僕らの命も力も神様のものであり、神様は僕らの人生を僕らが思う以上に栄光に満ちた素晴らしいものにしようとしておられます。神様の力と栄光が表されるためには、僕らが自分の小さなプライドや計画を手放し、神様に明け渡すことです。言い換えるなら自分に死ぬことであり、自分の体を神様に委ね切ることです。
ユダヤ人たちはエルサレムに帰ってきて、まず決まった通りに「全焼のささげ物」をささげるようになりました。しかもそれは朝ごと夕ごとに毎日でした。「全焼のささげ物」とは、自分自身を完全に神様にささげ切ることを表すために、自分の代わりに動物を殺して完全に灰になるまで焼き尽くすものです。
(2-4)
そこで、エホツァダクの子ヨシュアとその兄弟の祭司たち、またシェアルティエルの子ゼルバベルとその兄弟たちは、神の人モーセの律法に書かれているとおりに全焼のささげ物を献げるため、イスラエルの神の祭壇を築いた。(…中略…)彼らはその上で主に全焼のささげ物、すなわち、朝ごと夕ごとの全焼のささげ物を献げた。彼らは、書かれているとおりに仮庵の祭りを祝い、毎日の分として定められた数にしたがって、日々の全焼のささげ物を献げた。
「全焼のささげ物」とは献身の表明です。僕らはいつも自分の優先したいことがあります。でも、一旦それを手放し、神様のご計画や神様が願っておられる優先順位に自分を委ね切ることに、僕らも朝ごと夕ごとに立ち帰ることが必要です。
僕ら自身をささげるのが「全焼のささげ物」です。
ユダヤ人たちがどんなに罪深く、神様に背いても、それでも神様はエルサレムに連れ戻してくださいました。
廃墟となった神殿を彼らはもう一度イチから作ろうとします。どんなに人間が神様から離れようとも神様はいつくしみ深く回復させてくださいました。彼らは神殿の礎を据えた時、「主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまでもイスラエルに」と互いに歌い交わしました。
(10-11)
建築する者たちが主の神殿の礎を据えたとき、イスラエルの王ダビデの規定によって主を賛美するために、祭服を着た祭司たちはラッパを持ち、アサフの子らのレビ人たちはシンバルを持って出て来た。そして彼らは主を賛美し、感謝しながら「主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまでもイスラエルに」と歌い交わした。こうして、主の宮の礎が据えられたので、民はみな主を賛美して大声で叫んだ。
人は自分で生きているのではありません。全てが神様の恵みであり神様の愛であり、神様の力です。
傲慢になって離れていたユダヤ人たちも戻ることができました。僕らも日々立ち返りましょう。神様こそが全てです。
自分を捨て、神様に毎日戻り、すべての恵みを感謝することは最高の人生になります。
神様は僕らに悲しみではなく喜びを与えようとなさっています。今日も僕らが自分を捨てて神様に感謝する1日でありますように。
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