ヨハネ9.39-41
イエス様の王国はこの世での評価とは真逆です。心の貧しい人が祝福され、悲しむ人が慰められ、義に飢え乾く人が満足します。(マタイ5.3以降)反対に、自分はわかっている、自分は正しく間違ってない、と言う人の罪は残り、高ぶる人は低くされます。
(39)
そこで、イエスは言われた。「わたしはさばきのためにこの世に来ました。目の見えない者が見えるようになり、見える者が盲目となるためです。」
自分は元気で病気ではない、と思っている患者は治療を受けようとしません。同じように、自分は罪はない、と思う人はイエス様による十字架の赦しの福音のところに来ようとしません。「私は(心の)目が見えている」という人はイエス様を必要と思せず、結局罪がそのままになってしまいます。
(40-41)
パリサイ人の中でイエスとともにいた者たちが、このことを聞いて、イエスに言った。「私たちも盲目なのですか。」
イエスは彼らに言われた。「もしあなたがたが盲目であったなら、あなたがたに罪はなかったでしょう。しかし、今、『私たちは見える』と言っているのですから、あなたがたの罪は残ります。」
『私たちは見える』という人は盲目だとイエス様が言われます。
イエス様の光は、僕らの心の中の高ぶり、罪を照らします。光によって僕らの本当の姿がわかります。今日、苦しみや失敗、悲しみや問題があるならイエス様の光に照らされるチャンスです。
特に熱心なクリスチャンほど危険です。牧師やリーダーこそ「わかっている」と言いがちです。イエス様からの警告です。「『私たちは見える』と言っているのですから、あなたがたの罪は残ります。」
今日、欠点や問題があるなら感謝しましょう。自分にがっかりするなら感謝しましょう。心の貧しさを自覚することは恵みです。今日も自分ではなく、イエス様の福音が中心でありますように。
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