民数記7.89
僕らはいつでもどこでも大胆に、直接、神様と語り合うことができます。本来なら神様は聖すぎて、汚れのある僕らと本来は交わることができません。聖なる神様と人間が交わるなら、人間がその汚れや罪ゆえに滅んでしまう乗り越えられない絶対的な壁がありました。それでも神様は人間を愛し、人々の真ん中に住みたいと思って、会見の天幕をつくりました。
神様を直接見て生きていることができない、と旧約聖書は言います。(出エジプト33.20、イザヤ6.5など)同時に、神様は人間を愛し、人間と交わり語りたいと願っておられます。旧約聖書の時代、モーセだけは別格でした。ギリギリ近くまで呼ばれ、「主は、人が自分の友と語るように、顔と顔を合わせてモーセと語られた。」とあります。(出エジプト33.11)その場所は、会見の天幕の1番奥の至聖所と呼ばれる場所でした。
"モーセは、主と語るために会見の天幕に入ると、あかしの箱の上にある「宥めの蓋」の上から、すなわち二つのケルビムの間から、彼に語られる御声を聞いた。主は彼に語られた。"
民数記 7章89節
神様とお会いする時、神様に殺されることがないように「宥めの蓋」が必要でした。神様の怒りをなだめ、あわれんでもらうための蓋です。その蓋には年に1度、牛の血とやぎの血が注ぎかけられていました。(レビ記16章14から15節) 神の怒りを身代わりに動物が引き受け、怒りがなだめられるためです。モーセでさえ神様とお会いするには「宥めの蓋」と犠牲の血が必要でした。
さらに、神様の声を聞く場所は2つのケルビムの像が覆っていました。ケルビムとは、神様の聖なる場所を守る者です。エデンの園から人間が追放された時も、ケルビムはエデンの場所を守るものでした。(創世記3.24)
ギリギリのところまで、聖なる神様に近づいて、友人のように語りあったモーセでさえも、宥めの蓋とケルビムの守りが必要でした。
新約聖書によると、イエス様の犠牲の血によってそれらの壁はすべて取り除けられ、僕らはいつでもどこでも大胆に、直接、神様と語り合うことができます。
"兄弟たち。私たちはイエスの血によって大胆に聖所に入ることができます。"
ヘブル人への手紙 10章19節
僕らは、モーセのように、神様に親しく語り合う特権が与えられています。直接神様と語り合い、神様の声を聞くことができます。神様はとがめることなく惜しげもなく教えてくださる方です。「だれにでも惜しみなく、とがめることなく与えてくださる神に求めなさい。」と聖書は言います。(ヤコブ1.5)
この特権を使わないのはもったいなすぎます。「叱られるかもしれない」とビクビクしながら近づくのではありません。僕らは完全に赦され、受け入れられ、愛されている神様の子どもです。
"神の御霊に導かれる人はみな、神の子どもです。
あなたがたは、人を再び恐怖に陥れる、奴隷の霊を受けたのではなく、子とする御霊を受けたのです。この御霊によって、私たちは「アバ、父」と叫びます。"
ローマ人への手紙 8章14~15節
この神様に近づき、聞きましょう。まずはChatGPTではありません。まず神様です。まずはGoogle検索ではありません。
"ですから私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、折にかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。"
ヘブル人への手紙 4章16節
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