2024年2月29日木曜日

詩篇41篇

詩篇41篇


誠実さとは「私はちゃんとしてます」ではありません。むしろ「私はちゃんとできていないです」と小さな欠点も罪も内側の高ぶりも認めて告白することです。神様に喜ばれることは神様のあわれみに頼ることです。僕らの功績は義とされることには関係ありません。そもそも内側は不純物だらけで、神様の前に正しくきよい人など1人もいません。(ローマ3.10)では、どのように祈ったらいいのか?それは詩篇が教えてくれます。これは祈りのお手本です。



4節)

私は申し上げます。「主よあわれんでください。私のたましいを癒やしてください。私はあなたの前に罪ある者ですから。」



神様は、自分の罪を告白する砕かれた魂を喜び、赦し、立ち上がらせてくださいます。(詩篇51.17)僕たちがより頼むべきは自分の立派さではなくて、神様の憐れみとめぐみです。



10節から11節)

10,しかし主よ。あなたは私をあわれみ立ち上がらせてください。そうすれば彼らに報いを返せます。

11,このことによって私は知ります。あなたが私を喜んでおられることを。敵は私に向かって勝ちどきをあげません。



悪意に取りつかれた人は失敗を攻撃し、その人が死ぬことを願います。神様はそれとは正反対です。罪人の死を願わず、喜ばず、悔い改めて生きることを喜び願う方です。



(エゼキエル33.11)

わたしは生きている──神である主のことば──。わたしは決して悪しき者の死を喜ばない。悪しき者がその道から立ち返り、生きることを喜ぶ。立ち返れ。悪の道から立ち返れ。



悪口の拡散には殺意があります。その人は恨み、憎み、相手が死ぬことを願います。



5節から9節)

5,私の敵は私の悪口を言います。「いつ彼は死にその名は消え去るのだろうか。」

6,人が見舞いに来てもその人は噓を言い心のうちでは悪意を蓄え外に出てはそれを言いふらします。

7,私を憎む者はみな私についてともにささやき私に対して悪を企みます。

8,「邪悪なものが彼に取りついている。彼が床についたからにはもう二度と起き上がれまい。」

9,私が信頼した親しい友が私のパンを食べている者までが私に向かってかかとを上げます。



もし、このように誰かから攻撃されても仕返しする必要は全くありません。ただ、自分の欠点と失敗と罪を認めて神様に告白し憐れみを求めるだけです。自分の目にはちりどころか梁のような大きな罪が必ずあります。(マタイ7.3-5)僕らが喜ばれる理由はそれを認めて告白し憐れみに頼るからです。神様は必ず立ち上がらせてくださいます。正しい裁きは神様がなさいます。



10節から13節)

10,しかし主よ。あなたは私をあわれみ立ち上がらせてください。そうすれば彼らに報いを返せます。

11,このことによって私は知ります。あなたが私を喜んでおられることを。敵は私に向かって勝ちどきをあげません。

12,私の誠実さゆえに私を強く支えてください。いつまでもあなたの御前に立たせてください。

13,ほむべきかなイスラエルの神主。とこしえからとこしえまで。アーメン、アーメン。



誠実さとは「私はちゃんとしてます」ではありません。むしろ「私はちゃんとできていないです」と認めて告白することです。神様の憐れみは尽きることがありません。ハレルヤ!



2024年2月28日水曜日

詩篇40篇

 詩篇40篇


マスコミもSNSも悲惨なことや憤りをかきたてるような事を拡散しがちです。神様を知らない人は、どうしてもそちらに目が行くしし、「誰が悪い」と犯人探しをしがちです。ですが、神様の福音はそれとは真逆です。どんなに汚れ失敗し醜態を晒しても愛し、赦し、憐れみ、見放さすことなくきよめてくださる恵みの宣言です。


神様に祝福され幸せな人とは、神様がしてくださった愛と恵みを一つ一つ数え上げて感謝する人です。もちろん罪と悲惨が満ちているこの世界だしそれを悲しみ嫌う神様です。それでも、変わらずにそこに福音があります。幸いなのは罪から出る人のことばに振り回される人ではなく、尽きることのない神様の恵みを発見する人です。聖霊によって心の目と耳が開かれる時に初めてこの福音がわかるようになります。尽きることのない恵みを一つ一つ数えていくと、それはあまりにも多くて、数え切れません。



(4節から5節)

4,幸いなことよ主に信頼を置き高ぶる者や偽りに傾く者たちの方を向かない人。

5,わが神主よなんと多いことでしょう。あなたがなさった奇しいみわざと私たちへの計らいは。あなたに並ぶ者はありません。語ろうとしても告げようとしてもそれはあまりに多くて数えきれません。



神様は憐れみ深いお方です。そして、神様が僕らに願っておられるのも憐れみです。自分の理屈で解決しようとか、宗教熱心になることで神様を動かそうとすることではありません。ただ心の耳が開かれて、イエス様の赦しとあわれみと愛を知り、それを数え上げて感謝することです。



(6節-8節)

6,あなたはいけにえや穀物のささげ物をお喜びにはなりませんでした。あなたは私の耳を開いてくださいました。全焼のささげ物や罪のきよめのささげ物をあなたはお求めになりませんでした。

7,そのとき私は申し上げました。「今私はここに来ております。巻物の書に私のことが書いてあります。

8,わが神よ私はあなたのみこころを行うことを喜びとします。あなたのみおしえは私の心のうちにあります。」



上記6-8節の解説は新約聖書ヘブル人への手紙10章にあります。神様はいけにえに見られるような宗教儀式を喜ばず、ただイエス様のからだが十字架の上で一度だけささげられたことによって、完璧な罪の赦しを実現してくださいました。



