2026年4月26日日曜日

祝福される祈り  1歴代4.9-10 メッセージ

 祝福される祈り  1歴代4.9-10


●親から受け継いだ悪い影響からの脱出


皆さんは自分の名前が好きですか?僕は「稔」の名前が好きです。名前には親の願いが込められています。反対に、嫌い、という人もいます。なんでこんな名前をつけたんだ、この名前が自分を苦しめている、という話も聞くことがあります。


質問です。

皆さんの名前の意味はなんでしょう。その名前は皆さんの人生にどんな影響を与えましたか?


今日出てくるヤベツという人は残念な名前をつけられました。


"彼の母は、「私が痛みのうちにこの子を産んだから」と言って、彼にヤベツという名をつけていた。"

歴代誌 第一 4章9節


ヤベツと言う名前は「痛み」という名前です。彼は10節で「私が痛みを覚えることのないようにしてください。」と祈ってます。この「痛み」も原文ではヤベツです。

悲しみとか、苦しみの意味もあるそうです。


ちょっと皆さん想像してください。親から「苦痛」っていう名前をつけられたらどうでしょう。

悪いことを言われつづけて、それが自分の人格になってしまうこともあるようです。

もしもですが、親から「お前はだめな奴だ」「お前は生まれてこなければよかった」とか

「お前は邪魔だ」と言われ続けて、ほんとに人格が歪んでしまうことがあります。親からの言葉が自分を縛り、呪い続ける、ということもあると思います。


※少し前、子どもに「悪魔」って名前をつけて市役所に提出したら拒否されたと言う事件がありました。市役所が拒否した理由は、子どもの成長にとってよくないから、でした。メディアでも話題になり、裁判になるかと思ったんだけど、そのお父さんは最終的に名前を変えたそうです。


このお母さんは、子どもにヤベツ、痛みって名前をつけました。

このヤベツくんがどうなったか、どのように育ったかが書いてあります。

まず結論です。


9節

ヤベツは彼の兄弟たちの中で最も重んじられた。


重んじられた=尊敬された、という意味です。

彼は苦痛という人生にはなりませんでした。

名前とは反対に、苦痛から脱出して新しくて素晴らしい、祝福された人生になりました。

兄弟たちの中で一番尊敬されました。

どうやって脱出したか?それは祈りによって、です。


"ヤベツはイスラエルの神に呼び求めて言った。「私を大いに祝福し、私の地境を広げてくださいますように。御手が私とともにあってわざわいから遠ざけ、私が痛みを覚えることのないようにしてください。」神は彼の願ったことをかなえられた。"

歴代誌 第一 4章10節


「神は彼の願ったことをかなえられた。」とあります。この祈りは、僕らのお手本です


※時々鏡見て「なんか父に似てきた」と思う時あります。旭川にいる母と似てる、と思う時もあります。

顔だけならいいんだけど、父はめっちゃめちゃせっかちでした。僕もだいぶそう面があると思います。


そのように、親から悪い面も受け継いでしまった、という人もいるかもしれません。皆さんはどうでしょう。

例えば、親がめちゃめちゃ心配性だったけど気がついたら自分も心配性になっていた、とか、親が怒りっぽくて嫌だったけど、いつの間にか自分も受け継いじゃっているとか。


本当にそれで困っている人もいます。虐待とか依存症とか、そのような面を受け継いでしまうのは、まさに痛み苦しみです。ヘブル語でヤベツです。


でも、今日の聖書が伝えているのはそのような悪影響から脱出して、全く新しい人生を歩んだヤベツの祈りです。


彼は神様に祝福される新しい人になりました。

家族の影響ではなくて、お母さんのキズや苦しみでなく、ヤベツは神様の子どもとして歩みました。神様の子どもらしく、祝福される人として、祈りながら歩みました。神様は祈りに応えてくださり、祝福してくださいました。


聖書は求めなさい。そうすれば与えられるといいます。


"求めなさい。そうすれば与えられます。探しなさい。そうすれば見出します。たたきなさい。そうすれば開かれます。

だれでも、求める者は受け、探す者は見出し、たたく者には開かれます。"

