ヘブル2.10-3.1 祈ってくださっているイエス様 メッセージ
よく遠藤先生、祈ってくださいと言われます。そしてもちろん祈ります。そしてある人は先生に先生に祈ってもらったから安心したって言ってくれます。それは感謝なことだし、同じように僕も誰にかに祈ってもらうのは本当に嬉しいし、祈りには力があるな、って感じます。
ならば、それ以上に、この人に祈ってもらったら絶対に癒される、その人の祈りは絶対に届く人がいます。それが天で大祭司として僕らのために祈ってくれるのイエス様です。
今日のポイントは3つです。最初の1は1章と2章の文脈の確認です。そして、2-3は今日の箇所です。
1 イエス様のすごさ、本来の人間のすごさ
2 一緒に弱くなってくださるイエス様
3 憐れみ深く、権威ある大祭司として祈ってくださるイエス様
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1 イエス様のすごさ、本来の人間のすごさ
最初にイエス様がこの世界を作られた神様であることをヘブル書は明言します。
"神は…御子によって世界を造られました。"
ヘブル人への手紙 1章2節
"御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。
3節
"御子については、こう言われました。「神よ。あなたの王座は世々限りなく、あなたの王国の杖は公正の杖。"
8節
イエス様が支配者です。王様です。イエス様がこの世界を作ったと聖書は言います。「その力あるみことばによって万物を保っておられます。」(3)イエス様の言葉は現実になる言葉です。イエスキリストの言葉は僕らが思うような軽い言葉ではないです。聖書の言葉はただの本でなく、生きている、力がある、現実となる言葉です。僕らは慣れちゃってるけど、実はイエス様がおっしゃった言葉は現実の出来事となり歴史を動かします。人を生かし、人を滅ぼす権威のある言葉です。だから取扱注意です。人間の言葉とはレベルが違う言葉です。イエス様はそのような方です。
神を恐れる、というのは凄すぎて圧倒されることです。もっと僕らはイエス様とその言葉を恐れ敬うべきです。軽々しく取り扱えない聖書です。イエス様のみ言葉は出来事となり僕らの経験となり歴史となります。
ぜひ、毎日、聖書を読んでください。恐れつつ信頼して、祈りながら読んでみてください。その言葉は僕らの人生に入り、事実となり毎日の歩みが祝福に変わります。コツは信仰を持って読むことです。鼻は臭いを識別する道具です。耳は音を聞く道具です。同じように、信仰はみことばを受け取る道具です。祈り求めて、信じて読むことです。
・本来の人のすごさ
僕ら人間は自分が小さいものだと思ってるかもしれないけど、なんとイエス様は僕らのことを「兄弟姉妹」とおっしゃいます。イエス様は復活して栄光を持っておられる神様です。そして、再び地上に来られます。この世界をリアルに支配する日がきます。その時に一緒にこの世界を支配する人はイエス様を信じた人、イエス様の兄弟、神様の子どもと呼ばれる人たちです。イエス様と一緒に万物を足の下に置く、と書かれています。
"あなたは、人を御使いよりわずかの間低いものとし、これに栄光と誉れの冠をかぶらせ、
万物を彼の足の下に置かれました。」神は、万物を人の下に置かれたとき、彼に従わないものを何も残されませんでした。それなのに、今なお私たちは、すべてのものが人の下に置かれているのを見てはいません。"
ヘブル人への手紙 2章7~8節
今はまだ、全てのものが人間の足の下なんて見てません。小さく弱く、苦しんでいる私たちです。貧しくて、器も小さくて罪を犯し、うまくいかず、もがいてます。
でも、本来は神様に似せて作られ、イエスキリストと一緒に栄光を持ち、全てのものを足の下に従える栄光の冠を持つ存在が人間です。だからイエス様は僕らのことを「兄弟」って呼びます
"聖とする方も、聖とされる者たちも、みな一人の方から出ています。それゆえ、イエスは彼らを兄弟と呼ぶことを恥とせずに、こう言われます。
「わたしは、あなたの御名を兄弟たちに語り告げ、会衆の中であなたを賛美しよう。」"
ヘブル人への手紙 2章11~12節
聖とするのはイエス様。きよめてくださるのはイエス様。聖とされるのは僕ら人間です。イエス様がこの世界に来られたとき、神様が「長子をこの世界に送られた」と言います。イエス様が僕らの長男、僕らは弟、妹たちです。
