ヨブ13.6-19
「神様を愛し、人を愛し…」というのは立派だけど、本音は「自分を立てるため」って気持ちがまとわりつきます。実は自分の栄光が欲しくて、自分の力が欲しくて、愛されたくて、評価されたくて、って願いは消えません。
ヨブはそんな人たちのことを「神のためにと言って不正を語り、神のためにと言って欺く」(7)といいます。ヨブの友人たちは、実は自分たちの正しさを守ろうとしていたようです。
ヨブは全てを失いました。財産も家族も健康も、そして人から尊敬されることも失いました。今はただ、友人たちに責められています。
もともと、1-2章のサタンの主張をまとめるとはこんな感じでした。
「ヨブが神様を敬ってるのは、所詮、祝福目的ですよ。」
「神様を敬うのは良くしてもらってるうちですよ。」
「全部失ったら神様を求めるはずがないっすよ。」
神様はヨブを信頼して全てを取り去ることを許可しました。ヨブが財産や自分の栄光が目的ではないことを証明するためです。
ヨブは本当に全てを失いました。妻や友人からの尊敬もありません。彼は死を覚悟しています。それでも「神を待ち望む」「神は私の救いとなってくださる」といいます。
"見よ。神が私を殺しても、私は神を待ち望み、なおも私の道を神の御前に主張しよう。
神もまた、私の救いとなってくださる。神を敬わない者は、御前に出ることはできない。"
ヨブ記 13章15~16節
もはや誰もヨブの味方になってくれる人はいません。
そして「神様に殺されるかも」と思っています。
それでもヨブは神様を待ち望みます。
僕らは「神様を敬う」と言いつつ、やっぱり自分を求めがちです。ヨブの友人たちはそうでした。そんな彼らにヨブは「ひそかに自分の顔を立てようとする」(10)と指摘します。それは神様に責められるます。
"神は必ずあなたがたを責める。ひそかに自分の顔を立てようとするなら。"
ヨブ記 13章10節
全てを捨てて神様をあがめ、神様に従うようにと聖書は教えます。イエス様は全てを捨てて従わなければ「弟子になることはできません」とおっしゃいます。
(ルカ14.26-27)
「わたしのもとに来て、自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、そのうえ自分のいのちまでも憎まない者は、わたしの弟子になることができません。自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしの弟子になることはできません。
もちろん家族も健康も大事です。でも、祝福という「ごほうび」が欲しいから神様を愛するのではなく、神様ご自身を愛して従うように、とイエス様はおっしゃいます。
これは人間的な努力では無理です。
でも、お手本があり助けがあります。
全てを捨てて神様に従ってくださったのはイエス様ご自身です。
イエスこそ栄光も人からの尊敬もそしていのちも手放して仕える人となり、十字架にまで従った唯一のお方です。「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」(マタイ27.46)と叫びながらも、神様を待ち望み、神様にご自分を委ねたのがイエス様です。
しかも、そのイエス様の御霊が僕らの中に住んでおられます。
「もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2.20)
今日の歩みが自分の計算や損得が0%、イエス様の思いが100%になりますように。
密かに自分の顔を立てようとするものでなく、全部が神様の御霊によって、神様の栄光のために生きるものとされますように。神様、僕らを聖霊で満たしてください。
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