2023年1月26日木曜日

ローマ12.1-2

 ローマ人への手紙は福音(良い知らせ)です聖書によると信じた人の身分は僕らが思う以上に祝福と栄光が確定しています。その祝福をまとめると以下の3つです


①あなたは義(完全無罪、神様との良い関係の人)とされました。(ローマ4:7-8、5.1など)

②あなたは聖く変えられて行きます。(ローマ5:3-4、8:5など)

③あなたは将来完全にキリストに似た栄光を持ちます。(ローマ 8:18、29-30など)


これだけ素晴らしい約束があるから「ですから」あなたがたは神様に献身しなさい、と強く言います。


(1節)

ですから、兄弟たち、私は神のあわれみによって、あなたがたに勧めます。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。


僕らはオリンピックで金メダルが確定した選手みたいです神様に呼ばれ、イエス様につながったので、もう将来の栄光と勝利が約束されています。「ですから」今から「からだ」を神様にささげなさい、と教えます。

献身とは、牧師さんになるとか、宣教師になるという意味ではなく(そういう人もいるけど)普通の生活の中で手足を神様のものとして明け渡すことです


この神様の祝福と愛は「神のあわれみ」です。罪人を見放さず、忍耐し続けてくださったから、あなたは感謝して、自分をささげなさい、と言います。僕らがささげる理由は「神に対する感謝」です神様のあわれみや愛がわからない人に上から献身しなさいとか、ささげなさいと命令しても無理です神様は感謝なしに働け働けということはありません。神様は人を利用しようとか、人を使おうとかしているのでないです。人を愛し、ゆるし、憐れみ、そして作り変えて、最後には栄光を与えてくださいます。だから、感謝して、自分をささげなさい、と言うのが今日の箇所です


しかも、心をささげなさい、ではなく「体をささげなさい」と聖書は言います。僕らは体を使って毎日の生活と活動をしています。心だけでなく、からだを使ってよい行いをし、反対に悪さもします。その体を使って神に喜ばれるようにお献げしなさいと聖書は言います。僕らの目は神様の目としてささげなさい、耳は神様の耳としなさい、口は神様の口としてささげなさい、手足は神様の手足としてささげなさい、という意味です


僕らの口は神様の口として愛と真理を語る口となり、僕らの耳は神様の耳として聞くには早くなり、人の悩みを聞き、僕らの手足は神様の愛を表す手足になります。献身とは、からだをささげることです学問をやることや知識を増やすことだけが献身ではありません。(それも用いられるけど)でも聖書が教える献身は「からだ」を神ささげることです。しかも、それが礼拝だと聖書は言います。


(1節後半)

それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です


礼拝というと、日曜の午前中のあの時間、というイメージありますけど、聖書が教える礼拝は毎日の体の使い方です。たまに、礼拝を受ける、って言う人がいますけど、礼拝は受けるのではなく神様にささげることです。ささげることは楽ではないです。神様のため、そして兄弟姉妹のために時間をささげ、体をささげ、耳をささげて仲間の様子をきき、口をささげて神様のため、そして、兄弟姉妹のために祈ることが礼拝です


礼拝は日曜のあの時間だけでなく、日常の全てです

どんな職業も神様への礼拝になります。お金のためではなく、自分のからだを神様に捧げ、人にささげるのが仕事であり礼拝です。仕事はまさに礼拝です同じ仕事でも、自分の欲のため、自分のメンツのため、自分が崇められるためにもなります。「あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現わすためにしなさい。」とあります。(1コリント10:31)

家庭生活も神様にからだをささげる礼拝です全てがキリストに仕えることですそれがあなたがにふさわしい礼拝です人に対して腹がたつ時もあるし、傷つけられることもあります。でも、キリストにささげ、キリストのためなら希望を持って忍耐できます。忍耐を神様にささげるのも礼拝です


「からだ」は神様のものです

だから健康であるように体に気をつけます。神様にささげた大事なからだだからです。聖書は体を休めなさい、と教えます。放っておくと酷使していまうので、週1日は安息しなさい、止まりなさいと教えます。安息日は教会で奉仕しすぎて疲れる日ではなく、神様の前で休む日です。だから、教会が忙しくて大変、と思う人は、神様の願いとずれています。聖書は働け働けと教えていません。むしろ、主の前で憩うように、平和の中で歩むようにと教えています。

体を神様に捧げることは、忙しくて疲れてイライラすることと全然違います。体は神様のものです。体をメンテし、心もメンテし、神様のものとして磨かれていくのが安息です不健康な暴飲暴食をしないのが礼拝です。なぜなら、体は神様のものだからです


(2節)

この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分を変えていただきなさい。そうすれば、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります。


私たちは神様のものになりましたが、古い習慣、古い考え方が数多く染み付いています。けれども、みことばが心に入ってくるとそれが間違っていると気づきます。そのときに、自分の考え方を捨てて神様の心を取り入れます。このようにして、心を新しくすることができ、その結果、自分は変えられます。これは継続的なことです。毎日のことです

神のみことばを毎日読んだり、聞いたりすることは、クリスチャン生活にとって欠かすことができません。


どんな場所でも体を神様にささげましょう。体をささげます、と祈りましょう。染み付いた自分の考えでなく、神様に喜ばれる良いことを選び続けるため、みことばを聞き、祈る生活をしましょう。僕らのからだは神様のものです僕らの人生は神様によって新しくされ続けます。そして、将来は栄光が約束されています。ハレルヤ!

0 件のコメント:

コメントを投稿