ヨハネ11.1-5
「もうだめだ」とならない限り、僕らは神様に完全に委ね切り、神様に全てをお任せしないものです。でも、人が手出しできない状況になるなら、僕らは神様にお任せするしかありません。病気になることや死ぬことは完全に神様の領域です。
イエス様にとって、愛するラザロが病気になったことは神様の愛と栄光が現れる機会でした。
(1-5)
さて、ある人が病気にかかっていた。ベタニアのラザロである。ベタニアはマリアとその姉妹マルタの村であった。
このマリアは、主に香油を塗り、自分の髪で主の足をぬぐったマリアで、彼女の兄弟ラザロが病んでいたのである。
姉妹たちは、イエスのところに使いを送って言った。「主よ、ご覧ください。あなたが愛しておられる者が病気です。」
これを聞いて、イエスは言われた。「この病気は死で終わるものではなく、神の栄光のためのものです。それによって神の子が栄光を受けることになります。」イエスはマルタとその姉妹とラザロを愛しておられた。
「栄光」とは重要性、という意味です。ラザロが病気になり、死ぬことによって、彼や家族の愛や重要性よりも、神様の愛と主権が重要であることが明らかになります。病気になることは神様が愛していないことではなく、神様だけがいのちをコントロールする唯一の主権者であることが明らかになる機会です。僕らも試練や病や死を通して、愛してくださり、愛する人に最善をしてくださる神様に信頼し手放すように変えられます。(ローマ8.28)
苦難は僕らの信仰の成長のためです。神様は僕らはもっと神様に信頼し、主権を明け渡す成長のためにそうした苦難を用いられます。イエス様はマルタもマリヤもラザロも愛しておられます。そして、今日も僕らを愛しておられます。試練の中でも愛しておられます。試練は僕らを削り、きよめるプロセスです。全てが神様の栄光となり、人はその祝福に自分の手柄や業績を何も付け加えなくなるためです。主は今日も試練を通して僕らにもっと良いご計画をなしてくださいます。ハレルヤ!
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