2022年12月15日木曜日

ヨハネ11.17-26

 僕らは失敗しないように、死なないように、上手くいくように、と願います。ところが、自分が死ぬことによって初めて出会う神様のいのちがあります。失敗したことによって初めて知ることができる神様のいのちがあります。


イエス様はラザロが病気から癒されるのでなく、彼が死んでからイエス様のいのちによって復活することがわかるように、そして周りの人たちもそれを体験できるために、わざわざ彼が死んで4日後に彼の元に行きました。


(17)

イエスがおいでになると、ラザロは墓の中に入れられて、すでに四日たっていた。


イエス様は言われました。


(25-26)

イエスは彼女に言われた。「わたしはよみがえりですいのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです

また、生きていてわたしを信じる者はみな、永遠に決して死ぬことがありません。あなたは、このことを信じますか。」


種が1度地に落ちて死ななければならないように、僕らがイエス様のいのちを知り、イエス様のいのちに繋がるプロセスは僕らが1度自分を失うことです。「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままですしかし、死ぬなら、豊かな実を結びます。自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世で自分のいのちを憎む者は、それを保って永遠のいのちに至ります。」(ヨハネ12.24-25)


自分の頑張り、努力、知恵や経験も神様の恵みですが、イエス様ご自身によって生きることは、はるかに大きく、確実でしかも永遠です

僕らは自分で生きているのではありません。いのちはイエス様です。しかも、このいのちは死んでもなくなりません。挫折や失敗とは関係のないいのちですこの世の栄華は儚く消えて行きます。でも、イエス様ご自身は永遠に光でありいのちですイエス様を信頼することは、「人に信頼するよりもよい。」と聖書は言います。(詩篇118.8)


今日も自分でなくイエス様に信頼し、イエス様のいのちが現される日でありますように。ハレルヤ!


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