2024年5月31日金曜日

御前に立つとき ピアノアレンジ

メロディもいいけど、歌詞がすごくいいです。
1 御前(みまえ)に立つとき私のとなりに  とりなしを担う愛の大祭司  私の名前は その手に刻まれ 私を天から 引き離すことは  誰にもできない 2 こころみ激しく 罪に誘うとき  目を見上げて見れば そこに主の姿  罪なき主は死に 罪ある私は 赦され満たされ  ただ主を見上げる  ただ主を見上げる 3  小羊 主イェスは 常に義なる方  変わることのない めぐみあるお方  主の血で買われた 私の魂 私の命は キリストのもとに  かくまわれている
 

2024年5月30日木曜日

出エジプト38章

 出エジプト38章

2024年5月29日水曜日

出エジプト37章

 出エジプト37章


神様とお会いする会見の天幕を作る時、それは自分の好きなデザインとか形ではなく、神様がデザインし、神様が与えた寸法に従って全てを作るように命じられていました。神様は何度も「わたしがあなたに示す型と全く同じように造らなければならない。」とおっしゃいます。(25章9節、22節、40節、26章30節など多数)「よく注意して、山であなたに示された型どおりに」と強調されています。そして37章では神様おっしゃった通りにきっちり作ったことが書かれています。神様の願い通りのものになりました。幕屋が完成した時、聖書は「主がモーセに命じられたとおりである」と何度も何度も繰り返します。(40章16節. 19節、21節、23節、25節、27節、29節、32節)

神様の願い通りの天幕が出来ました。そこは神様との交わりの場所であり、神様の住まいです。そこに神様は現れ、人が神様とお会いし、神様のことばが与えられます。そこは神様のご臨在と栄光が満ちる場所となります。



(40章34節から35節)

34,そのとき、雲が会見の天幕をおおい、主の栄光が幕屋に満ちた。

35,モーセは会見の天幕に入ることができなかった。雲がその上にとどまり、主の栄光が幕屋に満ちていたからである。



今も神様の願いは、神様の思い通りの家を作ることです。新約聖書の時代は僕らの体も心も神様の天幕です。(1コリント6.19など)そして教会も神様の天幕です。



(エペソ2.21-22)

この方にあって、組み合わされた建物の全体が成長し、主にある聖なる宮となるのであり、このキリストにあって、あなたがたもともに建てられ、御霊によって神の御住まいとなるのです。



神様の栄光が表される天幕は僕ら自身ですが、主のご臨在とご栄光が表されるにあたって大事なことは、僕らが自分を捨て、自分のデザインや好きな形を手放し、自分の計画とか計算ではなく、神様の御言葉の通りに自分を明け渡し、作り替えていただくことです。神様の願い通りの私になり、教会になることです。神様の栄光は自分を手放して従う時に明らかになります。


神様が作りなさいとおっしゃった会見の天幕は天国のコピーです。(ヘブル8.5)僕らも天国の栄光を表すためには神様のおっしゃった通りの形になる必要があります。

自分の形にこだわったり、なりたい私にこだわるなら、そこに神様の栄光はありません。あなたはすでにキリスト共に葬られたのです、と聖書は繰り返します。(コロサイ2.12など多数)今生きているのはキリストが生きておられるのです。(ガラテヤ2.19-20)僕らの体も心も人生も計画も計算も全てイエス様の思われる通りに明け渡しましょう。(ローマ12.1)神様の栄光は僕らの中に表されます。ハレルヤ!


