使徒24.24-25
病院に行って「重症です。以上。」なら怖いと思います。悪い診断の後には、素晴らしい治療について聞く必要があります。同じように、「裁きがあります。以上」なら怖いです。
大事なのは、「悪い知らせ」の後に「良い知らせ」があることです。
死後の裁きはあることと、イエス様による愛があり赦しがあることの両方が大切です。
逆に、「良い知らせ」だけでもダメです。
「イエス様の愛があるよー」だけでは足りません。ちゃんと「罪に対する神の怒りと裁き」があります。
それをイエス様が身代わりに受けてくださいました。神様の怒りと裁きがあるからこそ、それを引き受けてくださったイエス様の犠牲の愛がわかります。
「悪い知らせ」と「良い知らせ」両方が大事です。
総督フェリクスは「悪い知らせ」だけを聞いて恐ろしくなったようです。
"しかし、パウロが正義と節制と来たるべきさばきについて論じたので、フェリクスは恐ろしくなり、「今は帰ってよい。折を見て、また呼ぶことにする」と言った。"
使徒の働き 24章25節
まず、パウロは「正義について」語りました。神様の正義と僕らの現実にはだいぶギャップがあります。「正しい人はいない」という悪い知らせです。「義人はいない。一人もいない。」と聖書は言います。(ローマ3.10)
神様から見たら、すべての人に罪があります。まるで汚れた服を着ているかのようです。
聖書は「人の心は何よりもねじ曲がっている。それは癒やしがたい」と言います。(エレミヤ書17章9節)努力したりカウンセリングを受けたりしたら、ちょっとは改善するかもしれません。でも、基本的に神様の正しさレベルに到達する事はありません。
やはり神様の怒りと裁きはあります。
ここまで聞いて、フェリクスは「もうそれ以上聞きたくない」と思ったようです。「今は帰ってよい。折を見て、また呼ぶことにする」(25)です。
確かに、神様の裁きはあります。聖書がそう言っています。
「人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている…」(ヘブル9.27)
とあります。でも大切なのはその続きです。
裁きがあるからこそ、イエス様は十字架でその裁きを受けてくださいました。
「キリストも、多くの人の罪を負うために一度ご自分を献げ、二度目には、罪を負うためではなく、ご自分を待ち望んでいる人々の救いのために現れてくださいます。」(ヘブル9.28)僕らの罪をイエス様が背負ってくださり、ご自分を十字架の呪いにささげてくださいました。僕らが受けるべき神の裁きと怒りはイエス様が受けてくださいました。
だからイエス様は言われます。
"まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わされた方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきにあうことがなく、死からいのちに移っています。"
ヨハネの福音書 5章24節
これが良い知らせです。でも、フェリクスは自分の罪と裁きの現実を突きつけられて怖くなってしまったようです。そこで終わってしまってしまいました。
"悪を行う者はみな、光を憎み、その行いが明るみに出されることを恐れて、光の方に来ない。"
ヨハネの福音書 3章20節
罪とか悪は暗闇にいたがります。暗い方バレないからです。
ナメクジとかわらじ虫は暗くてジメジメしたところが大好きです。
同じように罪は光のもとに出したくありません。暗闇に隠しておきたいものです。光に照らされると罪がはっきり見えてしまいます。
病院のMRIとかCTに照らされると悪いところがハッキリわかります。
これ、実は良いことです。悪いとわかるからこそ治療ができます。
僕らに罪があります。神様の怒りの裁きもあります。光に照らされるとそれがわかります。
それがわかるのは脅すためではありません。イエス様の元に導くためです。
イエス様の血はすべての罪から私たちをきよめくださいます。
このように「悪い知らせ」と「良い知らせ」はセットで大切です。
今日も照らされて罪が見えたなら、それは救いのため、赦しのためです。
イエス様の愛と赦しは完全です。ハレルヤ!
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