(1.6)
そのうえ、この長子をこの世界に送られたとき、神はこう言われました。「神のすべての御使いよ、彼にひれ伏せ。」
僕らは人を軽くみますけど、隣のクリスチャンは実はイエス様の弟、妹、やがてイエス様と一緒に栄光と権力を持つ者です。
みなさんは神の娘、息子です。今どんなに弱く小さくても、イエスキリストが兄弟、姉妹、と呼ぶ人です。しかも、特に苦しむ人虐げられている人、孤独な人、罪を犯してもがいている人のことを兄弟っておっしゃいます。
神様の裁きの時に、一番小さい人、1番困ってる人に親切にしたら、神様がそれを「わたしの兄弟たち」にしてくれたって言われます。
"すると、王は彼らに答えます。『まことに、あなたがたに言います。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、それも最も小さい者たちの一人にしたことは、わたしにしたのです。』"
マタイの福音書 25章40節
隣のクリスチャンを大事にすることは、イエス様の弟、妹にしたこと、いや、イエス様にしてくれたことだと言うんですね。どんなに暗闇にいて苦しんでいるクリスチャンも、神様にっては息子であり娘です。イエス様にとっては兄弟姉妹です。
将来、その人はイエス様と一緒に栄光を持ち、この世界を支配する人です。だから、今から尊敬し大事にしましょう。今は、弱くてこじれちゃう人だけど、それでも神の子であり、キリストの兄弟姉妹です。尊敬すべき人です。だから聖書は互いに相手を優れたものと思いなさい。尊敬しなさい。愛しなさいと繰り返します。こじれちゃった人を大事にしてくれるお手本はイエス様ご自身です
※質問です。心のノートに書いてみてください。
あなたにとって苦手な人、見下している人は誰ですか?イエス様にとってその人はどんな人でしょう。
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2 一緒に弱くなってくださるイエス様
弱くなった私たちを、愛する兄弟として救うためにイエス様は同じ肉体を持ち、同じように苦しみの世界に来てくださいました。暗くて、弱い人間の世界に同じようになって、弱い体を持って、悪魔から苦しめられ、人から苦しめられる世界に、一緒になるためにきてくだいました。
"そういうわけで、子たちがみな血と肉を持っているので、イエスもまた同じように、それらのものをお持ちになりました。それは、死の力を持つ者、すなわち、悪魔をご自分の死によって滅ぼし、
死の恐怖によって一生涯奴隷としてつながれていた人々を解放するためでした。"
ヘブル人への手紙 2章14~15節
イエス様が弱くなり、人間に苦しめられ、悪魔から誘惑を受け、痛みや不自由さを経験された理由は、勝利するためです。僕らを一緒に勝利と栄光に連れて行くためです。
"したがって、神に関わる事柄について、あわれみ深い、忠実な大祭司となるために、イエスはすべての点で兄弟たちと同じようにならなければなりませんでした。それで民の罪の宥めがなされたのです。
イエスは、自ら試みを受けて苦しまれたからこそ、試みられている者たちを助けることができるのです。"
ヘブル人への手紙 2章17~18節
イエス様は憐れみ深い方です。憐れみとは、一緒に苦しむことです。昔、HBIの学院長だった小林基人先生が言っていました。「牧会とは、一緒にオロオロすること。」忘れられません。
イエス様はオロオロしないけど、でも、全ての点で僕らと同じように弱くされ、誘惑され、苦しみを受けてくださった方です。
"したがって、神に関わる事柄について、あわれみ深い、忠実な大祭司となるために、イエスはすべての点で兄弟たちと同じようにならなければなりませんでした。それで民の罪の宥めがなされたのです。
イエスは、自ら試みを受けて苦しまれたからこそ、試みられている者たちを助けることができるのです。"
ヘブル人への手紙 2章17~18節
中学生の時の吹奏楽部のことを思い出します。顧問の先生はやっぱり指導力があって能力がありました。
でも、先生ができる人、では意味がないです。
中学一年の僕らは何も能力がありません。ラッパの音もカスカスです。
そんな子どものために先生は一緒に時間を過ごし、忍耐して何度も教え一緒に疲れ叱ったり褒めたりしながらその弱さを自分事のようにして一緒に練習に付き合ってくれました。たまに来て上から教えるだけではなく、一緒に時間を過ごして一緒に苦しみ疲れます。その犠牲と忍耐の先に成長があって、賞を取ることも出来ました。
