウルの命を大切にしていると伝えるのが目的でした。この対応は主の御心にかない、主がサウルの陣営を深く眠らせてダビデを守ってました。
(11-12節)
さあ、今は、あの枕もとにある槍と水差しとを取って行くことにしよう。」こうしてダビデはサウルの枕もとの槍と水差しとを取り、ふたりは立ち去ったが、だれひとりとしてこれを見た者も、気づいた者も、目をさました者もなかった。主が彼らを深い眠りに陥れられたので、みな眠りこけていたからである。
ダビデは槍と水差しを持って帰り、山の頂上から話しかけ、サウルの命を大切にしていることを伝えます。
22-24節
ダビデは答えて言った。「さあ、ここに王の槍があります。これを取りに、若者のひとりをよこしてください。主は、おのおの、その人の正しさと真実に報いてくださいます。主はきょう、あなたを私の手に渡されましたが、私は、主に油そそがれた方に、この手を下したくはありませんでした。きょう、私があなたのいのちをたいせつにしたように、主は私のいのちをたいせつにして、すべての苦しみから私を救い出してくださいます。」
ダビデは相手の間違いを伝えました。復讐しないことは放っておくことでもありません。間違いをきちんと語ることは大事なことです。しかもダビデはサウルを尊敬しつつ、憎しみや怒りから解放されつつ呼びかけました。
サウルは自分の間違いに気づかされてダビデを祝福します。
(25節)
サウルはダビデに言った。「わが子ダビデ。おまえに祝福があるように。おまえは多くのことをするだろうが、それはきっと成功しよう。」こうしてダビデは自分の旅を続け、サウルは自分の家へ帰って行った。
相手をゆるし、敵を愛し、しかも正しいことを伝えるのが神様の願いです。(コロサイ3.16)僕らには毎日憎しみや恨みが出てきます。そんな僕らにイエス様は「私たちに負い目のある人たちを赦します」と祈るようにおっしゃいます。(マタイ6.12)僕らもイエス様に赦され続けています。僕らがイエス様に赦されたことは他人を赦し祝福することに現れます。ダビデは確信しています。「私があなたのいのちをたいせつにしたように、主は私のいのちをたいせつにして、すべての苦しみから私を救い出してくださいます。」(24節)
イエス様が罪人のために十字架で命を捨てて赦し、愛し続けてくださったことは僕らの模範です。
(1ペテロ2.21-23)
キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残されました。キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見出されませんでした。ののしら れても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。
自分で仕返しして勝っても何の価値もありません。そこに神様の祝福はありません。逆に、敵をゆるし、敵を祝福し、敵を愛する決断をするなら、そこには神様の祝福と喜びが満ちています。ダビデが言う通りです。
恨んでいる人、仕返ししたい人はいるでしょうか。もしいるならその人の名前をカッコに入れてみましょう。
「私が( )のいのちをたいせつにしたように、主は私のいのちをたいせつにして、すべての苦しみから私を救い出してくださいます。」
主は僕らのいのちを大切にしてくださっています。同じように、僕らに負い目のある人を愛してくださっています。その罪人を愛し、罪人が救われるように、今日も祈っていて下さいます。
(コロサイ 3:13)
互いに忍び合い、だれかがほかの人に不満を抱くことがあっても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。
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