2022年12月15日木曜日

ヨハネ9.13-23

 ヨハネ9.13-23


自分の思い込みとか、人から教わったこととかが強すぎて神様が本当に願っていることとズレてしまうことがあります。安息日をどう過ごすかも、当時のパリサイ人たちの伝統とイエス様の願いはズレていました。神様にとって週に1日の安息日は喜びの日、解放の日、感謝と賛美の日です。つまりは神様から愛され、神様を愛し、人が人を愛する特別な日です。神様の願いは以下のようです


(イザヤ58.6-7)

悪のきずなを解き、くびきのなわめをほどき、しいたげられた者たちを自由の身とし、すべてのくびきを砕くことではないか。飢えた者にはあなたのパンを分け与え、家のない貧しい人々を家に入れ、裸の人を見て、これに着せ、あなたの肉親の世話をすることではないか


(イザヤ58.13-14)

わたしの聖日に自分の好むことをせず、安息日を「喜びの日」と呼び、主の聖日を「はえある日」と呼び、これを尊んで旅をせず、自分の好むことを求めず、むだ口を慎むなら、そのとき、あなたは主をあなたの喜びとしよう。


イエス様は安息日にいつも病人を癒されました。この時も盲人のためにイエス様は泥を作って目に塗り、盲人はシロアムの池まで行って洗って見えるようになりました。これら全ては神様からの恵み、癒しです安息日にふさわしい行為でした。…が、パリサイ人たちは自分たちの思い込みや口伝の伝統が強すぎてイエス様を「安息日を守らない罪人」「神のもとから来たものではない」と決めつけました。


(13-16)

人々は、前に目の見えなかったその人を、パリサイ人たちのところに連れて行った。

イエスが泥を作って彼の目を開けたのは、安息日であった。

こういうわけで再び、パリサイ人たちも、どのようにして見えるようになったのか、彼に尋ねた。彼は、「あの方が私の目に泥を塗り、私が洗いました。それで今は見えるのです」と答えた。

すると、パリサイ人のうちのある者たちは、「その人は安息日を守らないのだから、神のもとから来た者ではない」と言った。ほかの者たちは「罪人である者に、どうしてこのようなしるしを行うことができるだろうか」と言った。そして、彼らの間に分裂が生じた。


自分の思い込みとか、人が作った伝統とか教えとかが強いと神様の恵みを見失わせてしまいます。

ユダヤ人たちはこの盲人の両親を呼び出して尋問しますが、両親もまたユダヤ人たちから追放されることを恐れてイエス様が目を開けてくれたことを証言しません。みんな人の教えが上で、神様の真実や恵みをそれ以下に置いています。


(20-23)

そこで、両親は答えた。「これが私たちの息子で、盲目で生まれたことは知っています。

しかし、どうして今見えているのかは知りません。だれが息子の目を開けてくれたのかも知りません。本人に聞いてください。もう大人です自分のことは自分で話すでしょう。」

彼の両親がこう言ったのは、ユダヤ人たちを恐れたからであった。すでにユダヤ人たちは、イエスをキリストであると告白する者がいれば、会堂から追放すると決めていた。

そのために彼の両親は、「もう大人ですから、息子に聞いてください」と言ったのである。


人の教えは間違えます。牧師も間違えます。神学校も間違えます。用いられますが完璧ではありません。でも、イエス様のみことばは真理です。間違うことがありません。僕らが人の伝統や自分の思い込みでなく、いつも真理のみことばから直接教えられ、矯正され、解放され、神様の恵みと愛にとどまり続けますように!人の教えでなく、みことばが今日も僕らを生かします。みことばこそいのちです今日もみんなが自分で聖書からいのちを得ますように。

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