(ローマ人への手紙 12章1節)

ですから、兄弟たち、私は神のあわれみによって、あなたがたに勧めます。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。

2024年5月28日火曜日

出エジプト36.1-7

 出エジプト36.1-7


神様とお会いするための幕屋を作るとき、神様はその材料について「進んで献げる心のある人に、主への奉納物を持って来させなさい。」と言われました。(出エジプト記35章5節)神様が人の心を動かしてくださる時、人は喜んで献げるようになります。神様が人々の霊を促し、心を動かしてくださるからです。



(出エジプト記35章21節)

心を動かされた者、霊に促しを受けた者はみな、会見の天幕の仕事のため、そのあらゆる奉仕のため、また聖なる装束のために、主への奉納物を持って来た。



神様が心を動かしてくださると、献げることは喜びとなります。人々は毎日献げ、それは止まらず、余るほどになり、ついに持って来ないよう制止するほどになりました。



(出エジプト記 36章3~7節)

彼らは、聖所を造る奉仕の仕事のためにイスラエルの子らが持って来たすべての奉納物を、モーセから受け取った。しかしイスラエルの子らは、なおも朝ごとに、進んで献げるものを彼のところに持って来た。

そこで、聖所のすべての仕事をしていた知恵のある者はみな、それぞれ自分がしていた仕事から離れてやって来て、

モーセに告げて言った。「民は何度も持って来ます。主がせよと命じられた仕事のためには、あり余るほどのことです。」

それでモーセは命じて、宿営中に告げ知らせた。「男も女も、聖所の奉納物のためにこれ以上の仕事を行わないように。」こうして民は持って来るのをやめた。

手持ちの材料は、すべての仕事をするのに十分であり、あり余るほどであった。



僕らは、あれがない、お金がない、時間がない、力がない、人がいない、と思いがちです。が、神様が人を動かすときに不足など何もありません。問題は神様によって動かされていないことです。すべてを満たすことができる神様を本気で信じて求めていないことです。5000人を前にパンが足りない時もイエス様にとっては全く問題ではありませんでした。イエス様は言われます。



(マルコの福音書 8章19~21節)

わたしが五千人のために五つのパンを裂いたとき、パン切れを集めて、いくつのかごがいっぱいになりましたか。」彼らは答えた。「十二です。」「四千人のために七つのパンを裂いたときは、パン切れを集めて、いくつのかごがいっぱいになりましたか。」彼らは答えた。「七つです。」

イエスは言われた。「まだ悟らないのですか。」



神様の前ではすべてが溢れるばかりです。そして、地上でもその豊かさを見ることができます。神様によって僕らの心が動かされたときに喜びは溢れ出て、全てを献げたいと思うようになります。マケドニアの教会は極度に貧しく試練だらけの教会だったはずなのに、神様が心を動かされた時に喜びにあふれ、惜しみなく献げる人たちになりました。



(コリント人への手紙 第二 8章1~4節)

さて、兄弟たち。私たちは、マケドニアの諸教会に与えられた神の恵みを、あなたがたに知らせようと思います。彼らの満ちあふれる喜びと極度の貧しさは、苦しみによる激しい試練の中にあってもあふれ出て、惜しみなく施す富となりました。私は証しします。彼らは自ら進んで、力に応じて、また力以上に献げ、聖徒たちを支える奉仕の恵みにあずかりたいと、大変な熱意をもって私たちに懇願しました。



ありが足りない、これが足りないと思うのは、問題の中心ではありません。考えるべき大問題は本気で神様に求めているか、聖霊によって心が動かされているかです。献身しているか、本気の祈りがあるかどうかです。神様のご臨在が表れているか、御霊の実が表れているかです。神様の前には不足は何もありません。神の国とその義を求めましょう。定型文の、いのちのない、カタチばかりの祈りことではありません。御霊を求め、御霊によって神様と交わることです。何よりも優先し、十分な時間を神様と過ごすことです。その時に天の窓は開かれ、恵みが降り注ぎます。天ではあらゆるものが満ちています。神様の前では不足は何もありません。恵みは注がれます。求めましょう。ハレルヤ!



