僕も教えていますが、教えていて楽しいし、他の先生方からも教えられることばかりです。夏に集まるカンファレンスでみんなと対面で一緒に賛美を捧げるときは、まるで天国のような感じです。ますますきよめられて、用いられるように祈っています。すべての人たちが膝をかがめて、イエス様の栄光をほめたたえることができますように、祈りつつ願いつつ。新入生募集です。
2025年2月28日金曜日
2025年2月27日木曜日
レビ16章
レビ16章
嫌なことをする人と一緒にいたくないし、裏切る人と一緒にはいられないのが人間です。神様はそれよりもっと罪を忌み嫌う方なのに、それなのにイスラエル人たちを「慕って、彼らを愛され」(申命記10.15)「彼らのただ中に住むために、彼らをエジプトの地から導き出した」と言われます。(出エジプト20.45-46)汚れや背きを知りながら、それでも一緒にいたいと願う神様です。汚れた人たちを敬遠するのではなく、彼らのところに来て、彼らの真ん中にいてくださる神様です。レビ記は会見の天幕のことを「彼らの汚れのただ中に、彼らとともにある会見の天幕」と言います。(16)イエス様が汚れたこの世界に住まわれたのと同じです。
"彼はイスラエルの子らの汚れと背き、すなわちそのすべての罪を除いて、聖所のための宥めを行う。彼らの汚れのただ中に、彼らとともにある会見の天幕にも、このようにする。"
レビ記 16章16節
水と油が交わらないように、聖なる神様と汚れた人間が交わることはできません。水と油なら分離するだけですが、聖なる神様と汚れた人間の場合は、神様が「焼き尽くす火」として汚れた人間を滅ぼしてしまいます。実際にアロンの2人の息子は汚れたまま聖なる所に近づいて神様の火によって殺されてしまいました。
"すると火が主の前から出て来て、彼らを焼き尽くした。それで彼らは主の前で死んだ。"
レビ記 10章2節
この事件があってから、神様は改めておっしゃいます。
汚れた人間と一緒にいたいけども、でも彼らが死ぬことがないために、罪のきよめを行いなさい、とです。
"アロンの二人の息子の死後、すなわち、彼らが主の前に近づいて死んだ後、主はモーセに告げられた。
主はモーセに言われた。「あなたの兄アロンに告げよ。垂れ幕の内側の聖所、すなわち箱の上の『宥めの蓋』の前に、時をわきまえずに入ることがないようにせよ。死ぬことのないようにするためである。『宥めの蓋』の上で、わたしは雲の中に現れるからである。
アロンは次のようにして聖所に入る。罪のきよめのささげ物として若い雄牛、また全焼のささげ物として雄羊を携え、
聖なる亜麻布の長服を着て、亜麻布のももひきを履き、亜麻布の飾り帯を締め、亜麻布のかぶり物をかぶる。これらが聖なる装束であり、彼はからだに水を浴びて、それらを着ける。
彼はまた、イスラエルの会衆から、雄やぎ二匹を罪のきよめのささげ物として、雄羊一匹を全焼のささげ物として取る。"
レビ記 16章1~5節
神様は汚れを憎み、滅ぼす方なのに、汚れた罪人を愛し、きよめて一緒にいたいと願っておられます。僕らが簡単に「嫌なことをする人と一緒にいたくない」と言うのとは全然違います。
神様はこの汚れた世を愛して、この世界にイエス様を送り、イエス様の流された血によってきよめ、救い、僕らと一緒に住んでくださいます。
"神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。"
ヨハネの福音書 3章16~17節
汚れた僕らが殺されない理由は、ただイエス様がいけにえとなり、血を流してきよめてくださったからです。レビ16章の一番良い解説書はヘブル人への手紙の9-10章です。
"また、雄やぎと子牛の血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度だけ聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられました。
雄やぎと雄牛の血や、若い雌牛の灰を汚れた人々に振りかけると、それが聖なるものとする働きをして、からだをきよいものにするのなら、
まして、キリストが傷のないご自分を、とこしえの御霊によって神にお献げになったその血は、どれだけ私たちの良心をきよめて死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者にすることでしょうか。"
ヘブル人への手紙 9章12~14節
"こういうわけで、兄弟たち。私たちはイエスの血によって大胆に聖所に入ることができます。"
ヘブル人への手紙 10章19節
"心に血が振りかけられて、邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われ、全き信仰をもって真心から神に近づこうではありませんか。"
ヘブル人への手紙 10章22節
汚れた人を遠ざけるのでなく、滅ぼすのでもなく、ご自分が血を流して受け入れ、愛し、慕ってくださる神様です。すぐに人を裁き、見下し、避ける僕らとは全然違います。神様は「彼らの汚れのただ中に、彼らとともにある」お方です。(16)あの人とは距離を置こう、関わらないようにしよう、と思うなら、もう一度イエス様がどんな方か考えてみましょう。汚れや背きを知りながら、それでも一緒にいたいと願う神様です。敬遠するのではなく、彼らのところに来て、彼らの真ん中にいてくださる神様です。苦しみの血を流してくださったのは僕らではなくイエス様です。感謝などという人間のことばには入らないです。言葉にできない、大きすぎる神様です。そのイエス様が僕らの中に住んでおられます。もう、僕らが生きているのではなく、そのイエス様が生きておられます。恐れつつ、委ねましょう。誰も見たことも考えたこともないことが始まっています。ハレルヤ!
