ヨブ10-11章
神様の前でいい子ぶっても意味がありません。
むしろ、神様の前でこそ正直に悲しみや苦しみや葛藤を注ぎ出して祈るべきです。自分の弱さ、醜さ、不平はすでに神様の前にさらけ出されています。人の前で「大丈夫です」「神様に感謝です」「祈っています」と言っていても、内側では苦しみが渦巻いていることはよくあります。
ヨブは、神様に正直に不満をぶちまけます。
「神様、どうしてですか? どうしてこんな目に遭わせるのですか? 教えてください」と叫んでいます。
"私のたましいはいのちを忌み嫌う。私は不平をぶちまけ、たましいの苦しみのうちに私は語ろう。
私は神にこう言おう。「私を不義に定めないでください。何のために私と争われるのかを教えてください。"
ヨブ記 10章1~2節
神様からどう思われても、とにかく苦しすぎます。まるで神様がライオンのように自分を襲い続けるかのようです。ヨブは神様に、どうして私を生かしているのですか? どうして母の胎から出されたのですか?死産だった方がずっと良かった、と訴えます。
"もし、私が悪しき者とされるのなら、ああ、なんと悲しいことでしょう。私は正しい者とされても、頭を上げることはできません。自分の恥に飽き飽きし、自分の苦しみを見ていますから。
頭を上げると、あなたは獅子のように私を狙い、再び私に驚くべき力をふるわれるでしょう。
あなたは私に対して証人たちを新たに立てて、私に向かって苛立ちを増し加え、いよいよ私を苦しめられるでしょう。
なぜ、あなたは私を母の胎から出されたのですか。私が息絶えていたなら、だれの目にも留まらなかったでしょう。
私は、存在しなかったかのように、母の胎から墓に運ばれていたらよかったのに。"
ヨブ記 10章15~19節
苦しみの理由がすべて分かるわけではありません。ヨブは「どうしてですか」とうめき続けます。でも、神様から離れたいわけではなく、やはり神様に訴え、神様に叫んでいます。ヨブは神様に見捨てられたと感じています。そしてイエス様もまた、十字架の上で、詩篇22篇の言葉を用いて叫びました。
"わが神わが神どうして私をお見捨てになったのですか。私を救わず遠く離れておられるのですか。私のうめきのことばにもかかわらず。"
詩篇 22篇1節
ヨブとイエス様は同じではないけど、苦しみの中で神様に叫び、うめいていた点では共通しています。イエス様は、僕らの苦しみに寄り添い、一緒に苦しんでくださる方です。そして、僕らの罪を自分のこととして背負ってくださった方です。聖書は「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯しませんでしたが、すべての点において、私たちと同じように試みにあわれたのです。」と書いています。(ヘブル人への手紙 4章15節)
だから、ヨブみたいに苦しみの中で叫び、うめき、不満をぶちまけるような祈りを、神様は決してさげすまれません。
ところが、そんなヨブの叫びをツォファルは「言葉数が多い無駄話」として断罪します。
"ことば数が多ければ、言い返されないだろうか。人は唇で義とされるのだろうか。
あなたの無駄話は、人を黙らせるだろうか。あなたが嘲るとき、あなたに恥を見させる者はいないのだろうか。"
ヨブ記 11章2~3節
ツォファルは、ヨブのうめきを聞く耳を持たないどころか、彼の嘆きを裁きます。そして、「神様の知恵は人間の理解を超えているのだから、圧倒的な神様の前で原因探しなどするな」と教えます。ヨブを黙らせようとしているかのようです。
"あなたは神の深さを見極められるだろうか。全能者の極みを見出せるだろうか。
それは天よりも高い。あなたに何ができるだろう。それはよみよりも深い。あなたが何を知り得るだろう。
それを測ると、地よりも長く、海よりも広い。"
ヨブ記 11章7~9節
彼は「神様の知恵は天よりも高く、人間には測り知れない」と語ります。これは正しいことです。でも、ヨブの苦しみについては、「お前が罪を犯したから苦しんでいるのだ」と決めつけます。「神様のなさることは人間には分からない」と言いながら、ヨブの苦しみについては「お前の罪だ」と簡単に決めつけます。
ツォファルは苦しみの原因をかなり単純な因果関係にしようとします。
「正しい人は神様に祝福される。」
「悪い人は苦しみを受ける。」
「だから苦しんでいるヨブは、何か悪いことがあるはず」
はるかに高い神様を、まるで簡単な方程式みたい単純にして扱います。
"もし、あなたが心を定め、神に向かって手を伸べ広げるなら、
もし、手に不法があればそれを遠ざけ、あなたの天幕に不正を住まわせないなら、
そのとき、あなたは欠けのない者として顔を上げることができ、堅く立って恐れることはない。
こうしてあなた自身は労苦を忘れ、これを流れ去った水のように思い出すだろう。
あなたの一生は真昼よりも輝き、闇も朝のようになる。
望みがあるので、あなたは安らぎ、守られて安らかに休む。
横になっても、あなたを脅かす者はいない。多くの者があなたの好意を求める。
しかし、悪者どもの目は衰え果て、彼らは逃れ場を失う。彼らの望みは、最後の一息にすぎない。"
ヨブ記 11章13~20節
聖書は単純な方程式を教えているわけではありません。ヨブの苦しみは、神様がなさることがいかに大きく、人間の思いを超えているかを、僕らに突きつけているかのようです。そして、そのような神様の前で、苦しみながらも神様に心を注ぎ出し、嘆き、求め続けることの大切さを教えているかのようです。
僕らもツォファルみたいに苦しんでいる人を見下し「神様はこう言っている」「あなたが苦しんでいる原因はこれだ」と、簡単に裁いてしまいやすいものです。聖書の知識があることと、神様の心で人を愛することは全然違います。
僕らもすぐに答えを出そうとするのではなく、泣く者とともに泣き、苦しみの中にある人と一緒に苦むものとされたいです。苦しむときにはいい子ぶらず、神様の前に心を注ぎ出して祈る人になりたいです。
僕らにイエス様の心が、イエス様の生き方が、イエス様の愛が、あわれみが与えられますように。
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