マタイの福音書 7章7~8節


"自分のものにならないのは、あなたがたが求めないからです。"

ヤコブの手紙 4章2節


皆さん、親から受け継ぎたくないのに、受け継いでしまってる面はあるでしょうか。マイナスことはあるでしょうか。神様の子どもは悪い影響から抜け出せます。全く変えられます。

僕らはキリストに似ていきます。


2コリント3.18

私たちはみな、覆いを取り除かれた顔に、鏡のように主の栄光を映しつつ、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられていきます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。


クリスチャンは毎日新しくされてます。キリストに似た人に変えられていきます。

神様の子どもらしくなっていきます。それは祈りの生活の中で実現します。

私たちの親は神様です。


●大いに祝福してください。


彼は4つのことを祈り続けました。


①私を大いに祝福し、

②私の地境を広げてくださいますように。

③御手が私とともにあって

④わざわいから遠ざけ、私が痛みを覚えることのないようにしてください。


聖書はイエス様を信じる者を祝福するって言います。


"神はキリストにあって、天上にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。"

エペソ人への手紙 1章3節


ここではもう祝福してくださいました、と過去形で書いてあります

神様の前では祝福は、決定事項です。


"あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのです。"

ペテロの手紙 第一 3章9節

 

祝福ってヘブル語で「バラカ」といいます。サラハウスを支える会の名前ですね。

これは相手を喜ぶ、相手を受け入れる、良いものを与える、喜びを持って関わると言う意味があります。彼は求めました。私を大いに祝福してください。

これは、原文では、祝福し、祝福してください、ってくりかえしています。素直に、そして、継続して求めました。


キリストにある人は、祝福されるとはっきりおっしゃる神様です。だから僕らも大胆に求めることができます。過去に関係なく、新しくなった人として、神様が、おっしゃる通りに祝福してください、祝福してください、と大胆に願うことができます。

僕らが求める前から、神様の方からあなた方は祝福を受け継ぐため受けるために召されたのだとおっしゃるからです。


ヤベツは神様の御心に沿って大胆に祈りました。神様の願いとヤベツの祈りは同じでした。祝福してください。神様も祝福したい。ヤベツも祝福されたい。


聖書は愛し合いなさい、とか、仕えなさい、とか、受けるより与える方が幸いといいます。でも、自分が渇いてカラカラだと、愛することも仕えることもできません。ヤベツは求めました。シンプルに求めました。私を大いに祝福してください。

求める人は与えられます。そして、他の人に与えることができます


"あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのです。"

ペテロの手紙 第一 3章9節


●私の地境を広げてください


①私を大いに祝福し、

②私の地境を広げてくださいますように。

③御手が私とともにあって

④わざわいから遠ざけ、私が痛みを覚えることのないようにしてください。


この時代、神様が乳と蜜の流れる素晴らしい土地を与える、と神様の方からおっしゃってくださっている時代です。


だから、私の受けるべき領域を広げてください。与えられる土地をもっと広げてください。これ神様が与えるっておっしゃってることと同じです。

神様がまず、与える、広げる、とおっしゃるからです。


僕らの悪い面ですが、神様の願いよりも小さく設定して、自分はそんなにたくさん与えられなくていい、と控えめに思います。でも、神様の願いは違います。もっともっと良いものを与えようと願っておられます。祝福し、領域を広げて与えようと願っておられます。


僕らは内向きになる傾向があります。自分の快適さや自分の家ことだけ、気に入った安全な人間関係だけ、手の届く範囲だけしか考えない自己中心性があります。でも神様の願いは違います。


例えば、


1テモテ2.4

神は、すべての人が救われて、真理を知るようになることを望んでおられます。


だのに、ウチ教会の快適さだけを考えがちです。福音をすべての人に伝えなさいって神様はいうけど、いや自分の周りだけ、自分の周りにも伝えないで、静かに荒波立てないで、快適な生活を一番にします。


ヤベツは違いました。神様の願い通りの祈りをしました。私の地境を広げてください。私の守備範囲を私が関わる人たちをもっと増やしてください。すべての人が神様の愛の対象です。