2025年2月26日水曜日
レビ15.16-33
レビ15.16-33
旧約聖書の律法によると、生理中の血も精液もそれに触れた人は汚れ、必要な期間を経てからきよめられる必要がありました。僕らの感覚では「なんで生理や精液が神様の前で汚れているの?」と思います。これは新約の時代の最初の教会でも論争になりました。結論から書くと、今は異邦人(イスラエル人以外)クリスチャンにとってこれらの律法は適用されません。だから、生理でも射精してもそれが罪だということはありません。安心しましょう。(使徒15.28-29)
まず、イエス様は律法を終了させました。というか、イエス様が最後の、そして完璧ないけにえとなり全ての罪と汚れをきよめてくださったので、もう儀式的な手順によってきよめられることは必要なくなりました。「イエス・キリストのからだが、ただ一度だけ献げられたことにより、私たちは聖なるものとされています。」(ヘブル10.10)「なぜなら、キリストは聖なるものとされる人々を、一つのささげ物によって永遠に完成されたからです。」(ヘブル10.14)
でも同時に、イエス様はそのような儀式的な汚れよりも、心の汚れの方が問題だとされました。心がきよめられることこそが重要です。(マタイ23.26-29など)レビ記は今日も僕らへのメッセージです。神様がどれほど僕らにきよさを願っておられるかがわかります。
(16-24)
16,男が精を漏らしたときは全身に水を浴びる。その人は夕方まで汚れる。
17,精が付いた衣服と皮はすべて、水で洗う。それは夕方まで汚れる。
18,男が女と寝て交わったなら、二人はともに水を浴びる。彼らは夕方まで汚れる。
19,女に漏出があり、漏出物がからだからの血であるなら、彼女は七日間、月のさわりの状態になる。だれでも彼女に触れる者は夕方まで汚れる。
20,彼女の月のさわりの時に使った寝床は全体が汚れる。また、彼女が座った物もすべて汚れる。
21,彼女の床に触れた者はだれでも自分の衣服を洗い、水を浴びなければならない。その人は夕方まで汚れる。
22,また、何であれ、彼女が座った物に触れた人はだれでも自分の衣服を洗い、水を浴びる。その人は夕方まで汚れる。
23,彼女の床であれ座った物であれ、それに触れたなら、その人は夕方まで汚れる。
24,また、もしも男が彼女と寝るようなことがあるなら、彼女の月のさわりが移って、その人は七日間汚れる。彼が寝る床も全体が汚れる。
驚いたことに、生理や精液が個人の汚れの問題だと思ったら、それは神様の聖なる住まいの汚れだと聖書は言います。
(31)
あなたがたは、イスラエルの子らをその汚れから離れさせなさい。彼らが、彼らのただ中にあるわたしの幕屋を汚し、自分たちの汚れで死ぬことのないようにするためである。」
個人の汚れが「彼らのただ中にあるわたしの幕屋を汚し…」と言われています。イスラエル人たちはもはや個人ではなく、神様のものでした。彼らの汚れは神様の幕屋の汚れです。これは何度も繰り返されている主張です。
例えば、死人に触れて汚れた人がいることは「主の幕屋を汚す」ことでした。(レビ19.13)イスラエル人たちが自分の罪や汚れをきよめることは、主とお会いする天幕をきよめるためでした。(レビ16.16)汚れた人を追放する理由は「わたしがそのただ中に住む宿営を、彼らが汚さないように」するためです。(民数記5.3)イスラエルの真ん中に神様が住んでいました。そして、イスラエルは共同体として神様のものでした。要するに、彼らは神様とめちゃくちゃ近く、ほとんど一体とみなされた人たちです。だから、個人の罪は個人のことではなくて、直接、聖なる幕屋を汚す罪と言われます。しかも、それによって彼らが神様に殺される可能性もありました。神様は「彼らが、彼らのただ中にあるわたしの幕屋を汚し、自分たちの汚れで死ぬことのないようにするためである。」と言われます。(13)
僕ら個人が個人のものでなく、聖なる神様の所有であり、その神殿であることは、新約の時代になっても同じです。特に、1コリントの手紙にはこの考えがはっきり書かれています。教会全体が神様の神殿です。
(1コリント 3:16-17)
「あなたがたは、自分が神の宮であり、神の御霊が自分のうちに住んでおられることを知らないのですか。
もし、だれかが神の宮を壊すなら、神がその人を滅ぼされます。神の宮は聖なるものだからです。あなたがたは、その宮です。」
ここでは信者の共同体である教会が神の住まわれる聖なる場所と言われています。しかも「宮を壊すなら、神がその人を滅ぼされます。」とあるので、個人の罪が教会全体に悪影響を及ぼし、もし教会を分裂させたり破壊することがあるなら、その人のいのちに関わるほどの大きな罪であることがわかります。
(1コリント 6:19)
