新約聖書 ヨハネ4.39-44
もし聖書がただの教えとか教養のための増やすためのものなら、そこに喜びもいのちもありません。が、聖書はお勉強するためのものでなく、イエス様のもとに行き、イエス様と交わるためのものです。イエス様によって聖書は僕らのいのちとなり、それは冷たいルールや知識ではなく、今生きて働いている神様との生きた交わりになります。
(39-40)
あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思って、聖書を調べています。その聖書は、わたしについて証ししているものです。
それなのに、あなたがたは、いのちを得るためにわたしのもとに来ようとはしません。
僕らはイエス様を知り、イエス様を信頼して人生を明け渡すために聖書を読み、調べます。そこには天から注がれるいのちの喜びと平安があります。
ユダヤ人たちは旧約聖書をよく学び、暗記していました。でもそれが彼らのプライドとなり栄光となっていたようです。聖書に詳しくて「すごいねー」と言われ尊敬されることを求めていたようです。でも、そこには神様への愛がありません。僕らが求めるべきは自分の評判とか自慢ではなく、神様の栄光、そして神様に喜ばれることです。
(41-44)
わたしは人からの栄誉は受けません。
しかし、わたしは知っています。あなたがたのうちに神への愛がないことを。
わたしは、わたしの父の名によって来たのに、あなたがたはわたしを受け入れません。もしほかの人がその人自身の名で来れば、あなたがたはその人を受け入れます。
互いの間では栄誉を受けても、唯一の神からの栄誉を求めないあなたがたが、どうして信じることができるでしょうか。
教会も「どちらが偉いか、正しいか」という話になりがちです。しかもそこに聖書の知識とかが自慢の要素として入りがちです。
そこには神様への愛はなく、神様から与えられる栄誉もありません。
聖書を読み学ぶことが、今日も僕らがイエス様に感謝し賛美し、イエス様を愛し、明け渡し、イエス様に愛されるものでありますように。
ハレルヤ!
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