プライドを捨てて、とか、謙遜に…とか言われても僕らはガンコで自分を捨てようとしません。
そんな僕らが変えられるのはイエス様の姿を知らされ、自分を手放して委ねる時です。信じる僕らはイエス様と一緒に死んだ者であり、今はイエス様が自分の中に生きています。
(ガラテヤ2.19-20)
私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。
イエス様は弟子たちのしもべとなり、弟子たちの足を洗いました。これは奴隷がする仕事です。イエス様が彼らの足を洗うことはへりくだって彼らを愛することでした。
(1)
さて、過越の祭りの前のこと、イエスは、この世を去って父のみもとに行く、ご自分の時が来たことを知っておられた。そして、世にいるご自分の者たちを愛してきたイエスは、彼らを最後まで愛された。
(4-5)
イエスは夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。
それから、たらいに水を入れて、弟子たちの足を洗い、腰にまとっていた手ぬぐいでふき始められた。
足を洗うことはイエス様が弟子たちの罪の汚れを引き受け、身代わりとなる意味も重なっています。この後イエス様は他人の罪の汚れを引き受けて十字架で苦しめられ、捨てられます。イエス様に洗ってもらうことは、イエス様に愛されることであり、イエス様にきよめられ、赦される大事なことでした。ですが、その時にはペテロも意味がわかりませんでした。
(6-8)
こうして、イエスがシモン・ペテロのところに来られると、ペテロはイエスに言った。「主よ、あなたが私の足を洗ってくださるのですか。」イエスは彼に答えられた。「わたしがしていることは、今は分からなくても、後で分かるようになります。」
ペテロはイエスに言った。「決して私の足を洗わないでください。」イエスは答えられた。「わたしがあなたを洗わなければ、あなたはわたしと関係ないことになります。」
イエス様が相手よりも下になって愛し、仕えてくださったのは僕らの模範です。
(14-15)
主であり、師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのであれば、あなたがたもまた、互いに足を洗い合わなければなりません。
わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、あなたがたに模範を示したのです。
僕らが頑張ってできることではありません。イエス様が誰よりへりくだって自分を捨てて愛してくださいました。そのイエス様は僕らの中に住んでおられ、僕らを用いて神様の愛を表そうとされています。
今日、イエス様の謙遜さと愛が僕らにも満たされますように。自分を捨てて、イエス様の手足として他人に仕え、愛することができますように。
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