あなたがたは知らないのですか。あなたがたのからだは、あなたがたのうちにおられる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたはもはや自分自身のものではありません。
そして僕らの「体」自体が神の神殿(宮)です。僕らの体に聖霊が住んでおられます。文脈的には性的な不品行を避けることの話だけど、体を神様の神殿としてきよく保つことが教えられています。
つまり、新約聖書で「神の聖なる場所」とはエルサレムの神殿ではなく、信者自身であり教会全体であることがわかります。だから今も個人の罪は教会全体に悪影響を与え汚します。
レビ記では「自分たちの汚れで死ぬことのないようにするため」(13)とありますが、新約聖書でも同じです。実際「神様の聖さが汚れた人間を殺してしまう」箇所はいくつかあります。例えば、聖餐を軽んじたコリント教会の人々には弱い人や病人や死んだ人たちが大勢いたようです。
(1コリント11.29-30)
29,みからだをわきまえないで食べ、また飲む者は、自分自身に対するさばきを食べ、また飲むことになるのです。
30,あなたがたの中に弱い者や病人が多く、死んだ者たちもかなりいるのは、そのためです。
実際に淫らなことや派閥争いが横行しイエス様を軽んじていたコリント教会は病気になったり死んだ人が大勢いたようです。
レビ記が「彼らが、彼らのただ中にあるわたしの幕屋を汚し、自分たちの汚れで死ぬことのないようにするためである。」(13)と教えるのと同じです。神様が聖なる神様であって、その方を軽んじ、罪を放置するなら神様の裁きがあることは他の箇所にも明記されています。
(ヘブル10.26-29)
26,もし私たちが、真理の知識を受けた後、進んで罪にとどまり続けるなら、もはや罪のきよめのためにはいけにえは残されておらず、
27,ただ、さばきと、逆らう者たちを焼き尽くす激しい火を、恐れながら待つしかありません。(…中略…)まして、神の御子を踏みつけ、自分を聖なるものとした契約の血を汚れたものと見なし、恵みの御霊を侮る者は、いかに重い処罰に値するかが分かるでしょう。
僕らは神様のものとなりました。僕らの体は神様の聖なる体です。そして、個人の体はイエス様の体につながる一部です。かしらと器官、木と枝のようです。だから神様の恵みを知りながら故意に罪を犯し続けるなら、「焼き尽くす火」のような神の裁きが待っている、という強い警告があります。僕らが自分をきよくするのは、イエス様のからだをきよくするためです。今日もクリーンでいましょう。ゴミを発見したらすぐ手放し捨てましょう。攻撃されたら赦しましょう。傷つけられたら祝福で返しましょう。僕らの体はイエス様の体、僕らの心はイエス様の心です。今日もきよくありますように。ハレルヤ!
2025年2月25日火曜日
レビ15章
レビ15章
僕らが「いいじゃんこのくらい」って思っても、どんな汚れも罪も神様にとっては忌まわしくて、放置できません。特に性的なきよさを神様は強調していて、今日の箇所は特に性器をきよく保つように教えています。新改訳は「隠しどころ」と翻訳し、新共同訳は「陰部」と訳しています。それはいのちを生み出す大切な器官です。
性器から何かの漏出液があるなら、その人は汚れているものとして扱われます。
原因は書いてないけど治った時には「罪のきよめのささげ物」をするように言われていて、その漏出は罪が原因で起こるようです。その人は汚れた人として扱われ、その人が触れたものも汚れるほどです。なんと、その人が触れたもの(寝床や座ったもの)に触れた人さえ汚れます。
(レビ記 15章4~6節)
"漏出を病む者が寝た床は全体が汚れる。またその人が座った物もすべて汚れる。
その床に触れた者はだれでも自分の衣服を洗い、水を浴びる。その人は夕方まで汚れる。
漏出を病む者が座った物の上に座った者は、自分の衣服を洗い、水を浴びる。その人は夕方まで汚れる。"
イエス様は罪を忌み嫌い、僕らに対しても「肉によって汚されたその下着さえも忌みきらいなさい。」とおっしゃいます。(ユダ1.23)隠しどころから漏出の人が触れた土器は壊しなさい(12)と言われるほどです。
"漏出を病む者が乗った鞍は全体が汚れる。
また、何であれ、その人の下にあった物に触れた人はだれでも夕方まで汚れる。また、それを運んだ者も自分の衣服を洗い、水を浴びる。その人は夕方まで汚れる。また、漏出を病む者が水で手を洗わずに触れた人はみな、自分の衣服を洗い、水を浴びる。その人は夕方まで汚れる。
漏出を病む者が触れた土の器は砕く。木の器はどれも水で洗う。"
レビ記 15章9~12節
この当時、性器から漏出があった人は自分が触ったもの全てが汚れていくことを自覚していたと思います。民数記では「宿営の外に追い出せ。」とさえ命令されています。その人が宿営内にいるなら汚れが広がるからです。
"「イスラエルの子らに命じて、ツァラアトに冒された者、漏出を病む者、死体によって身を汚している者をすべて宿営の外に追い出せ。