2024年5月27日月曜日

出エジプト34.12-24 忘れやすい私たちのために  5/26メッセージ

 出エジプト34.12-24 忘れやすい私たちのために  5/26メッセージ


今日は鎌田道子さんと斎藤保子さんの洗礼をします。神様がお二人のすべての罪を赦し、もう一度神様の子どもとなって、新しい命、しかも永遠の神様からの命を与えらたことを表します。全てが新しくなりました。過去のすべての罪は神様の前では思い出されることはなく、赦され、新しくされました。それを感謝し、喜び、表すのが洗礼です。人生の再出発の日です。


そして、今日読んだ箇所も、神様を裏切ったイスラエル人たちがもう一度赦されて再出発する箇所です。


●今までのあらすじ


イスラエル人たちは430年もエジプトの奴隷にされていたんだけど、神様に見放されることはなく、神様はたくさんの奇跡を起こし、彼らを救い出してくださいました。目の前で海が分かれてエジプトを脱出する、感動的な体験をしたばかりです。ところが、すぐに彼らは金で子牛を作ります。そして、自分達を救ってくれたのはこの金の牛だ、と言い始めます。


(32章8節)

彼らは自分たちのために鋳物の子牛を造り、それを伏し拝み、それにいけにえを献げ、『イスラエルよ、これがあなたをエジプトの地から導き上った、あなたの神々だ』と言っている。


神様は怒りました。こう言われます。


(32章9節-10節)

9,主はまた、モーセに言われた。「わたしはこの民を見た。これは実に、うなじを固くする民だ。

10,今は、わたしに任せよ。わたしの怒りが彼らに向かって燃え上がり、わたしが彼らを絶ち滅ぼすためだ。


神様は偶像を拝み始めた彼らを「絶ち滅ぼす」つまり全員殺す、と仰ったけど、モーセは必死で祈ります。平伏して赦しを求めます。それで神様は思い直してくださいました。

神様が最初に言われた皆殺し、絶滅は免れました。でも、裏切りの結果、約200万人中3000人が殺されました。


神様は偶像を愛し従うことを悲しみ妬み怒ります。神様の怒りは正しい怒りです。愛し合っていたはずの夫婦が相手を裏切って浮気するなら、怒り悲しみ妬み憎むのは正しいことです。神様の怒りや妬みはそれと同じです。


それでもモーセは自分の命をかけて平伏して懇願し、もう一度赦されました。


今日の箇所は裏切り直後の話です。壊れてしまった関係をやり直すために、神様がもう一度、偶像礼拝を禁止し、神様を忘れないように、第一にするための日を、祝祭日や週に一度の安息日のルールを与えてくださった箇所です。これらのルールは、すぐに神様を忘れて偶像に心が動いてしまう人間を守るためのものです。


どんなに失敗しても、過去にどんな罪があっても、神様はもう一度赦し、きよめ全てを新しくし、もう一度神様の言葉を私たちの心に書き記してくださいます。そしてもう一度、彼らに罪と不法思い出さないと宣言してくださっています。そして、神様を忘れないために、日時を決めて神様のための時間を取り分けるように言われました。


道子さんの罪は赦されました。保子さんの罪は赦されました。皆さんの罪は赦されました。イエス様を信じることで救われ、あなたの罪は思い出されない、と聖書は宣言します。それでも、僕らは忘れやすいし、見えない神様よりもこの世のものをまるで神様のように大事にし、偶像のように愛するようになりがちなものです。

神様の律法、教えは、忘れやすい僕らを守るためのものです。


●愛ゆえに妬む神様


(12-17)

12,あなたは、あなたが入って行くその地の住民と契約を結ばないように注意せよ。それがあなたのただ中で罠とならないようにするためだ。

13,いや、あなたがたは彼らの祭壇を打ち壊し、彼らの石の柱を打ち砕き、アシェラ像を切り倒さなければならない。

14,あなたは、ほかの神を拝んではならない。主は、その名がねたみであり、ねたみの神であるから。

15,あなたはその地の住民と契約を結ばないようにせよ。彼らは自分たちの神々と淫行をし、自分たちの神々にいけにえを献げ、あなたを招く。あなたは、そのいけにえを食べるようになる。

