聖書は僕らに「主に向かって喜び歌おう!」「喜び叫ぼう!」と呼びかけます。僕らの人生には悲しみや苦しみが満ちているのにです。他の箇所では「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。」です。(1テサロニケ5.16-18)喜べないこと、苦しみ悲しみが周りにたくさんあるのに、どうして「喜び歌おう!喜び叫ぼう!」なのでしょう。
(1-2)
さあ主に向かって喜び歌おう。私たちの救いの岩に向かって喜び叫ぼう。
感謝をもって御前に進み賛美をもって主に喜び叫ぼう。
理由は神様が全てにまさって偉大であり、全てのもの、全ての出来事が神様のみ手の中にあるからです。
(3-5)
まことに主は大いなる神。すべての神々にまさって大いなる王である。地の深みは御手のうちにあり山々の頂も主のものである。
海は主のもの。主がそれを造られた。陸地も御手が形造った。
僕らの知らない地下の泉や鉱山も神様の手の中にあるし、僕らが見たこともない山々の頂も神様のものです。一番低いところから、一番高いところまで、そしてそこで起こる全ての出来事が全部主の御手の中にある、ということです。僕らは目先を見て悲観しますが、神様は「救いの岩」です。(1)どんなに今悲しいことがあっても、神様は全てを益として作り替えられます。(ローマ8.28)
将来、僕らは愛される羊として安心して神様と暮らすことになります。
(7)
まことに主は私たちの神。私たちはその牧場の民その御手の羊。
僕らは神様を自分のアタマでわかる範囲だけの小さな神様にしようとします。これでは自分が上で神様が下です。実際は神様は僕らの理解をはるかに超えています。神様の前では僕らは小さな存在です。それを認めてひざまずこう、と聖書は呼びかけます。
(6)
来たれ。ひれ伏し膝をかがめよう。私たちを造られた方主の御前にひざまずこう。
僕らが神様を喜べなかったり、みことばが聞けなかったり、平安がないことの原因は、自分で何とかしようとしていることにあります。そのような時には緊張し、焦り、疲れます。6節の膝をかがめる、とは、神様の前に自分を低くすることです。僕らは無力なチリにすぎないものです。僕らから出るものは何もありません。神様が僕らを作り、僕らの人生を作ってくださっています。しかも、牧場の羊として安心して暮らせることが約束されています。僕らの理解をはるかに超えて素晴らしいのが神様です。僕らの小さな理解と天の賛美にはギャプがあります。この詩篇は天国に喜びに参加するように招いてくれているようです。神様は偉大すぎる方で、しかも良いことをなさいます。天の栄光を僕らにも見せてくださり、招いてくださっています。この偉大な神様に自分を明け渡しましょう。主は良い方です。感謝して神様の前に出ましょう。喜んで自分を捧げましょう。
(3)
まことに主は大いなる神。すべての神々にまさって大いなる王である。
間違いありません!ハレルヤ!
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