イエス様のことを話すには、これでは例えが小さすぎます。
イエス様は私たち人間のとこに降りてきて、人間の中でも最も低い身分になり、罪人のようにされ、人から唾をかけられ、弟子たちに逃げられ、罵られ、悪魔に苦しめられ、肉体的にも拷問を受け、血だらけになり、裸にされ、笑われながら、神様にも捨てられ、呪われ、殺されました。
それは、何のためか?それは一緒に悪魔に勝利するためです。
"そういうわけで、子たちがみな血と肉を持っているので、イエスもまた同じように、それらのものをお持ちになりました。それは、死の力を持つ者、すなわち、悪魔をご自分の死によって滅ぼし、
死の恐怖によって一生涯奴隷としてつながれていた人々を解放するためでした。"
ヘブル人への手紙 2章14~15節
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3 憐れみと権威がある大祭司として祈ってくださるイエス様
大祭司とは、人類代表として祈ってくれる人のことです。
たまに、有名な牧師さんがいて、癒しのたまものがある力のある牧師さんがいます。今もいます。その牧師さんで、その人が祈ると悪霊は出ていき、病気は癒される、そのような賜物が与えられている人がいます。賜物は「預かり物」って意味です。神様がその人に預けてくれた賜物です。人間でもそのように祈りが聞かれる賜物と力の賜物を預けてくださいます。ならば、なおさら、イエス様の祈りは完璧です。
ヘブル7章24-25節
イエスは永遠に存在されるので、変わることがない祭司職を持っておられます。
したがってイエスは、いつも生きていて、彼らのためにとりなしをしておられるので、ご自分によって神に近づく人々を完全に救うことがおできになります。
イエス様に祈ってもらったら絶対100%聞かれます。イエス様の言葉は実現する言葉であり祈りです。しかも、憐れみ深く、本当に僕らのことを理解して祈ってくれる大祭司イエスキリストです。しかも、たまに祈るのでなく「いつも」祈ってくれています。天で、この人を癒してください。この人を助けてくださいって父なる神様に願ってくださっています。その祈りは聞かれます。
僕らの気持ちを本当に理解して、自分の事として祈ってくれる方です。
しばしば私たちは祈るけど連帯しないってことありますね。祈るけど同じ気持ちにはなれません。かわいそうにと思うけど深くは関われません。
でもイエス様は違います。本当に同じ気持ちになって、死ぬほどの苦しみを受け、誰よりも苦しく、誰よりも孤独になって、捨てられて、傷つく言葉をいっぱい浴びせられて、そして鞭を受け、笑われながら殺された方です。その方が復活して、天の大祭司として僕らのことを祈ってくださっています。
祈れない僕ら、賛美できない僕らのために、イエス様がまず祈ってくれています。イエス様が賛美リーダーです。僕が今説教しているけど、本当の説教者はイエス様です。イエス様は今生きていて、天の大祭司として教えてくださいます。僕らはイエス様に用いられているだけです。司会の人、賛美をリードする人いるけど、その人の中にいて礼拝を導いてくださる大祭司はイエス様です。イエス様が礼拝の司会者、賛美の導き手です。僕らは用いられているだけです。
イエス様が祈ると必ず聞かれます。この方が歩け、と言ったら歩きます。見えるようになれと言ったら見えるようになります。権威かる神様が大祭司として天で僕らのために祈ってくださっています
賛美を導き、礼拝を祈りを導いてくださいます。さあ、賛美しよう、神様の素晴らしさを語ろう、と言ってくれるのはイエス様です。
僕らはクリスチャンになっても罪があり、祈れず、礼拝できず、ぐずぐずしています。でも、聖書は言います。
"だれが、私たちを罪ありとするのですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、しかも私たちのために、とりなしていてくださるのです。"
ローマ人への手紙 8章34節
このイエス様の祈りに合わせて祈ります。イエス様の感謝と賛美に合わせて賛美します。礼拝のリーダーはイエス様、教会の牧会者はイエス様です。
私たちの肉の性質は。冷たいものです。祈りたくないし、礼拝したくないし、他人を裁いてばかりいます。でも、大祭司イエス様はどうですか?