16,彼らの娘たちをあなたの息子たちの妻とするなら、その娘たちは自分たちの神々と淫行を行い、あなたの息子たちに自分たちの神々と淫行を行わせるようになる。

17,あなたは、自分のために鋳物の神々を造ってはならない。


今日僕らはイエス様を信じます。でも、いつも会社や学校にいます。友達の間でも会社でも見えないルールや圧力があるし、それに逆らうのは大変です。僕らは神様の光を祝福を届けるものとして遣わされていますが、でもそこは誘惑だらけで、神様の子どもが生きづらい世界です。


神様以外に幸せにしてくれそうなものはたくさんあります。この世の幸福をまるで神様のようにしてしまい、それに従い、それを信じ、そのために生きる誘惑が周りに満ちています。


ある小説の広告ですが、すごく的を得てると思いました。

※(写真)「教祖の作り方」「あなたの神は誰ですか?」「恋も不倫もアイドルも信者になってハマったら地獄へズブズブ」「日本人ほど神を信じたがる国民はいません」


恋をしたら幸せになれると思って、相手を優先してお金も時間も体力も使って、まるで教祖と信者のようにハマっていったら思ってたのと違った、よくある話です。不倫もアイドルも同じです。家族や友人がまるで教祖のようになってしまうこともあるかもしれません。

エジプトの奴隷から救われた時に、神様が最初に言われたことばはこちらです。


(出エジプト20章2-3節)

2,「わたしは、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出したあなたの神、主である。

3,あなたには、わたし以外に、ほかの神があってはならない。


神様の願いは神様一筋でいてほしいと言うことです。今日の箇所もその繰り返しです。


(34章14節)

あなたは、ほかの神を拝んではならない。主は、その名がねたみであり、ねたみの神であるから。


神様はねたむ神様です。愛する人が、契約して一つになった相手が裏切るなら神様は妬み怒り悲しみます。神様があなたを愛しています。あなたのために命を捨てるほどにです。神様はあなた一筋です。二股生活はできません。イエス・キリストは命を捨てるほどにあなたを愛し、私たちを愛しています。私たちが偶像を作り拝んでことを耐えられないとおっしゃる神様です。浮気を許さないのは正しい神様の愛です。それでも私たちは愚かで神様のことを忘れていきやすいものです。


●あなたを守るための祝祭日と捧げもの


祈りが聞かれて感動した体験はあっても、それは過去のことになって忘れていきます。皆さんの周りで、神様にあんなに献身的で燃えていた人が、いつの間にか神様から離れてしまい、どうしてだろう、と思うことあると思います。他人事ではない話です。イスラエルでさえ、神様の奇跡を何度も体験した人たちでさえ、神様から離れて偶像を慕いました。私たちも同じ人間です。定期的に集まって、神様の恵の言葉を聞き、教えを聞き、賛美し、お互いに神様への感謝を語り合い励まし合うのはことが必要です。

弱い彼らのため、そして僕らのために神様は集まる機会をセッティングしてくださいました


(出エジプト記 34章18節)

あなたは種なしパンの祭りを守らなければならない。アビブの月の定められた時に七日間、わたしが命じた種なしパンを食べる。あなたはアビブの月にエジプトを出たからである。


アビブの月っていうのはイスラエルの1月です。新年まず最初に種なしパンの祭りをします。この手順は12章-13章に書かれています。一月になったらまずは2週間かわいい子羊を家で飼育して、みんなの前でその子羊が殺されます。そしてその血が家の門柱と鴨居に塗られます。


エジプトで奴隷だった時に、神様がエジプトに裁きを下されました。エジプトの全世帯の長男は殺されました。でも、その時にイスラエルだけは子羊が身代わり殺すことで、救われました。

