ヨハネ7.14-24
ウチの教会の阿部牧師は説教の前に毎回必ず「自分を隠してください」と祈ります。神様のみことばと栄光だけを求めるからです。イエス様はおっしゃいました。
(18)
自分から語る人は自分の栄誉を求めます。しかし、自分を遣わされた方の栄誉を求める人は真実で、その人には不正がありません。
自分をよく見せようととする人は話を盛ったり減らしたりします。でも、主の栄光を求め、自分を捨てて神様のしもべになろうとする人は、主のことばに忠実で改ざんしたり、ある点だけを誇張したりしません。その人は真実です。ユダヤ人指導者たちは「自分の栄誉」を求めて、学校に行ったり有名な先生から学んだりしていたようです。イエス様には学歴は何もありません。ただ、自分を放棄して聖霊に満たされ神様のみこころだけを語っていました。
(15-17)
ユダヤ人たちは驚いて言った。「この人は学んだこともないのに、どうして学問があるのか。」
そこで、イエスは彼らに答えられた。「わたしの教えは、わたしのものではなく、わたしを遣わされた方のものです。
だれでも神のみこころを行おうとするなら、その人には、この教えが神から出たものなのか、わたしが自分から語っているのかが分かります。
僕らはどうしても「自分の栄誉」を求めることが付きまとってしまいます。人から良くみられたいし、評価されたいという邪心が真理を真理を曇らせてしまいます。神様の言葉と栄光だけを求める人こそ真実です。
ユダヤ人たちは自分たちが作った律法の解釈が尊重されるために「こうでなければならない」という細かいルールを作り守っていました。それも「自分の栄誉」を求めることだったようです。
(23-24)
モーセの律法を破らないようにと、人は安息日にも割礼を受けるのに、わたしが安息日に人の全身を健やかにしたということで、あなたがたはわたしに腹を立てるのですか。うわべで人をさばかないで、正しいさばきを行いなさい。」
神様の栄光だけを求めることこそ、正しい判断です。
イエス様でさえ、神様としてのあり方に固執せず、へりくだって人となり、しもべとなり、十字架で呪われる人の場所まで自分を低くして下さいました。(ピリピ2.6-11)今日も主の栄光だけが現される1日でありますように。ハレルヤ!
(詩篇 115:1)
私たちにではなく、主よ、私たちにではなく、あなたの恵みとまことのために、栄光を、ただあなたの御名にのみ帰してください。
0 件のコメント:
コメントを投稿