みんなから敬遠されているような人を兄弟、と呼び、嫌われる人を、姉妹、と呼び、まるで自分のこととして、一緒に苦しみ、最悪な世界を通ってくれて、今も一緒にいてくれて、わかるよ、苦しいよね、と言って自分のこととして祈ってくれる方です。イエス様の祈り方は上から目線ではないです。苦しい人そのもののような祈り方をしてくださいます。
4章15節
私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯しませんでしたが、すべての点において、私たちと同じように試みにあわれたのです。
イエス様が祈ったとき、それは完璧な祈りです。神様はその祈りを聞かれます。
弱いあの人を救ってください。病気の人を癒してください。罪を犯してガンコにになっちゃってるあの人を助けてください。イエス様が祈ってくださっています。罪がありおかしくなっている僕ら人間ののことを兄弟として祈ってくれています。
僕らはあの人はここがダメなんだ、とさばきます。助けようとしません。でもイエス様は違います。一緒に裁かれる側になって、文句を言われる側になって、祈ってくれます。一緒に悲しむ大祭司になるためって書いてあります。「あわれみ深い、忠実な大祭司となるために、イエスはすべての点で兄弟たちと同じようにならなければなりませんでした。」(17)
18節に続きます。
18節
イエスは、自ら試みを受けて苦しまれたからこそ、試みられている者たちを助けることができるのです。
ただ雲に乗って現れて、死んで、また雲に乗って帰っていった、って話じゃないです。
疲れたし、悲しかったし、怒ったし、心を痛めたし、心が張り裂けそうになったし、押しつぶされそうになったし、泣いたし、誤解されたし、拒絶されたし、憎まれたし、殴られたし、捨てられたし、処刑された方です。イエス様は「すべての点で誘惑された」とあります。どんな面でも、僕らと同じようにです。
イエス様は僕らのことを理解してくれています。僕らが何を必要としてるか知ってるし、どうやって助けたらいいかも知ってます。完璧な救い主です。
東栄教会の本当の牧師はイエス様です。本当に僕らを理解して、共感して祈ってくださるのはイエス様です。
だから祈るときにはイエス様が一緒になってくれると言うイメージを持ちましょう。天で神様に祈ってくれています。僕らがもう無理、思うことをイエス様が祈ってくれています。
あの病気は治らない、もう無理だ、あの人間関係はあの家庭は壊れてしまったとか、人間はいろいろ分析して決めつけるけど、そんなことはるかに超えて癒してくださいます。死んで終わりでなく、完全なものとするとはっきり書いてあります。
※質問です。心のノートに書いてみてください。
あなたが祈れない理由は何ですか?イエス様が完璧に祈ってくださっていることは、あなたの祈りをどのように変えるでしょう。
祈りは僕らの頑張りじゃなくて、まずイエス様が祈ってくれるから、それに合わせてすることです。イエス様の祈りは、100パーセント聞かれる祈りです。イエス様の言葉は必ず実現します。
誰よりも苦しんだイエス様です。イエス様が祈ってくれたらそれは聞かれます。イエス様が死んだ人に、起きなさい、と言ったら起きます。歩け、と言われれば歩きます。
あの先生、この先生に頼るのでなく、イエス様です。あの方法、この方法でなく、イエス様です。諦めるのでもなく、完璧な祈りをされるイエス様です。今日も祈ってくださるイエス様。今日も賛美させてくださるイエス様です。
この方に頼りましょう。祈ってもらいましょう。イエス様の側が僕らのことを今日も気にかけて、天で祈ってくださっています。イエス様と一緒に歩みましょう。イエス様と一緒に賛美しましょう。大祭司はイエス様、本当の牧師はイエス様。僕らのことを本当に理解して祈ってくださるのはイエス様です。いつも祈ってくださるイエス様のことを考えましょう。イエス様を思いましょう。
"ですから、天の召しにあずかっている聖なる兄弟たち。私たちが告白する、使徒であり大祭司であるイエスのことを考えなさい。"
ヘブル人への手紙 3章1節
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