それを追体験するんです。そのために神様はこの祭りを守りなさいとおっしゃいます。忘れやすいからです。身代わりに子羊が殺されたことで神様の怒りと裁きは過ぎこされ、救われたことを思い出すんです。


この子羊はイエス様のことを表しています。僕らの罪と神様の怒りのために、身代わりに殺されたイエス様のことを聖書は「世の罪を取り除く神の小羊。」と言います。(ヨハネ1.29)私たちもパンを裂き、イエス様の十字架を思い出して、もう一度罪の赦しとイエス様の苦しみを思い出すのは僕らを守るためです。


イスラエル人たちがエジプトを脱出した時、パンを膨らます余裕もなかったことを思い出すために、アビブの月の14日から7日間仕事しないでタネを入れない膨らんでない煎餅のようなパンを質素な食事を食べ続けます。こうやって、神様がしてくださったことを思い出すために、定期的に追体験し、集まって語り合わないと忘れてしまうからです。それに続く教えも神様を忘れないための助けです。


(出エジプト記 34章19節)

最初に胎を開くものはすべて、わたしのものである。あなたの家畜の雄の初子はみな、牛も羊もそうである。


家畜が増えることは彼らの財産が増えることです。でも、それらはみんな神さまからの賜物です。自分で得たものではありません。だから神様に捧げることで、自分の力で生きてるのではなくて、神様が仕事を与え財産を与えてくださることを確認します。一番最初の一番良い大事なものを捧げることによって、もう一度全てが神様からのものだ、と確認でき、それによって信仰と喜びが成長します。律法に従って行動することで心が守られることもあります。


(26節)

あなたの土地から取れる初穂の最上のものを、あなたの神、主の家に持って来なければならない。


お給料もらった時に、最初にそれを取り分けて、神様への捧げものとして、捧げるとき、どうなるでしょうか?お金が減って、悔しい気持ちになるでしょうか?答えを知りたい人はぜひやってみてください。一番最初に、一番良いものを神様に捧げると僕らは確認できます。与えられたものは全部神様からの恵だ、とわかる体験をします。聞くだけでなくぜひやってみくください。心が変えられます。


反対に、自分の支払いを優先して、自分の生活を優先して、それで余ったものを献金する人は、神様との関係も、その程度に落ちて行きます。神様との関係の気持ちが、優先順位が低くななって行きます。自分のお金、自分の生活が優先です。神様とはお付き合い程度です。

神様から良いものが溢れてくる恵みと喜びと感動を体感したい人は、ぜひお勧めします、一番最初に、一番多い金額を神様のために捧げてみてください。人生の全てが、良いものの全てが神様から注がれることがわかります。捧げた金額よりも何倍も良いものが天から注がれるのを体験します。


僕の経験ですが、お金がない、困った困った足りない足りない、と言っている人はあまり礼拝すること感謝することに積極的ではない人に見えます。献金に対しても喜びがない人に見えます。

逆の人がいます。多くを捧げている人、その人がお金足りない、って言ってるのを僕はみたことがないです。むしろ感謝し、よろこび、豊かに生活しているように見えます。聖書にそう書いてありました。


(2コリント 9:6-8)

私はこう考えます。少しだけ蒔く者は、少しだけ刈り取り、豊かに蒔く者は、豊かに刈り取ります。

ひとりひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は喜んで与える人を愛してくださいます。

神は、あなたがたを、常にすべてのことに満ちたりて、すべての良いわざにあふれる者とするために、あらゆる恵みをあふれるばかり与えることのできる方です。


「豊かに蒔く者は、豊かに刈り取ります。」「神は、あなたがたを、常にすべてのことに満ちたりて、すべての良いわざにあふれる者とする」「あらゆる恵みをあふれるばかり与える」聖書がそう言っています。喜んで神様に一番良いものを、一番多く捧げる人は豊かにされます。いくら捧げたら良いのか、教会の中でも議論はありますが、はっきり言えることは捧げると祝福されることです。聖書はそう明言しています。