神様と近くになればなるほど、神様と同じ広い目線で見るようになります。


例えば、コリントの教会はすごく狭い視野が狭い教会でした


"あなたがたはそれぞれ、「私はパウロにつく」「私はアポロに」「私はケファに」「私はキリストに」と言っているとのことです。"

コリント人への手紙 第一 1章12節


そういう派閥意識があったみたいです。

僕らは神様よりも、自分の教会の事、派閥、自分の事に興味を持ちすぎなのかもしれません。ヤベツは地境を広げてくださいと祈りました。他の人々にもっと関心を持ち、関わり、愛を示すことができるように、関わる領域を、私たちを広げてくださいと祈りました。神様の願いが私たちの願いとなるようにと祈りました。僕らも見習うべき祈りです

場所を広げなさい。神様がもっと与えてくださるから、準備しなさいと神様は言われます。


"あなたの天幕の場所を広げ、住まいの幕を惜しみなく張り、綱を長くし、杭を強固にせよ。

あなたは右と左に増え広がり、あなたの子孫は国々を所有し、荒れ果てた町々を人の住む所とするからだ。"

イザヤ書 54章2~3節


全世界に出て行って福音を伝えなさい。地の果てまでも福音を証するようになります、と聖書が言っています。神様が広げようとしていることがわかります。ヤベツの祈りは神様の願いです。


今、東栄教会が置かれているステージはまさにこれです。

今までの領域を出て、まだ知らない領域、でも神様が与えようとしてくださる領域に出ていくことです。

どこにいくのか知らないで出て行ったアブラハムのように、神様の願いと僕らの祈りが一つになって、地境を広げてください、と祈ることです。


僕は祈りとみことばの奉仕と賛美や音楽の奉仕はするけど、それ以外の、例えば組織の役員みたいなのはしないし、与えられてない、って思っていました。

でも、今年、初めてアンテオケ宣教会の理事の奉仕を引き受けました

先日総会にいきましたけど、多くの先生たち、スタッフの皆さんに直接お会いできました。こんなにいろんな教団のいろんな教会の先生たち、スタッフたちが協力しているんだ、って目の当たりにすることができました。今日本から送り出している宣教師は37人だそうです。アンテオケ宣教会、初めて日本発祥の宣教団体として約50年前にスタートした団体ですが、50年間で93人の宣教師を海外に派遣したそうです。


この奉仕に呼ばれたことも神様の恵みだし、神様の願いの通りに東栄教会としても地境が広がっていくステージに来ているのを感じています。


●神様の御手が私の上にありますように


①私を大いに祝福し、

②私の地境を広げてくださいますように。

③御手が私とともにあって

④わざわいから遠ざけ、私が痛みを覚えることのないようにしてください。


神様の御手と言うのは、神様の力です。その神様がいつも私を守り、その御手で導いてくれます。神様の大きなみ手が、力が私を用いてくださいます。

ヤベツは自分が成功することでなく、神様の大きなみ手を求めました。

祝福されることは、神様のみ手が自分を共にあること。地境が広がることは、神様のみ手が私と共にあることです。神様を求める祈りです。


パウロはめちゃめちゃ用いられたけど、彼の力ではありません。


"このために、私は自分のうちに力強く働くキリストの力によって、労苦しながら奮闘しています。"

コロサイ人への手紙 1章29節


"私を強くしてくださる方によって、私はどんなことでもできるのです。"

ピリピ人への手紙 4章13節


神様の御手が私と共にあると言うのは人間の力と全然違います。高齢になって体が衰えても、内側は毎日新しくされる。そういう神様の力です。


"ですから、私たちは落胆しません。たとえ私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。"

コリント人への手紙 第二 4章16節


皆さんが、今日心貧しいな、って感じているなら幸いです。神様が一緒にいてくださいます。悲しむ人は幸いです。神様が慰めてくださいます。

飢え乾く人は幸いです。神様が満たしてくださいます。


権力によりません。能力にもよりません。ただ、神様のみ手が私と共にあって、なしてくださるだけです。祈りを聞いてくださって祝福し、領分を広げてくださいます。100パーセント神様の愛と力の表れです。


●わざわいを遠ざけ痛まないように


①私を大いに祝福し、

②私の地境を広げてくださいますように。

③御手が私とともにあって

④わざわいから遠ざけ、私が痛みを覚えることのないようにしてください。


神様が私と一緒にいて、私の味方であるなら、誰も私に敵対することができません


"神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。"

ローマ人への手紙 8章31節


いつから人は痛むようになったか?苦しみ悲しむようになったのか?