男でも女でも追い出し、彼らを宿営の外に追い出し、わたしがそのただ中に住む宿営を、彼らが汚さないようにしなければならない。」"
民数記 5章2~3節
レビ記は性的な病気を特に汚れたものとして書いています。本人もそれを自覚し、恥じ、人前に出れず、自分にがっかりしながら生活していたと思います。それでも神様はきよめられることを教えています。ある女性は漏出が12年も止まらずに隠れるような生活をしていました。…が、ある時イエス様の服に触りに行きました。自分が触れるものは全て汚れるのを知りながら、でも、自分が触れるべき相手はイエス様だし、触れるならきよめられると信じたからです。
"すると見よ。十二年の間長血をわずらっている女の人が、イエスのうしろから近づいて、その衣の房に触れた。
「この方の衣に触れさえすれば、私は救われる」と心のうちで考えたからである。
イエスは振り向いて、彼女を見て言われた。「娘よ、しっかりしなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです。」すると、その時から彼女は癒やされた。"
マタイの福音書 9章20~22節
イエス様を信じて触れた時、その罪はきよめられ、病は癒されました。
イエス様だけが僕らをきよくする唯一の方です。イエス様はきよめ、洗ってくださいます。…ですが、簡単ではありません。十字架の上で罪のための身代わりいけにえになってくださり、苦しみ、死んでくださることが必要でした。血を流すことなしに、罪を取り去ることは絶対にできません。キリストの血だけが僕らの罪を洗い流してくださいます。次の箇所はイエス様の十字架の血によるきよめを預言しています。
(13-15節)
13,漏出を病む者が漏出からきよめられたときは、自分のきよめのために七日を数え、自分の衣服を洗い、自分のからだに新鮮な水を浴びる。こうしてその人はきよくなる。
14,八日目に彼は自分のために山鳩二羽か家鳩のひな二羽を取り、主の前、会見の天幕の入り口に行って、それらを祭司に渡す。
15,祭司はそれらのうち、一羽を罪のきよめのささげ物とし、もう一羽を全焼のささげ物とする。こうして祭司はその人のために、主の前で漏出物のゆえに宥めを行う。
性的なきよさ、隠しどころはいのちの誕生に関わる神聖な領域です。今日もこの体をきよくしていただきましょう。どんな汚れも罪も神様にとっては忌まわしくて、放置できないものです。
「血を流すことがなければ、罪の赦しはありません」(ヘブ9.22)「御子イエスの血が全ての罪から私たちをきよめてくださいます」(1ヨハネ1.7)今日も罪を告白し、罪を避けましょう。神様がお嫌いなものを嫌い、避け、触れてしまったなら告白してきよめていただきましょう。イエス様の血によってだけ、僕らはきよく回復します。
2025年2月23日日曜日
レビ13章1-8,38-46、マタイ8.1-4 メッセージ「わたしの心だ。きよくなれ」
聖書 レビ13章1-8,38-46、マタイ8.1-4メッセージ「わたしの心だ。きよくなれ」
●メッセージの要約
今日のメッセージは病気になった時、体調が悪い時、神様の前にどうなのか、この体の変化は神様の前にきよいことなのか、それとも汚れていることなのか、それを判断しなさい、判断してもらいなさい、という箇所です。
このレビ記はイスラエル200万人くらいの人が奴隷だったエジプト奴隷だったとこから救われて、何もない荒野で40年の間放浪する時代です。病院もないお医者さんもいない時代です。全員が元奴隷です。解放されたばかりです。
もちろんその時に体調が悪くなる人がいるし、体に何かの異常が出ることがあります。発疹とか腫瘍です。また髪の毛が抜けていく人もいました。それが単なる男性のはげなのか、それも神様の前に汚れた病気なのか、医師もいない、病院おない世界で、症状が出たら、まずは祭司のところに行きなさいと神様はいわれました。本人がいきたくないと言っても、連れてきなさい、とあります。
(1-2)
1,主はモーセとアロンにこう告げられた。
2,「ある人のからだの皮膚に腫れもの、あるいはかさぶた、あるいは斑点ができて、からだの皮膚にツァラアトに冒された患部が現れたときは、彼を祭司アロンのところか、アロンの子らで祭司の一人のところに連れて来なければならない。
祭司とは、神様と人間の間に立つ人のことです。神様、どうでしょうか、と祈る人です。祭司のところに連れてよく見てもらって、そして祈ってもらって、そして判断しなさいと言われています。何を判断するのか?それは病名をつけなさいと診断をしてもらいなさい、ではなくて、神様の前にあなたはきよいのか、それとも神様の前にあなたは汚れているか、です。
祭司のところに連れていきなさい、とは、まずは神様のところに行きなさい、連れて行きなさいと言い換えてもいいことです。
