ヨハネ4.27-42
僕らは嬉しいことがあると早く他の人に伝えたい!と思います。心が乾き、人目を避けていたサマリヤの女性は、イエス様と出会って喜びに満たされ、人を恐れて避けていたことなど忘れて人々にイエス様が来ていることを伝えました。町の人々はイエス様のところにやってきました。彼女は感動と喜びに突き動かされていました。
(28-30)
彼女は、自分の水がめを置いたまま町へ行き、人々に言った。
「来て、見てください。私がしたことを、すべて私に話した人がいます。もしかすると、この方がキリストなのでしょうか。」
そこで、人々は町を出て、イエスのもとにやって来た。
彼女はしぶしぶ町に伝えに行ったのではありません。そうせずにはいられなかったのです。クリスチャンが他の人に福音を伝えたり、イエス様のために奉仕したり、献金したりすることの全ては強要されるものではなく、イエス様との交わりの喜びと感動から出るものです。
それはイエス様にとっても喜びです。いなくなっていた一匹の羊を見つけ出した羊飼いは大喜びします。(ルカ15:5-6)また、放蕩していた息子が帰ってきた時の父は楽しみ喜びます。(ルカ15.23)イエス様を信じて永遠の命に繋がることは、それに関わる全ての人の喜びです。
(36)
すでに、刈る者は報酬を受け、永遠のいのちに至る実を集めています。それは蒔く者と刈る者がともに喜ぶためです。
イエス様にとって、父である神様の願いの通りにすることは喜びであるだけでなく、食べ物のようです。神様は命そのものです。神様の言われたことばを実行することは命そのものである神様と一つとなっていくことだし、神様の命が現れることです。イエス様はそれを「あなたがたが知らない食べ物」とおっしゃいました。
(31-34)
その間、弟子たちはイエスに「先生、食事をしてください」と勧めていた。
ところが、イエスは彼らに言われた。「わたしには、あなたがたが知らない食べ物があります。」
そこで、弟子たちは互いに言った。「だれかが食べる物を持って来たのだろうか。」
イエスは彼らに言われた。「わたしの食べ物とは、わたしを遣わされた方のみこころを行い、そのわざを成し遂げることです。
これは僕らにも適用できます。
「人はパンだけで生きるのではない、人は主の口から出るすべてのもので生きる」(申命記8章3節)
いくら美味しいものを毎日食べても、神様と繋がらず従わないなら喜びも力もありません。でも、神様に従うことは僕らにとって喜びと力です。なぜなら神様ご自身が喜びと力に満ちておられる方だからです。
人々がイエス様を信じて永遠のいのちにつながるために用いられるほどの喜びはありません。
(35-36)
あなたがたは、『まだ四か月あって、それから刈り入れだ』と言ってはいませんか。しかし、あなたがたに言います。目を上げて畑を見なさい。色づいて、刈り入れるばかりになっています。
すでに、刈る者は報酬を受け、永遠のいのちに至る実を集めています。それは蒔く者と刈る者がともに喜ぶためです。
今日もイエス様との交わりが僕らの力の源です。神様の言葉が食事です。そして、それに従うことは喜びです。神様から流れる命と力が僕らを満たし、僕らを通して現されますように!
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