それは、神様から離れて自分の力で自分の善悪判断で生きようとした時からです。

罪とは、自分が神様のように高ぶることです。


だから、イエス様も「私たちを試みに合わせないで、悪からお救いください」と祈るように言われました。


僕らは今も罪に流れていく傾向があります。高ぶり、自己中心に流れる傾向です。だから悪からお守りください。災いからお守りください、と祈るように言われています。


絶対に悪いことが起きないと言うことではありません。

イエス様はこの人生にあっては苦しみがあります、ともおっしゃっています。

ヤベツ名前は苦痛です。それでもそこから脱出することを、彼は求めて祈りました。

そのためには、悪から遠ざかる必要がありました。

罪は高ぶりであり、自己中心です。神様に従うのではなく、自分の欲望に従うのが罪です。その結果は苦痛です。


ヤベツは祈りました。災いを遠ざけてください。誘惑を、悪を遠ざけてください。私が痛みを覚えることのないようにしてください。それは神様に祝福される歩みを求め続ける姿勢です。


●聞かれたことを信じる生き方


神様はこの祈りを聞いてくださいました。「痛み」という悪い名前だったのに、彼は尊敬される人になりました。「ヤベツは彼の兄弟たちの中で最も重んじられた。」とあります。


祈りとは、神様の願いが自分の願いとなっていくことです。

祝福が神様の願いです。

内向きではなくて地境が広がっていく事が神様の願いです。

神様の御手が私と一緒にあることが神様の願いです。

罪の結果として苦しむのでなく、災いを遠ざけ罪を遠ざけ、神様と共に喜んで平和に生きることが神様の願いです。


"何事でも神のみこころにしたがって願うなら、神は聞いてくださるということ、これこそ神に対して私たちが抱いている確信です。

私たちが願うことは何でも神が聞いてくださると分かるなら、私たちは、神に願い求めたことをすでに手にしていると分かります。"

ヨハネの手紙 第一 5章14~15節


ヤベツは願ったと同時に「もうそうなっている」と信じて生きていたと思います。

「祝福してください、祝福してください」って祈ると同時に「私は祝福されている」と神様の答えを信じていました。

「地境を広げてください」と祈ると同時に「私は広がっていくんだ」と神様のこたえを信じてました。

「神様のみ手が私と共にある」って確信していました。

「私は災いから遠ざかり、痛みから遠ざけられる」と信じて歩みました。


信じて生きる人は今とは違う人生になります。

親から受け継いだあの欠点この欠点ではなくて、神様の子どもとして、祝福される、と信じて生きる人生です。祝福を受け継ぐために僕らは召されました。


実は、もうクリスチャンは祝福されています。神様のみ手の中で生きています。


神様がしてくださった一つ一つをよく見て数えてみましょう。

昨日食べたメニュー、全部が神様の愛であり祝福です。

昨日させてもらってたこと、昨日動けたことを一つ一つ思い出してみましょう。全部は神様のみ手がそこにあります。神様の栄光、神様の愛、神様の救い、神様の御力です。

そして、これからもっと新しく、広く、良いものを与えようとなさっています。


質問です。

自分はどうせこの程度、と決めつけていることはありますか?


自分の人生はどうせこの程度、と決めつけないで、

神様の願いの通りに祈りましょう。祝福されます。領域は広がります。み手が共にあります。

災いを遠ざけてくださいます。


一緒に祈りましょう。

この祈りを僕らの祈りにしましょう。


①私を大いに祝福し、

②私の地境を広げてくださいますように。

③御手が私とともにあって

④わざわいから遠ざけ、私が痛みを覚えることのないようにしてください。

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