聖書が教えるきよめとか癒しの方法は罪の告白です。レビ記は繰り返して身代わりの犠牲の動物を連れてきて、罪をその上で告白して捧げることできよめられることが書かれています。
前回引用した聖書のことばです。クリスチャンの石鹸と言われているそうです。
1ヨハネ1章9節
もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。
告白して祈ると必ずきよめられ、平安が回復します。多くの場合、悩み苦しみが取り去られて御霊の平安と喜びと感謝がくる体調も良くなります。
もちろん全部の病気が罪と結果だとは聖書は言っていません。聖霊に満たされて聖なる生活をしていたパウロも病気でした。それでも神様を第一にしないゆえに、神様をないがしろにしたせいで病気になることも聖書は教えています。
その実例ですが、アサと言うイスラエルの王様です。彼は若い時は神様を知っていたし、神様優先でしたが、長く政治家として王様として経験を積むと、神様よりも近隣諸国の強そうな国と仲良くすることを優先して神様を求めませんでした。病気になっても神様よりも医者でした。彼はそのまま死んでしまいます。
"アサはその治世の第三十九年に、両足とも病気になった。それは非常に重かったが、その病気の中でさえ、彼は主を求めず、医者を求めた。"
歴代誌 第二 16章12節
今日のメッセージのタイトルは「わたしの心だきよくなれ」というイエス様の言葉です。イエス様こそ癒し主です。この方以外に救いはありません。もちろん薬やお医者さんが用いられます。神様に感謝しましょう。もちろん薬も医者も必要だし神様からの助けですが、イエス様の願い、イエス様の心は、僕らがきよくなることです。「わたしの心だきよくなれ」です。内側にある隠れた罪が、心の中の悪い思いがちゃんときよめられていくことです。
今日体調の悪い方、そして何か体の不調で悩んでいる方。そこに汚れた思いがあるかないか、ちゃんと神様に見てもらい神様に判断してもらいましょう。そしてきよめてもらいましょう。
●ツァラアトは汚れ
ツァラアトにかかった人は「汚れている」と宣言されます。ツァラアトとは何か?昔はライ病と翻訳していましたが、ライ病ではないらしい、ということがわかってきました。新共同訳「規定の病」フランシスコ会訳「重い皮膚病」と訳しています。
(3)
祭司は、そのからだの皮膚の患部を調べる。その患部の毛が白く変わり、患部がそのからだの皮膚よりも深いところに見えているなら、それはツァラアトに冒された患部である。祭司はそれを調べ、彼を汚れていると宣言する。
普通なら、病気です、とか、感染してます、というのに、これは医学的に病気かどうかでなく神の前にきよいか汚れているか、です。汚れているとは「聖なる神に近づけない状態」「あるべき状態ではない」ことです。
ツァラアトにかかった人は、神様の共同体から離れなければなりませんでした。つまり、人々の居住区から一人で出され、孤独に過ごさなければなりませんでした。このツアラアトは人にうつるからです。
(45-46)
患部があるツァラアトに冒された者は自分の衣服を引き裂き、髪の毛を乱し、口ひげをおおって、『汚れている、汚れている』と叫ぶ。
その患部が彼にある間、その人は汚れたままである。彼は汚れているので、ひとりで住む。宿営の外が彼の住まいとなる。
服を引き裂くのは悲しみの表現、髪の毛を乱すのは嘆きの表れです。人が自分に近づかないように『汚れている、汚れている』と叫ばなければなりません。でも、空気感染とか飛沫感染しないように、口は覆いなさい、と神様がおっしゃいます。これに侵された人は孤独な状況に追い込まれます。
ツァラアトは罪そのもの、とは書いてないけど、やはり聖書によると罪の結果として起こることが多く書かれています。
・ミリヤムの例
例えば、モーセの姉のミリアムがこれに冒されたのは、神に逆らった結果でした
彼女は神様がモーセを指導者として選び、モーセと神様が親しく話していることを妬み、モーセだけが指導者ではない、わたしたちにも神様は話された、と主張しモーセを非難します。モーセを妬み攻撃するミリヤムに神様は裁きとしてツァラアトを与えます。
"主の怒りが彼らに向かって燃え上がり、主は去って行かれた。
雲が天幕の上から離れ去ると、見よ、ミリアムは皮膚がツァラアトに冒され、雪のようになっていた。アロンがミリアムの方を振り向くと、見よ、彼女はツァラアトに冒されていた。"
民数記 12章9~10節
ここを読むと、ツァラアトの症状が皮膚が雪のようになっていたとあります。僕はたまに出会う腐ったみかんを思い出します。表面が白くなっているのを思い出します。その奥はぐちゃぐちゃになっているのを思い出します。それを見たモーセはそれ見て神様に祈ります。
"どうか、彼女を、肉が半ば腐って母の胎から出て来る死人のようにしないでください。」"
民数記 12章12節
ミリヤムのツアラアトは体を腐らせ、醜くなった赤ちゃんのようでした。放置すると体が崩れていって死んでいくものだったようです。
