出エジプト3章
神様に用いられた先輩たちを見ると、自信満々の時はパッとしないけど挫折して弱くなったときに用いられる人が多いようです。モーセもそうでした。自分こそイスラエルを救うヒーローだ!と思って張り切っていましたが、人々からは「だれがおまえを、指導者やさばき人として私たちの上に任命したのか。」(2.14)と言われ、ファラオもモーセを殺そうと捜し、(2.15)逃亡者となりました。誰も知らない外国でひっそりと暮らして40年、高齢になり体力も気力も自信もなくなった時に神様はモーセを呼びます。
(7節から12節)
7,主は言われた。「わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみを確かに見、追い立てる者たちの前での彼らの叫びを聞いた。わたしは彼らの痛みを確かに知っている。
8,わたしが下って来たのは、エジプトの手から彼らを救い出し、その地から、広く良い地、乳と蜜の流れる地に、カナン人、ヒッタイト人、アモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人のいる場所に、彼らを導き上るためである。
9,今、見よ、イスラエルの子らの叫びはわたしに届いた。わたしはまた、エジプト人が彼らを虐げている有様を見た。
10,今、行け。わたしは、あなたをファラオのもとに遣わす。わたしの民、イスラエルの子らをエジプトから導き出せ。」
11,モーセは神に言った。「私は、いったい何者なのでしょう。ファラオのもとに行き、イスラエルの子らをエジプトから導き出さなければならないとは。」
12,神は仰せられた。「わたしが、あなたとともにいる。これが、あなたのためのしるしである。このわたしがあなたを遣わすのだ。あなたがこの民をエジプトから導き出すとき、あなたがたは、この山で神に仕えなければならない。」
モーセの力で救い出すのではなく、神様がモーセに話すべき言葉も力も与えてくださいます。400年以上前から神様はずっとイスラエルが救われる預言を与えていました。神様の御言葉は実現します。モーセが伝えるべき内容は神様の御言葉です。モーセの言葉ではありません。
(16節から17節)
16,行って、イスラエルの長老たちを集めて言え。『あなたがたの父祖の神、アブラハム、イサク、ヤコブの神、主が私に現れてこう言われた。「わたしは、あなたがたのこと、またエジプトであなたがたに対してなされていることを、必ず顧みる。
17,だからわたしは、あなたがたをエジプトでの苦しみから解放して、カナン人、ヒッタイト人、アモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人の地へ、乳と蜜の流れる地へ導き上ると言ったのである」と。』
モーセに力やことばやプランがあるかどうかはもはや関係ありません。神様に言われたこととそのままする、ただそれだけです。マザーテレサは言いました。「わたしは神様の手の中の小さな鉛筆にすぎません。神が考え、神が書くのです。」これは僕らも同じで、自分に自信がなくても考えがなくても大丈夫です。神様が一緒にいてその都度教えてくださるからです。たとえ迫害され、捕まることがあっても大丈夫、とイエスもおっしゃいます。
(マルコの福音書 13章11節)
人々があなたがたを捕らえて引き渡すとき、何を話そうかと、前もって心配するのはやめなさい。ただ、そのときあなたがたに与えられることを話しなさい。話すのはあなたがたではなく、聖霊です。
パウロは神様と一緒にいることの強さを「神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。」と言っています。(ローマ人への手紙 8章31節)神様は、あえて自信のない人、弱い人を用いようとされるようです。それは人間の力を誇ることがないためです。
(コリント人への手紙 第一 1章27~29節)
しかし神は、知恵ある者を恥じ入らせるために、この世の愚かな者を選び、強い者を恥じ入らせるために、この世の弱い者を選ばれました。有るものを無いものとするために、この世の取るに足りない者や見下されている者、すなわち無に等しい者を神は選ばれたのです。肉なる者がだれも神の御前で誇ることがないようにするためです。
僕らは弱くても、いや弱いからこそ神様の力が現れます。「私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。」(コリント人への手紙 第二 12章9節)今日もイエス様は「見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」と言っておられます。
自分の弱さや自信のなさ、お金のなさ、時間のなさは関係ありません。
ただ、神様が一緒にいてくださいます。必要なことばも力も神様のものです。安心して委ねましょう。身を任せましょう。大丈夫です!
0 件のコメント:
コメントを投稿