民数記14.1-25
最近の調査によると「出世を望まない人」が「出世を望む人」より大きく上回るようになったそうです。理由は責任者としてのストレスが自分をすり減らす現実を目の当たりにしているからです。
これはキリスト教会でも同じ傾向があり、教会の責任者になりたがらない伝道者や宣教師が増えているそうです。僕自身、気持ちはわかります。クレームを受け、人々の対立や感情的なもつれ、その怒りや悲しみを浴びることもあり、その時は辞めたくなります。
イスラエルの指導者モーセとアロンは、200万人の人々の不安と怒りを浴びせられ総攻撃に会います。吊るし上げられているような状況です。
"すると、全会衆は大声をあげて叫び、民はその夜、泣き明かした。
イスラエルの子らはみな、モーセとアロンに不平を言った。全会衆は彼らに言った。「われわれはエジプトの地で死んでいたらよかった。あるいは、この荒野で死んでいたらよかったのだ。
なぜ主は、われわれをこの地に導いて来て、剣に倒れるようにされるのか。妻や子どもは、かすめ奪われてしまう。エジプトに帰るほうが、われわれにとって良くはないか。」
そして互いに言った。「さあ、われわれは、かしらを一人立ててエジプトに帰ろう。」
そこで、モーセとアロンは、イスラエルの会衆の集会全体の前でひれ伏した。"
民数記 14章1~5節
モーセとアロンの対応は指導者としてのお手本です。それは反論することでも説得することでもありません。ただ、神様の前にひれ伏この問題を報告し、執り成しの祈りをすることです。「モーセとアロンはひれ伏した」とあります。もちろんモーセもイライラして「この人たちは、どうしてこうなんですか!」という思いもありました。それでも文句を言う人々の側に立って、人々を代表して神様に平伏して謝ります。このスタイルは、イエス様のスタイルです。聖書が教えるリーダーとは、みんなの罪や弱さを、神様の前に背負ってとりなし祈る人です。
モーセは人々が偶像礼拝をした時も次のように祈りました。
"そこでモーセは主のところに戻って言った。「ああ、この民は大きな罪を犯しました。自分たちのために金の神を造ったのです。
今、もしあなたが彼らの罪を赦してくださるなら──。しかし、もし、かなわないなら、どうかあなたがお書きになった書物から私の名を消し去ってください。」"
出エジプト記 32章31~32節
これはイエス様の型です。イエス様ご自身は罪を犯さなかったけども、罪人側の代表として十字架で貼り付けになりながら祈ります。
"そのとき、イエスはこう言われた。「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。」"
ルカの福音書 23章34節
逆に、牧師が信徒に対して文句や不満を言うのは簡単です。上司が部下の不満をぶちまけるのも簡単です。イエス様は間逆です。モーセはその姿を先取りしているかのようです。
教会の牧師は組織をうまく回すポジションではありません。人々の現実を神様の前に報告し、一緒に謝るイエス様にならうポジションです。
また、責任者は孤独に頑張る役目ではありません。人々の弱さや罪や混乱をイエス様と一緒に、二人三脚で祈るポジションです。
責任者に批判が来て、理解されずに問題が増える一方の時期もあります。でも、これは「運営が下手」だからではありません。責任者は問題をなくす人ではなく、問題を神様のもとに運ぶ人です。
モーセは赦しをお願いします
その理由は、神様の栄光のため、神様が悪く言われないため、そして神様の愛とあわれみのご性格のゆえです。
"どうか今、あなたが語られたように、わが主の大きな力を現してください。あなたは言われました。
『主は怒るのに遅く、恵み豊かであり、咎と背きを赦す。しかし、罰すべき者を必ず罰し、父の咎を子に報い、三代、四代に及ぼす』と。
この民をエジプトから今に至るまで耐え忍んでくださったように、どうかこの民の咎をあなたの大きな恵みによって赦してください。」"
民数記 14章17~19節
僕らも恐れずに責任を持ちましょう。人々の弱さを逃げずに向き合いましょう。イエス様の姿です。イエス様と一緒です。大丈夫です!
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