・ウジヤの例
神様の裁きとしてのツァラアトにかかる例は他にもあります。ユダの王ウジヤもそうです。
祭司以外は聖なるところに入ってはならない、と神様から言われていたけど、ウジヤという王様は高ぶって、自分の分を超えていきました。祭司たちがそれを止めようとしますが、なんでお前らが俺を止めるのだ、とウジヤ王は激しく怒ります。
"彼が祭司たちに対して激しく怒ったとき、主の神殿の中にいた祭司たちの前、香の壇の傍らで、彼の額にツァラアトが現れた。"
歴代誌 第二 26章19節
彼は一生隔離されて生活します。
ツァラアトは神の裁きや罪の結果として書かれていることが多く、神様の前にけがれたものであることがわかります。
・汚れているとは
聖書が汚れている、という表現をするとき、それは神様の前にふさわしくないものが入っている、という意味です。例えば、ヤコブの娘ディナが現地の男に犯されたとき「汚された」と聖書は言います。本来一緒になるべき相手でない人が自分に入ってくることです。
他には神殿の中に偶像が入ってくる時も「汚される」と言います。本来あるべきでないものが入ってくることです。神様にふさわしくないものが入ってくることを汚される、汚れている、と言います。
隣人の妻と寝ること。を隣人の妻を汚す、と言います。本来あるべきでないものがくっつくこと。神様の家を汚すことです。
●汚れを追い出すことの大切さ
レビ記全体のテーマの一つは、「主は聖なるお方であり、神の民も聖なる者でなければならない」ということです
(レビ記11章45節)
「あなたがたは聖なる者とならなければならない。わたしが聖だからである。」
ツァラアトにかかった人が「汚れている」とされるのは、彼らが病気だからではなく、神の聖さにふさわしくない状態とされたからです。もしそのまま共同体に留まれば、神の臨在が宿る民全体が汚れてしまうと考えられていました。
たった一人でも個人であっても罪が放置されていたら、それが共同体全体に影響を与えるとされていました。ツァラアトは実際に感染する症状だったようです。「汚れ」も放置すれば民全体を霊的に汚します。新約聖書は小さな罪が教会全体を汚すことをパン種がパン全体を膨らませるとたとえています。それで、ツァラアト隔離され、宿営の外に出されなければなりませんでした。
46節
その患部が彼にある間、その人は汚れたままである。彼は汚れているので、ひとりで住む。宿営の外が彼の住まいとなる。
●丁寧に調べ、きよめられることの大切さ
それを慎重に見極めるようにと言っています。はっきりわかる場合もあるけどわからない時もあります。はっきりとわかるときは祭司が彼は汚れていると宣言します。
(3)
祭司は、そのからだの皮膚の患部を調べる。その患部の毛が白く変わり、患部がそのからだの皮膚よりも深いところに見えているなら、それはツァラアトに冒された患部である。祭司はそれを調べ、彼を汚れていると宣言する。
体毛が白くなり、それは表面だけでなく皮膚の奥深くが何かおかしくなっている場合のようです。でも、判断つかない場合もあります。
はっきりしない場合はまずは7日隔離して、7日目にもう一度患部をみます。さらに7日隔離し、14日目にもう一度判断します。もしその人が汚れていると判断されれば、その人は社会生活できなくなるほどのことなので、判断には慎重に慎重を重ねます。
(4-6)
4,もしそのからだの皮膚の斑点が白く、皮膚よりも深くは見えず、そこの毛も白く変わっていなければ、祭司はその患者を七日間隔離する。
5,祭司は七日目に彼を調べる。もしその患部が祭司の目にはそのままに見えて、その患部が皮膚に広がっていなければ、祭司は彼をさらに七日間隔離する。
6,祭司は七日目に再び彼を調べる。もし患部が薄れ、その患部が皮膚に広がっていなければ、祭司は彼をきよいと宣言する。それは、かさぶたである。彼は自分の衣服を洗う。こうして彼はきよくなる。
男性の薄毛が単なる脱毛か、それともツァラアトか、の判断も慎重にように書かれています。罪やけがれとは関係のない、自然な脱毛か、それとも汚れなのか、です。
(41-44)
41,もし顔の生えぎわから髪の毛が抜けても、それは額のはげであって、彼はきよい。
42,もしその頭のはげか額のはげに、赤みがかった白い部分があるなら、それは頭のはげに、あるいは額のはげに生じたツァラアトである。
43,祭司は彼を調べる。患部の腫れものが、頭のはげ、あるいは額のはげの部分で、からだの皮膚にあるツァラアトに見られるような、赤みがかった白色であれば、
44,彼はツァラアトに冒された者であって、この者は汚れている。祭司は彼を汚れていると必ず宣言する。その患部が頭にあるからである。
神様の前にふさわしくないものなのか、それともきよいものなのか、その判断はすごく重要だし、聖書はそれを強調します。祭司は丁寧に調べて宣言します。また、ツアラアトは癒されきよめられて回復することも書かれています。
