2022年12月15日木曜日

ヨハネ4.39-44

 新約聖書 ヨハネ4.39-44


もし聖書がただの教えとか教養のための増やすためのものなら、そこに喜びもいのちもありません。が、聖書はお勉強するためのものでなく、イエス様のもとに行き、イエス様と交わるためのものですイエス様によって聖書は僕らのいのちとなり、それは冷たいルールや知識ではなく、今生きて働いている神様との生きた交わりになります。


(39-40)

あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思って、聖書を調べています。その聖書は、わたしについて証ししているものです

それなのに、あなたがたは、いのちを得るためにわたしのもとに来ようとはしません。


僕らはイエス様を知り、イエス様を信頼して人生を明け渡すために聖書を読み、調べます。そこには天から注がれるいのちの喜びと平安があります。


ユダヤ人たちは旧約聖書をよく学び、暗記していました。でもそれが彼らのプライドとなり栄光となっていたようです聖書に詳しくて「すごいねー」と言われ尊敬されることを求めていたようです。でも、そこには神様への愛がありません。僕らが求めるべきは自分の評判とか自慢ではなく、神様の栄光、そして神様に喜ばれることです


(41-44)

わたしは人からの栄誉は受けません。

しかし、わたしは知っています。あなたがたのうちに神への愛がないことを。

わたしは、わたしの父の名によって来たのに、あなたがたはわたしを受け入れません。もしほかの人がその人自身の名で来れば、あなたがたはその人を受け入れます。

互いの間では栄誉を受けても、唯一の神からの栄誉を求めないあなたがたが、どうして信じることができるでしょうか。


教会も「どちらが偉いか、正しいか」という話になりがちですしかもそこに聖書の知識とかが自慢の要素として入りがちです

そこには神様への愛はなく、神様から与えられる栄誉もありません。

聖書を読み学ぶことが、今日も僕らがイエス様に感謝し賛美し、イエス様を愛し、明け渡し、イエス様に愛されるものでありますように。

ハレルヤ!


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