2025年11月25日火曜日

詩篇88篇 孤独と苦しみの祈り 礼拝メッセージ

 詩篇88篇 孤独と苦しみの祈り 礼拝メッセージ


●クリスチャンは苦しみと絶望の時期も通ります


クリスチャンの生活はいつもハッピーで平安に満ち喜びに満ちているものではないこと皆さん知ってると思います。「どうしてですか、いつまでですか。神様、なぜですか」そのように、怖くて不安で神様にも見放されてるように感じる時もあります。必ずあります。イエス様も「あなたがたは、世にあっては患難があります。」とおっしゃいました。(ヨハネ16.33)パウロも、イエス様に従う人生が苦しい時期を通ることを書いています。


(ローマ8.17)

私たちはキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているのです…


詩篇88篇は暗くて苦しい時期が長く続いた時の祈りです。これを作った人はヘマンという人です。表題に次のように名前が書かれています。


88篇

歌。コラ人の賛歌。指揮者のために。マハラテ・レアノテの調べにのせて。エズラフ人ヘマンのマスキール。


ヘマンはもともと聖霊に満たされ、音楽家としても礼拝のリーダーとしても豊かに用いられた、活躍した人です。その人が全てを失った時の祈りです。彼については次のように書かれています。


(1歴代誌 25:1)

また、ダビデと将軍たちは、アサフとヘマンとエドトンの子らを奉仕のために取り分け、立琴と十弦の琴とシンバルをもって預言する者とした。その奉仕に従って、仕事についた者の数は次のとおりである。

(1歴代誌 25:7)

――彼らはみな達人であった。――


神様の御言葉を歌って宣言し、人々を指導していたことがわかります。、それは、巧みな人、達人であったと書いてあります。達人とは、それは神様のことがよくわかる人、という意味です。


そのヘマンが最悪のところを通っています。苦しくて神様からも遠く離れていると感じるし、むしろ「この苦しみは神の裁きだ」「神に捨てられたんだ」と感じています。親しかった人たちもみんなも遠ざかっていきます。そのような時が実際にあったし、それを悲しんでいる祈りです。


聖書は霊感された神様の言葉です。神様は嘆きしかないこの祈りを大切な祈りとして聖書を通して僕らに与えられました。しかも、3日とか一週間でなく、何年もも続いたようです。


"主よなぜあなたは私のたましいを退け私に御顔を隠されるのですか。

私は苦しんでいます。若いころから死に瀕してきました。あなたの恐ろしさに耐えかねて私の心はくずおれそうです。

あなたの燃える怒りが私の上を越えて行きあなたからの恐怖が私を滅ぼし尽くしました。

それらは日夜大水のように私を囲み瞬く間に私を取り巻いてしまいました。

あなたは私から愛する者や友を遠ざけられました。私は暗闇を親しい友としています。"

詩篇 88篇14~18節


ずっとただ神様に裁かれているように感じ、怖くて、耐えられなくて、もう自分は生きていても死んでいるかのようです。


(3-4)

私のたましいは苦しみに満ち私のいのちはよみ(死の世界)に触れていますから。

私は穴(墓)に下る者たちとともに数えられ力の失せた者のようになっています。


神様の怒りと裁きを感じ、神さまが自分を捨てたように感じているけど、それは周りの人たちが離れていくことでさらにリアルに感じます。それは親しかった人たちが離れていくだけでなく、彼らは自分を嫌い、自分を悪く言い、攻撃する人たちに変わってしまったからです。


(8)

あなたは私の親友を私から遠ざけ私を彼らの忌み嫌う者とされました。私は閉じ込められて出て行くことができません。


(18)

あなたは私から愛する者や友を遠ざけられました。私は暗闇を親しい友としています。"


以前から敵対してた人たちならわかります。でも、今自分を嫌って攻撃するのは親友だった人たち、愛する人たちです。どうしてこんなことが起こるのか、と思います。


今、自分の上にあるのは神の怒りと闇と恐怖だけです。

今は、聖書の知識も神様のみことばも何も役にたたないようです。

神様が近くにいてくれるとか、苦しみの中にも光があるとか、試練の中にも平安があるとか、そういうことがないのです。

ただ闇と苦しみだけで出口も光もないのです。どこにも助けがないのです。自分の中に平安がないのです。力もないのです。

ただ闇の中、神に裁かれ殺されて地獄に落ちていくかのようです。

神様は今も怒り、苦しめるのをやめようとしません。神様がそうしています。


(7)

あなたの憤りが私の上にとどまりあなたのすべての波であなたは私を苦しめておられます。


深い闇の中に置き去りにしたのは神様です。神様が自分を苦しめ続けているようです。


この祈りは、この詩篇は「悔い改めよう」とか「こうすれば回復する」という祈りが全くありません。よく聞くように「この先に回復があるよ」とか「神様は見捨てない」という希望の言葉が全くない祈りです。