(出エジプト記 34章21~22節)

あなたは六日間は働き、七日目には休まなければならない。耕作の時にも刈り入れの時にも、休まなければならない。

小麦の刈り入れの初穂のためには七週の祭りを、年の変わり目には収穫祭を行わなければならない。


刈り入れの時、一番忙しい時です。でも、神様は忙しい時期こそやすみなさいとおっしゃいます。それは収穫があなたの力ではないことを確認するためです。そうじゃないと私が頑張って働いたから生きてるように誤解し神様を忘れていくからです。


僕たちも同じです。仕事を離れて神様を賛美し、神様の御言葉の前にでなければすぐに忘れて行きます。このルールは神様の恵みです。


最初に収穫が与えられたとき、まず神様のとこに持ってください。そして秋に大変たくさん収穫が与えられた時も神様も特に持ってきなさい。それらが全部神様からのめぐみだと忘れないためです。このぐらい徹底しないと私たちはすぐにズレていきやすいものです。


(出エジプト記 34章26節)

あなたの土地から取れる初穂の最上のものを、あなたの神、主の家に持って来なければならない。


(出エジプト記 34章22~23節)

小麦の刈り入れの初穂のためには七週の祭りを、年の変わり目には収穫祭を行わなければならない。

年に三度、男子はみな、イスラエルの神、主、主の前に出なければならない。


この当時、敵に囲まれているイスラエルで、場所によっては長旅をして、仕事を置いて、神様の前に行きます。家や仕事をほったらかしにして、礼拝に行くのはリスクがありすぎるんじゃないか、と普通は心配になります。当時、男性だけが礼拝のために集まり、女性と子供が村に残されることがありました。しかも、敵に囲まれている場所です。あまりに危険じゃないかと思うのは当然です。


しかも年に3回長期休暇をとって、神様の前に出なさい、と言われています。その懸念について神様は言われます。


(出エジプト記 34章24節)

わたしがあなたの前から異邦の民を追い出し、あなたの国境を広げるので、あなたが年に三度、あなたの神、主の前に出ようとして上って行くときも、あなたの地を欲しがる者はだれもいない


安全保障も全部神様の御手にあるからだから、礼拝のために時間を使っても大丈夫、家や土地を敵に取られる心配はありません。すべての人の心は神の手の中にあります。神は敵の行動にも、敵の欲望にも制約をかけることができます。僕らは心配が動機となって動きがちです。神様のためよりも、心配だからあれしなきゃ、これしなきゃ、と思います。でも、一番大事なことは、神様の前に出て感謝し、神様のことばに聞き、自分を委ねることです。その時に、全ての心配事から神様は守ってくださいます。イエス様は言われました。


(マタイ6章31-34節)

31,ですから、何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようかと言って、心配しなくてよいのです。

32,これらのものはすべて、異邦人が切に求めているものです。あなたがたにこれらのものすべてが必要であることは、あなたがたの天の父が知っておられます。

33,まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。

34,ですから、明日のことまで心配しなくてよいのです。


警戒するべき敵は、自分の力や能力や計画で生きる高ぶりです。神様以外を偶像化してしまうことです。これこそ警戒すべき敵です。だから僕らは定期的に手を止めて、身を低くして、神様の前にいく時間が必要なんです。礼拝とはヘブル語で平伏す意味です。大きくなりすぎた自分がもう一度、神様の前にへりくだり、感謝するための時間が必要です。


(出エジプト記 34章21節)

あなたは六日間は働き、七日目には休まなければならない。耕作の時にも刈り入れの時にも、休まなければならない。


忙しい時に心がけるべきはどうやって仕事をこなすかではなくて、どうやって神様だけに頼るか、どうやって神様を優先するかです。


●安息日の律法は今も守るべき?


