2023年1月23日月曜日

出エジプト12.1-13

 聖書はイスラエル人たちに元旦から一月中にすべきことを教えています。それは「過越の祭り」です実際は毎年春の行事ですがイスラエルでは「年の初め」にするようにと言われています。


(1-7節)

「この月をあなたがたの月の始まりとし、これをあなたがたの年の最初の月とせよ。イスラエルの全会衆に告げて言え。この月の十日に、おのおのその父祖の家ごとに、羊一頭を、すなわち、家族ごとに羊一頭を用意しなさい。(…中略…)あなたがたの羊は傷のない一歳の雄でなければならない。それを子羊かやぎのうちから取らなければならない。あなたがたはこの月の十四日までそれをよく見守る。そしてイスラエルの民の全集会は集まって、夕暮れにそれをほふり、その血を取り、羊を食べる家々の二本の門柱と、かもいに、それをつける。


これがイスラエルの毎年のお正月の行事ですこれには意味がありました。


イスラエル人は昔エジプトの奴隷でした。400年間いじめられ続けられ、家畜のように扱われ、どれだけの人が殺されたかわからないような最低の生活でした。神様はそんなイスラエル人を救い出すために、エジプトに災害を下し、奴隷たちイスラエル人たちをエジプトから脱出させます。その時に神様がしなさい、と言われたのが、子羊を代わりに殺して、その血をマークにして玄関に塗りなさい、ということです


(12-14節)

その夜、わたしはエジプトの地を巡り、人をはじめ、家畜に至るまで、エジプトの地のすべての初子を打ち、また、エジプトのすべての神々にさばきを下そう。わたしは主である。あなたがたのいる家々の血は、あなたがたのためにしるしとなる。

わたしはその血を見て、あなたがたの所を通り越そう。わたしがエジプトの地を打つとき、あなたがたには滅びのわざわいは起こらない。この日は、あなたがたにとって記念すべき日となる。


神様の怒りと裁きが下り、エジプトの家の子どもが殺されて行く時に、玄関に血が付いていることは、神様の怒りと裁きを免除される印となりました。羊の死によって、自分たちは殺されず、さばきは免除された、ということを年の初めに確認し感謝するための行事です

僕ら人間は神様がしてくださったことをすぐに忘れちゃいます。神様は毎年の行事としてこれをするように定めらました。


彼らは苦しみの中を死んでもおかしくなかったのに生きている、ということをまず感謝します。そして、これからの人生、この命は神様から預かったものですということを表すために礼拝します。

子羊を殺すことは神様の怒りや呪いを身代わりに受ける犠牲が必要なことを表しています。


これはイスラエル人だけでなく、僕らにも適用できます。罪を犯す僕らは死ななければならないと聖書は言います。(ローマ6.23)全ての人は神様の怒りと呪いを受けるべきでした。そんな僕らのために身代わりに殺された羊がいる、と聖書は言います。その羊がイエス様です


(ヨハネ 1:29)

ヨハネは自分のほうにイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。」


過越の祭りで毎年、年の初めに殺される羊はイエス様を表していました。僕らは殺されず、滅ぼされず、身代わりにイエス様が私の呪いを背負って、十字架の上で神様の呪いを受けて死んでくださいました。


今僕らが生きているのは当たり前ではなく、イエス様の赦しがあっての命です今僕らが生きているのは自分の力でも、時間でもなく、イエス様の命を預かって生きています。年の初めにそれを確認し、人生の中心は自分の力でも知恵でもなく、命は全てイエス様からのプレゼントであることを感謝することはふさわしいことです


神様を知らない人は生きるために自分が動き、稼ぎ、頑張ろうと思いますが、神様を知っている人は神様こそが力であり命だと知っています。


僕が神学生の時代、勉強が大変すぎて宿題が終わらないことを師匠の阿部牧師の奧さんに言いました。すると返事はシンプルで、「4時間かかると思ったら最初の一時間は神様にお祈りして感謝してお願いすればいいのよ。そんな簡単なことにも神学生は気がつかないのよねえ」とのことでした。力も知恵も神様のもの、ということです何かをする前に、まず神様のところに行くのは大正解です知恵も力も命もお金も神様のものだからです。だから、まず休みなさい、止まりなさい、神様のところに行きなさいと教えています。


(詩篇 46:10) 

やめよ。わたしこそ神であることを知れ。


(イザヤ 30:15) 

神である主、イスラエルの聖なる方は、こう仰せられる。

「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。」


全てが神様の恵みであり預かりものですお金も神様からのものです今月これだけお金がかかると思ったら、慌てないでまず神様にささげて、お金は神様からの預かりものだと宣言して感謝します。そうすると必ず足ります。聖書は、天から神様が与えてくださる、と言います。


(マラキ 3:10) 

十分の一をことごとく、宝物倉に携えて来て、わたしの家の食物とせよ。

こうしてわたしをためしてみよ。

―万軍の主は仰せられる。―

わたしがあなたがたのために、天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうかをためしてみよ


僕らが自力で生きているのではありません。僕らは神様に裁かれて殺されてもおかしくない罪人だったのに赦されて、愛されて、受け入れられています。これからは僕らが生きるのではなく、キリストとともに、キリストご自身が僕らの中で生きておられます。年の最初に神様を求めましょう。必要は与えられます。全ては神様の中にあります。必要な力は命は神様の前にあります。必要なお金は神様の前にあります。必要な知恵も神様の前にあります。


年の初めに神様がしてくださったことを思い返し、感謝し、礼拝をささげ、献金をささげ、感謝を捧げましょう。今年も主が全てを持っておられます。大丈夫です。僕らでなく、主が全てです。ハレルヤ!


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