ひたすら、私は神様にも嫌われ怒られ苦しめらています。そう嘆きつづけています。


●この苦しみと死はイエス様が味わったものです。


誰よりもこの孤独と悲しみと闇のどん底に落ちていったのはイエス様です。ヘマンという賛美リーダーは聖霊に満たされていた人でした。でも、イエス様は比較になりません。イエス様は無限の御霊が宿っていて、聖霊を私たちに送ってくださる神様ご自身です。愛と喜びと平安に満ちたお方で、それは絶対に無くならないはずです。だのに、そのイエス様の周りの人々は去っていきました。イエス様を賛美してた群衆は敵になり、激しく「十字架につけろ」と叫び続ける人たちに変わりました。文字通り、体も、心も死ぬまで傷つけられました。愛する弟子たちは離れて行きます。そして、最後は神様からも見捨てられます。


"そして三時に、イエスは大声で叫ばれた。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」訳すと「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。"

マルコの福音書 15章34節


このイエス様の絶望の叫びは詩篇88篇の叫びと同じです。人に捨てられ、神にも見放され、ただ闇の中に落とされていくようです。

それでもこの人は祈り続けます。ヘマンもイエス様もそれでも祈りをやめません。叫びをやめません。


"主よ私の救いの神よ昼私は叫びます。夜もあなたのみそばで。

私の祈りをあなたの御前にささげます。どうか私の叫びに耳を傾けてください。"

詩篇 88篇1~2節


しかも、1節「主よ私の救いの神よ」と言います。

見捨てられたと感じながら、でも「主よ私の救いの神よ」と呼び求め、両手を差し伸ばしています。


"私の目は苦しみによって衰えています。主よ私は日ごとにあなたを呼び求めています。あなたに向かって両手を差し伸ばしています。"

詩篇 88篇9節


当時の一般的な祈りの姿勢は両手を天に上げるものです。今のように手を組むのは当時は一般的ではありません。神様に向かって目をあげ、手を上げて、泣きながら叫びながら求めています。


作者は精神には死にかけています。一方イエス様は十字架の上で死にかけたのでなく、本当に捨てられ死にました。イエス様は極限まで孤独を味わい、神の怒りをその身に受けて死に落とされる闇を知っている人です。


「神様を知っている」というのは、「こうらしいよ」という情報ではなくて、「体験した」ということです。「知る」と言うのは体験です。捨てられ、裁かれ、闇に落とされる体験はまず、イエス様が味わったものです。そして僕らもそれをある程度体験します。

誰も助けてくれない孤独の世界に落とされる裁きは、イエス様が私たちの身代わりに受けてくださいました。


●私たちもキリストと一緒に体験します


キリストが通られたこの絶望と闇は私たちも体験することがあります。イエス様の苦しみに連帯して通されることがあります。ひたすら落ち込み、そこに閉じ込められる事はあります。キリストと一緒に苦しみと孤独を通ることで、イエス様に似た人と変えられます。


●「スピリチュアルジャーニー 霊的成長への道」


以前、HBI「霊性の神学」の授業でこの本を参考図書にしていました。

その中に「孤独の訓練」という章があります。要約すると以下のようなものです。


全てを失った闇は、普段、僕らが幸福感や平安という感情に頼りすぎていることを教えてくれます。

よく、「そんな重い経験は避けた方がいい」とか「もっと安心できて楽しく生きる方がいい」と聞かれることがあります。しかし、あえて神が私たちを孤独や暗闇の中へ導くとき、それは私たちの内側に変化を起こします。


それは私たちのやる気とか、そういう類のものを全部弱めて、何に対しても喜びを見出せなくします。

何も理解できなくなり、心の動きも健康的とは言えなくなって、やがて体も働かなくなります。心も体も全部神との関係から引き離されたような感覚に陥ります。


こういう時期のあいだは、聖書を読むことも、説教を聞くことも、知的な議論をすることも上手くできなくなります。そして、この時期に誘惑も受けます。以下のようなものです。


2つの誘惑


1 怒りと批判、そして無気力


闇から抜け出したくて、周りの人や物事を全部批判し出します。神様のせいにします。牧師の説教は退屈になり、賛美の歌も意味がないように聞こえてしまいます。


2 他にすがるものを探す


「もっと自分を幸せにしてくれる教会を」とか、新しい体験などを求めて、わらをもすがる思いで何かすがるものを探し始めます。


でも、詩篇の嘆きは違います。ひたすら、救いの神よ、と祈り、嘆き、神様の前で悲しむのをやめません神様以外に何かを求めることもしません。


「早く抜け出した方がいい」こうすればいい、というアドバイスは十字架のイエス様のことをあまり知らない人のアドバイスです。


嘆きの詩篇は苦しみの時期が終わるまで、しっかりと嘆き続け、そこに留まることを教えています

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苦しみと孤独の中に置かれた時の霊感された祈りとして、神様はこの詩篇88篇を与えてくださいました。

ただ、ひたすら神様に心の闇を悲しみを孤独を毎日訴えている祈りです。


(1-2)

主よ私の救いの神よ昼私は叫びます。夜もあなたのみそばで。

私の祈りをあなたの御前にささげます。どうか私の叫びに耳を傾けてください。


(13-15)