安息日の法則はまだ適用されていますか?日曜は仕事を休むのは義務ですか?皆さん、なんて答えますか?


旧約聖書、というのは古い契約、略して、旧約です。新約聖書は新しい契約、略して新約です。

で、よく議論になるのが、新約の時代、今のこの時代は安息日を守るのが義務ですか?多くの人がそれを尋ねるし迷います。そして、日曜日が私たちの安息日ですか?よくある質問です。それらの質問はすべて私たちにとって重要です。

答えは聖書にあります。聖書は言います。


(2コリント3.6)

6,神は私たちに、新しい契約に仕える者となる資格を下さいました。文字に仕える者ではなく、御霊に仕える者となる資格です。文字は殺し、御霊は生かすからです。


イエス様を信じたお二人は、そして私たちは、何に仕えているか?聖書は、「文字に仕える者ではなく、御霊に仕える者」と言います。


しかも、文字は殺す、と書かれています。守らないなら、あなたは呪われる、というルールが律法です。安息日を守らないなら、あなたは神からの祝福を失い、あなた自身に神からの呪いをもたらします。


はっきり言えば、旧約聖書の律法はあなたを殺す、ということです。あなたの違反を告訴し、あなたは神様に従っていない呪われた人と宣言します。


でも、続きにあるのは「御霊は生かすからです。」僕らはルールに従って仕えているのではなく、神様の御霊に仕え、従います。

それは外部から圧力で、そうしないと呪われるぞ、と脅すものではなく、内部から、喜んで、安心して、もっと神様の近くにいたいと思うものです。

神様の御霊をいただいています。神様の御霊が僕らの中に生きています。もう僕らが生きているのではく、御霊が生きています。

モーセの時代には、神様の教えは石の板に書かれました。でも、僕らは心に神様の教えが書かれいます


ああ、神様の近くにいたい、神様の恵に感謝し賛美したい、と思っています。皆さんの中におられる聖霊がそう願っています。仕事だ、用事だ、教会は後回しだ、と思う人がいたら、それは御霊の思いではないです。まして、教会の人たちめんどくさい、という人は御霊の願いではないし、その人には喜びも平安もないでしょう。


反対に、日曜出勤があっても、ああ、残念だ、神様の近くにいたいのに、今日は神様を賛美することができない、兄弟姉妹を愛することができない、と思う人はそれは御霊の思い、神様の願いです。その人には喜びと平安があります。


今、安息日や祝祭日、そして献金は罰則のあるルールではありません。僕らの心の中には神様の思いが与えられています。礼拝したい、集まりたい、賛美したい神様と人を愛した、そうしたい、という思いが与えられています。聖霊の思いです。時間を取り分けて神様を愛したい、神様のために手を置いて、仕事は一旦おいて神様の時間を過ごしたい、心からそう願っているはずです。内側から溢れる願いです。これは神様の願いです。


聖霊が願ってます。互いに愛し合い、助け合いたい、一番良いものを神様に捧げたい、そう願っています。聖霊が願っています。その神様の願いに合わせて自分を明け渡していくほどに、僕らは時間も財産も神様に捧げて行きます。教会の集会も、組織も、申し合わせも、規則や縛りやルールではありません。聖霊が願いがそこに現れています。集まることも捧げることも、面倒な義務や惰性にもなり得るし、御霊の喜びと感謝と愛の表れにもなります。


洗礼を受けたお二人がこれからも守られますように。神様の愛に留まり、神様からずれていかないために、集まって、時間をとって、互いに助け合うことができますように。


先に洗礼を受けた僕らもみなさんも、ズレていくことがありませんように。イスラエルでさえ金の子牛を拝んだのなら、僕らもその性質はあります。御霊によって歩みましょう。教会の全ての集まりが礼拝が、献金が、奉仕が御霊の喜びでありますように。神様の恵みから離れないためのものでありますように。