レビ16章
嫌なことをする人と一緒にいたくないし、裏切る人と一緒にはいられないのが人間です。神様はそれよりもっと罪を忌み嫌う方なのに、それなのにイスラエル人たちを「慕って、彼らを愛され」(申命記10.15)「彼らのただ中に住むために、彼らをエジプトの地から導き出した」と言われます。(出エジプト20.45-46)汚れや背きを知りながら、それでも一緒にいたいと願う神様です。汚れた人たちを敬遠するのではなく、彼らのところに来て、彼らの真ん中にいてくださる神様です。レビ記は会見の天幕のことを「彼らの汚れのただ中に、彼らとともにある会見の天幕」と言います。(16)イエス様が汚れたこの世界に住まわれたのと同じです。
"彼はイスラエルの子らの汚れと背き、すなわちそのすべての罪を除いて、聖所のための宥めを行う。彼らの汚れのただ中に、彼らとともにある会見の天幕にも、このようにする。"
レビ記 16章16節
水と油が交わらないように、聖なる神様と汚れた人間が交わることはできません。水と油なら分離するだけですが、聖なる神様と汚れた人間の場合は、神様が「焼き尽くす火」として汚れた人間を滅ぼしてしまいます。実際にアロンの2人の息子は汚れたまま聖なる所に近づいて神様の火によって殺されてしまいました。
"すると火が主の前から出て来て、彼らを焼き尽くした。それで彼らは主の前で死んだ。"
レビ記 10章2節
この事件があってから、神様は改めておっしゃいます。
汚れた人間と一緒にいたいけども、でも彼らが死ぬことがないために、罪のきよめを行いなさい、とです。
"アロンの二人の息子の死後、すなわち、彼らが主の前に近づいて死んだ後、主はモーセに告げられた。
主はモーセに言われた。「あなたの兄アロンに告げよ。垂れ幕の内側の聖所、すなわち箱の上の『宥めの蓋』の前に、時をわきまえずに入ることがないようにせよ。死ぬことのないようにするためである。『宥めの蓋』の上で、わたしは雲の中に現れるからである。
アロンは次のようにして聖所に入る。罪のきよめのささげ物として若い雄牛、また全焼のささげ物として雄羊を携え、
聖なる亜麻布の長服を着て、亜麻布のももひきを履き、亜麻布の飾り帯を締め、亜麻布のかぶり物をかぶる。これらが聖なる装束であり、彼はからだに水を浴びて、それらを着ける。
彼はまた、イスラエルの会衆から、雄やぎ二匹を罪のきよめのささげ物として、雄羊一匹を全焼のささげ物として取る。"
レビ記 16章1~5節
神様は汚れを憎み、滅ぼす方なのに、汚れた罪人を愛し、きよめて一緒にいたいと願っておられます。僕らが簡単に「嫌なことをする人と一緒にいたくない」と言うのとは全然違います。
神様はこの汚れた世を愛して、この世界にイエス様を送り、イエス様の流された血によってきよめ、救い、僕らと一緒に住んでくださいます。
"神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。"
ヨハネの福音書 3章16~17節
汚れた僕らが殺されない理由は、ただイエス様がいけにえとなり、血を流してきよめてくださったからです。レビ16章の一番良い解説書はヘブル人への手紙の9-10章です。
"また、雄やぎと子牛の血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度だけ聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられました。
雄やぎと雄牛の血や、若い雌牛の灰を汚れた人々に振りかけると、それが聖なるものとする働きをして、からだをきよいものにするのなら、
まして、キリストが傷のないご自分を、とこしえの御霊によって神にお献げになったその血は、どれだけ私たちの良心をきよめて死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者にすることでしょうか。"
ヘブル人への手紙 9章12~14節
"こういうわけで、兄弟たち。私たちはイエスの血によって大胆に聖所に入ることができます。"
ヘブル人への手紙 10章19節
"心に血が振りかけられて、邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われ、全き信仰をもって真心から神に近づこうではありませんか。"
ヘブル人への手紙 10章22節
汚れた人を遠ざけるのでなく、滅ぼすのでもなく、ご自分が血を流して受け入れ、愛し、慕ってくださる神様です。すぐに人を裁き、見下し、避ける僕らとは全然違います。神様は「彼らの汚れのただ中に、彼らとともにある」お方です。(16)あの人とは距離を置こう、関わらないようにしよう、と思うなら、もう一度イエス様がどんな方か考えてみましょう。汚れや背きを知りながら、それでも一緒にいたいと願う神様です。敬遠するのではなく、彼らのところに来て、彼らの真ん中にいてくださる神様です。苦しみの血を流してくださったのは僕らではなくイエス様です。感謝などという人間のことばには入らないです。言葉にできない、大きすぎる神様です。そのイエス様が僕らの中に住んでおられます。もう、僕らが生きているのではなく、そのイエス様が生きておられます。恐れつつ、委ねましょう。誰も見たことも考えたこともないことが始まっています。ハレルヤ!
0 件のコメント:
コメントを投稿