しかし私は主よあなたに叫び求めます。朝明けに私の祈りは御前にあります。

主よなぜあなたは私のたましいを退け私に御顔を隠されるのですか。

私は苦しんでいます。


ハッピーな人が良い人で、苦しむ人が悪い人だと聖書は言っていません。

むしろ、潔白な人が苦しむことがあると聖書は言っています。世界一潔白で信仰深いヨブという人は生き地獄のような苦しみを味わいました。

そして、全く聖なる神様の子であるイエス様が苦しみました。それは通らなければならないものでした。


だから、今、皆さんが苦しみの中にいるなら、ただ、神様だけを求め、神様に訴えながら、孤独と不安をずっと神様に祈りながらすごすことが大切です。


その時、頼りにしていた「あなた自身の努力や活動」は役に立たなくなります。

以前どれだけ上手くやれていた、とか、前は友達がいた、とか、愛する仲間がいて楽しかったとしても、今は全てを失いました。もう、神様しかいません。

今、神様はあなたから全てを取り去って、今まで当たり前だったことができなくなりました。


でも、それは、イエス様にだけに頼り、イエス様に似た人に作り変えられる大事なプロセスです。


●嘆きの祈りの大切さ


神様はこの絶望の祈り、苦しみ、悲しみ、嘆く祈りを聖書に与えてくれました。それは僕らに必要な祈りです。


それは神様が遠いと言って疑わせるためではなく、闇の中でもしっかりと神様を求め続けるためです。詩篇に載っているすべての賛美、すべての祈り、すべての嘆きは、神様が正しく必要なものとして与えてくれました。


(14-15)

主よなぜあなたは私のたましいを退け私に御顔を隠されるのですか。

私は苦しんでいます。


苦しみの時には疑いを感じて自分がダメな人間だと恥じるようになりがちです。

でも、神様はわざわざ、人に嫌われ神にも捨てられた人の祈りをちゃんと書いています。人間にはそういう時があるし、これが真実だということを神様は聖書を通してちゃんと教えて語ってくださっています。


先ほどの本の中で、

トマス・マートンという人の文章が引用され、彼は孤独と絶望を経験する大切さをこう言っています。


「私が心から兄弟たちを愛せるようになったのは、深い孤独の時間を過ごしてからだった。何をしたから、何ができるから、自分にとっていい人だからでなく、ただ、彼らが彼らである、という理由だけで愛するように変えられた」と。


孤独と沈黙が教えてくれたのは、そういう種類の愛です。

全てを取り去られることは、何ができるとか、できないとか、性格がどうだとか、そんな人間的な基準を全て取り去ってくれます。


子どもを失っていまだに苦しんでいる人とか、今だ癒されない病気の中にいる人とか、今日の聖書は私たちの苦しみと嘆きの代弁をしてくれています。

そしてそれはイエス様の苦しみであることを明らかにしています。


僕らはますますラクをして早く答えをもらう時代に生きています。タイパの時代、コスパの時代です。あまり苦労しないで最大の効果を願うのがこの世です。そしてそれを神様にも期待します。でも、神様はあえてそうではない、大切な祈りをここに載せました。


また、もがいている人は「きっと信仰が足りないんだ」と僕らは勝手なことを言いがちです。


ヨブの友達たちも責めました。「きっとあなたは何か悪いことをしたからもがいてるんだろう」と。

「神様が答えてくれないはずがない。あなたは言って何をやったんだ」と言って苦しみ続けるヨブを責めます。


苦しむ時に「きっと自分に問題があるんだ。自分の信仰に問題があるんだ。神様から捨てられたんだ」と感じることもあります。

詩篇はそれがダメだとは言っていません。預言者たちも、使徒たちも、途中で深い孤独を体験したことがたくさん聖書に書かれています。皆さんがおかしくなったのではありません。最初から聖書がそのような御霊の苦しみ、うめきを祈りとして書いているからです。

苦しみは失敗でも恥でもないんだと言うことです。神の御言葉がそう教えています。


イエス様がそのようなとこを通ったお方だから、イエスキリストにつながる私たちも苦しみを体験します。孤独を感じ、友達に捨てられ、神にも捨てられたと感じる時期があります。

そして、教会はそのような苦しみの中にある兄弟姉妹と一緒に歩むことです。


死にそうな時にも神はそこにいてくださいます。暗闇のどん底、絶望のどん底にいても神様そこにいて下さいます。


イエス様は十字架の上で「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と叫びました。神様に見捨てられたと感じている人たちの仲間になってくれました。


霊的な生活とは、偽らなで、作らないで、悲しいのににっこりしないで神様に訴えることです。怖い時は怖い、苦しい時は苦しい、寂しいときは寂しい、って神様に言うことです。


神様に求め続け、叫び続けましょう。イエス様の御霊が言いようもない深いうめきを持って一緒に祈り、とりなしてくださっています。


(1-2)

主よ私の救いの神よ昼私は叫びます。夜もあなたのみそばで。

私の祈りをあなたの御前にささげます。どうか私の叫びに耳を傾けてください。


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