・きよくなるとは
ツァラアトが癒されたときに、癒された、と言わず、きよくなる、と言われているのは重要です。14章になると、きよめられた時の教えがあります。
14章2節
「ツァラアトに冒された者がきよめられるときのおしえは、次のとおりである。
罪のための生贄を捧げ、その後、その血をとって耳と親指と足の親指に塗ります。
14章14節
祭司は代償のささげ物の血を取り、それを、きよめられる者の右の耳たぶと右手の親指と右足の親指に塗る。
罪のために犠牲が捧げられ、そして、今度は、よく神様の御言葉を聞き、神様の行いをし、そして神様の道を歩くように、耳と指と足の指に血を塗ります。罪のために身代わりの犠牲の動物がささげられ、その血が耳にも手にも足にも塗られ、赦されたもの、きよめられた人として、みことばをよく聞き、よく行い、みことばの通りに歩むことを表しています。それがきよめられた人です。
・きよめられるための通過点としての試練
僕らは病気になります。誰でもなります。試練もあります。聖書は病気が良いとか悪いとかは言っていないです。病気や試練がみんな罪のせいだとはイエス様は言っていないです。ある人が盲人なのは、罪のせいではなく神様のわざがこの人に現れるためだとおっしゃいました。病気を通して、不自由さを通して、試練を通してきよめられ、神様の栄光だけが表されます。
イエス様の願いは人がきよくなることです。レビ記のテーマは聖なるものとなりなさい、です。
(レビ11.45)
あなたがたは聖なる者とならなければならない。わたしが聖だからである。
聖なるとは、神様のものになることです。神様のみことばを聞き、行い、歩む人が聖なる人です。
僕らの不調、体調不良、病気も、単なる病気なのか、それともそこに神様がお嫌いになる汚れがそこにあるか、聖なるもの、神様のものとして歩んでいるかを慎重に見極めることが大事です。そして、体調不良によって自分のけがれを知り、悔い改める機会が与えられます。きよめられる通過点として、病気が用いられ、神様のきよめや自由や解放のわざが現れるための通過点として用いられることがあります。
よくない生活習慣によって病気になることがあります。生活習慣病と言われます。また、人間の罪によって病気が増えていることもあります。食べ物で儲けようと思って、有害だとわかっている食品や薬を売りまくった結果、社会全体に病気を増やしていることはあると思います。公害も薬害もあると思います。そこには貪りがあります。
僕らには罪があって、必ず貪りとか高ぶりは入っています。神様以外で、自分を幸せにしようとしていることがあると思います。休みなく働くことが自分を支えると思ったり、お金優先、儲け優先でなんでも判断したり、癒しを神様でなく、酒、薬、淫らなこと、快楽、異性、エンタメ、神様を知りつつ神様以外で癒されようとして不健康になったり神様との関係が崩れたり、人間関係が壊れたりすることはあると思います。その結果は孤独と闇です。イエス様の願いは僕らがきよくなることです。罪の結果は不幸だからです。そのために神様よりも大事にしている罪や高ぶりがあるかどうか、です。偶像のように自分をコントロールし縛っているものがあるか調べるように教えます。
きよめられるためには、ちゃんと罪があること、けがれていることを認めることが通過点です。
もしも、自分は悪くない、という人がみなさんの中にいたら、癒しやきよめもありません。自分のけがれを見ない人、認めない人にはきよめがありません。病気になっても俺は病気じゃない、という人に治療はできません。
罪は人を壊します。神様との関係も壊します。ストレスが増え、自分も痛めつけ傷つけます。
祭司が宣言したのは、神様の前にきよいか、汚れているかどうか、です。
僕らも調べられて、そしてきよめてもらう必要があります。
田中みちや先生は言いました。「聖書は調べるものではありません。聖書によって自分が調べられるのです」
体調の悪さは、どこからきているのか、罪からきているのかどうかです。神様の願いは僕らが聖なるもの、神様のものであることです。
●イエス様によるきよめ
イエス様の時代になってもツァラアトの人たちはいました。そして、彼らは自分は汚れている、と認識していました。自分は神様の前にふさわしくない、と思っていました。
ツァラアトは見た目が怖くて、醜くて、孤立して、無一文の状態にさせる病気でした。これらの人々は、社会の中で孤立し、乞食のような生活をしていました。彼らには、他の人とのつながりがまったくありませんでした。まさに生きた死と言えるような状況です。
ツァラアトはまるで呪われているかのように扱われていました。もちろん神殿にも行けないし、家にも帰れません。家族と一緒にいることもできなくて、人との交流を完全に断たれています。