(ヘブル10.8-10)

8,以上のとおり、キリストは「あなたは、いけにえやささげ物、全焼のささげ物や罪のきよめのささげ物、すなわち、律法にしたがって献げられる、いろいろな物を望まず、またそれらをお喜びになりませんでした」と言い、

9,それから、「今、わたしはあなたのみこころを行うために来ました」と言われました。第二のものを立てるために、初めのものを廃止されるのです。

10,このみこころにしたがって、イエス・キリストのからだが、ただ一度だけ献げられたことにより、私たちは聖なるものとされています。



僕らがイエス様の十字架によって赦されたことを感謝し、賛美し、その愛とめぐみを言い表すことを神様は喜んでくださいます。「私たちはイエスを通して、賛美のいけにえ、御名をたたえる唇の果実を、絶えず神にささげようではありませんか。」と聖書はすすめます。(ヘブル13.15)



(9節から10節)

9,私は大いなる会衆の中で義を喜び知らせます。ご覧ください。私は唇を押さえません。主よあなたはご存じです。

10,私はあなたの義を心の中におおい隠さずあなたの真実とあなたの救いを言い表します。私はあなたの恵みとあなたのまことを大いなる会衆に隠しません。



神様が100%です。僕らは0%です。賛美は神様がしてくださった愛と恵みの数々を言い表すことです。賛美は「頑張って歌うこと」でも「キレイで上手な音楽を作ること」でもありません。賛美も感謝も神様に栄光を帰すことです。賛美は神様が与えてくださるプレゼントです。



(3節)

主はこの口に授けてくださった。新しい歌を私たちの神への賛美を。多くの者は見て恐れ主に信頼するだろう。



感謝と賛美を歌うことは、神様の恵みを数え上げ、自分にも他の人たちにも教え、伝えることでもあります。それはあまりにも多くて終わりがありません。(5節)


今日も苦しみや悲しみがあるし自分のしくじりに落胆もします。でも、そんな心の貧しい者は幸いです。(マタイ5.3)貧しさの中でもイエス様の愛と憐れみは無限だからです。イエス様の十字架による赦しときよめは今日も完璧です。神様だけが僕らを救い出す方です。これが福音です。今日も神様が心の耳と目を開いてくださいますように。今日も福音を感謝しましょう。賛美しましょう。ハレルヤ!




2024年2月27日火曜日

詩篇39篇

 詩篇39篇


人生は短いです。あんなに元気だった人が突然召されていくことがあります。神様の前では人の人生は短くはかないものだといいます。



5節から6節)

5,ご覧ください。あなたは私の日数を手幅ほどにされました。あなたの御前では私の一生はないも同然です。人はみなしっかり立ってはいても実に空しいかぎりです。セラ

6,まことに人は幻のように歩き回りまことに空しく立ち騒ぎます。人は蓄えるがだれのものになるのか知りません。



人は地上では旅人であって、一時的に仮住まいに住んでいるようだともいいます。



12節後半)

私はあなたとともにいる旅人すべての先祖のように寄留の者なのです。



地上で勝利してもお金を貯めてもそれははかなく消えていきます。でも、イエス様と一緒に忍耐し、敵を愛し、イエス様と同じ聖なる性質を身につけていくは、永遠に続く価値のあることです


神様は僕らが地上のものに執着しなくなるためにわざわざ試練を与えてくださいます。わざわざ敵のような人を置いてくださり、相手を赦し忍耐し祝福するように訓練してくださいます。それが神様の御性質だからです。僕らも主の聖さとご栄光に参加するようになるからです。


ダビデは敵に囲まれて誹謗中傷され続けた人です。ですが、それは神様がダビデの高ぶりや貪りを取り去るために置いてくれた敵だと認識していました。それでののしられてもののしり返さず、苦しめられても脅すことをせず、忍耐したのがダビデです。ダビデは、愚か者から受ける攻撃を神様からの鞭だと理解していましたが、限界ギリギリの中で神様に助けを求め祈っています。



(8-12節)

8,私のすべての背きから私を助け出してください。私を愚か者のそしりの的としないでください。

9,私は黙し口を開きません。あなたがそうなさったからです。

10,どうかあなたのむちを取り去ってください。あなたの手に打たれて私は衰え果てました。

11,あなたは不義を責めて人を懲らしめシミが食うように人の欲するものをなくされます。実に人はみな空しいものです。セラ

12,主よ私の祈りを聞いてください。助けを求める叫びに耳を傾けてください。私の涙に黙っていないでください。私はあなたとともにいる旅人すべての先祖のように寄留の者なのです。



僕らもダビデと同じです。人生の目的は、敵に勝つことでも仕返しすることでもお金を貯めることでもありません。神様に愛される者として、神様に似た姿に変えられるように、わざわざ試練を与えられ、そのムチのよって成長し変えられていきます。「主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである。」(ヘブル12.6)とあります。


僕らが試練を通してますます明るく朗らかになれますように。それはイエス様によって赦され、きよめられ、敵を赦し愛することを学ぶことです。その先には永遠の命と祝福が用意されています。。

僕らの人生の目的はこれです。地上の勝利は目的ではありません。今日もイエス様と一緒に試練の中でも希望を持って忍耐し赦し愛するものと変えられますように。ハレルヤ!


2024年2月26日月曜日

詩篇38篇

 詩篇38篇