あるラビの一人はこう書いているそうです「ツァラアト人を見たら、近づかれないように石を投げる」と。彼らはすごく嫌ってたし、軽蔑してたし、恐れてました。汚れた者が近づくと共同体全体を汚すのでなるべく接点がないように隔離されます。
ところが、驚いたことにイエス様はその汚れた者と交わり触れています。それで彼らは逆に彼らをきよめられていきます。
マルコ 2:17
「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」つまり、
イエス様は罪人の中に行き、彼らと交わり、彼らがきよくされていきます。
"イエスが山から下りて来られると、大勢の群衆がイエスに従った。
すると見よ。ツァラアトに冒された人がみもとに来て、イエスに向かってひれ伏し、「主よ、お心一つで私をきよくすることがおできになります」と言った。
イエスは手を伸ばして彼にさわり、「わたしの心だ。きよくなれ」と言われた。すると、すぐに彼のツァラアトはきよめられた。"
マタイの福音書 8章1~3節
「すると見よ。」今風に言うなら「信じらんないんだけど!」「驚愕の事実が!」「え、ウソでしょ!?」えええー みたいな感じです。「ツァラアトの人が来た」ってだけで、普通じゃありえないことでした。彼らが人前に出るなんて考えられないことです。
人々がどんな反応するかも、律法も個人的な恥も、全部ひっくるめて「絶対ナシ」です。ありえない行動でした。しかも、大勢の群衆の前で、このツァラアトの人はやってきました。そして、ひれ伏し、「主よ、お心一つで私をきよくすることがおできになります」と言った。
3節。「イエスは手を伸ばして彼にさわり」見ていた群衆は全員「ギャーーー!」ってなったと思います。絶対に触れてはいけない人に触れました。自分が感染し、一生孤独になり体が崩れていくようなことをしました。
イエス様は距離をとって100メートル先から「きよくなれ」って言うこともできたのに、あえて触れました。これは、イエス様は無敵だから、ということではなく、逆に、イエス様は汚れたものとなり、罪人と同じになり、その罪を自分のものとし、背負、汚れたものと呼ばれ、嫌われ、神様に呪われ、人からも捨てられて、身代わりに十字架で殺されるためです。
イエスが触れたことによってこの人はきよめられ、孤立した場所から、町に入れるようになりました。
逆にイエスは人々から引き離されて、捨てられて、十字架の処刑という孤独に行かなきゃいけなくなりました。イエスがツァラアトの人と入れ替わったかのようです。
イエス様がそのけがれを引き受けて、神のもとから離され、十字架に向かわれました。イエスが見捨てられ、神に拒絶されて、私たちは神のもとに迎えられるようになりました。
この人は、腐った体だったかもしれません。もしかして指が溶けかけたような手だったかもしれないし、ただれた肌だったかもしれません。イエス様に触れられて、顔の崩れも、一瞬で元通りになったと思います。同じように、僕らの罪はきよめられます。イエス様を信じることで許され、回復します。罪を認め、平伏して、イエス様、「主よ、お心一つで私をきよくすることがおできになります」です。
イエス様は言われます。
マタイ8.4
イエスは彼に言われた。「だれにも話さないように気をつけなさい。ただ行って自分を祭司に見せなさい。そして、人々への証しのために、モーセが命じたささげ物をしなさい。」
イエス様はレビ13章の通りに、祭司に判断してもらいなさい、そして、きよめの宣言を受けなさい、とおっしゃいます。そして、レビ14章にあるように、ささげものをしなさい、とおっしゃいます。
この人はこの後、いけにえをささげ、その血を耳にぬり、手の指に塗り、足の指に塗り、これからは、神様のみことばに聞き、従い、歩む決心をしました。イエス様が「そして、人々への証しのために、モーセが命じたささげ物をしなさい。」とおっしゃった通りにし、人生を回復させました。
僕らが神様に受け入れられるのは、イエス様の十字架による身代わり犠牲があったからです。
イエス様以外にきよめはありません。
自分を調べてみましょう。今の体調の悪さ、この病は、この試練は罪から出た汚れたものでしょうか。
僕らが神様に受け入れられ、教会の兄弟姉妹から疎外されずに交わりができるのは、イエス様の血によってゆるされているから、その理由だけです。いい人になったからでなく、イエス様が私たちをきよめてくださったからです。イエス様以外に救いはありません。
逆に、もしも、このきよめを忘れた人、拒否する人は交わりから離れ孤独と闇の中に閉じ込められてしまします。
イエス様の願いです。わたしの心だ、きよくなれとおっしゃっています。
罪を認め、告白し、新しくされましょう。耳と手と足に血が塗られて回復したように、今日もきよめられて、みことばをきき、行い、その道を歩みましょう。イエス様のきよめは完全です。あの十字架の犠牲は僕らを無罪と宣言してくださっています。ハレルヤ!