教会はビジネスではありません。そして教会の牧師や宣教師やスタッフはお給料のためのお仕事ではありません。聖書は「あなたがたは、ただで受けたのだから、ただで与えなさい。」(マタイ10.8)と教えています。
イエス様の周りにはいつも「さまざまの病気と痛みに苦しむ病人、悪霊につかれた人、てんかん持ちや、中風の者など…」がいました。つまり、お金がない人こそイエス様が招き、伝え、癒し、愛した人々です。
預言者ミカの時代、神様のことばを伝える預言者はお金で堕落していました。報酬をくれる人には「平和があるように」と祝福を告げ、そうでない相手には聖戦を布告しました。
(5節)
預言者たちについて、主はこう言われる。「彼らはわたしの民を惑わし、かむ物が歯にあれば『平和があるように』と叫ぶが、口に何も与えない者には聖戦を布告する。」
お金のために神様のことばを利用し捏造した預言者たちには本当の主のことばは与えられなくなりました。どんなに苦しい時にもことばが与えられません。神様は答えてくれません。聖書は彼らのことを「占い師」と表現します。商売でやっている占いと同じです。
(6-7節)
それゆえ、あなたがたには、夜にも幻がなく、暗闇にも占いがない。太陽も預言者たちの上に沈み、昼も彼らの上で暗くなる。先見者たちは恥を見、占い師たちは屈辱を味わう。彼らはみな、口ひげをおおう。神の答えがないからだ。
神様のことばを伝える人はお金がもらえるかどうか、損か得かは関係ありません。預言者とは神様のことばを預かったしもべです。ただ神様にだけ忠実であることが要求されます。聖書は言います。
(1テサ 2:4-5)
私たちは神に認められて福音をゆだねられた者ですから、それにふさわしく、人を喜ばせようとしてではなく、私たちの心をお調べになる神を喜ばせようとして語るのです。ご存じのとおり、私たちは今まで、へつらいのことばを用いたり、むさぼりの口実を設けたりしたことはありません。
(1コリント 4:1-2)
私たちを、キリストのしもべ、また神の奥義の管理者だと考えなさい。このばあい、管理者には、忠実であることが要求されます。
預言者ミカは神様から力を与えられ、神様の霊によって人々を恐れることなく罪を指摘することができました。
(8-11節)
しかし、私には力が満ちている。主の霊によって、公正と勇気に満ちている。ヤコブにはその背きを、イスラエルにはその罪を告げる。
これを聞け。ヤコブの家のかしらたち、イスラエルの家の首領たち。あなたがたは公正を忌み嫌い、あらゆる正しいことを曲げている。
流血でシオンを、不正でエルサレムを建てている。
そのかしらたちは賄賂を取ってさばき、祭司たちは代金を取って教え、預言者たちは金を取って占いをする。しかもなお、彼らは主を当てにして、「主は私たちの中におられるではないか。わざわいは私たちの上に及ばない」と言う。
教会はお金と関係なく神様のみことばを伝えるつもりがあるかどうかを問われています。そして教会はいつもこの失敗を繰り返し、お金もち相手のビジネスへと堕落してしまいました。
(ヤコブ 2:2-5)
あなたがたの会堂に、金の指輪をはめ、立派な服装をした人がはいって来、またみすぼらしい服装をした貧しい人もはいって来たとします。
あなたがたが、りっぱな服装をした人に目を留めて、「あなたは、こちらの良い席におすわりなさい。」と言い、貧しい人には、「あなたは、そこで立っていなさい。でなければ、私の足もとにすわりなさい。」と言うとすれば、
あなたがたは、自分たちの間で差別を設け、悪い考え方で人をさばく者になったのではありませんか。
よく聞きなさい。愛する兄弟たち。神は、この世の貧しい人たちを選んで信仰に富む者とし、神を愛する者に約束されている御国を相続する者とされたではありませんか。
神様が愛しておられるのは見捨てられたような人たちです。イエス様は弟子たちに言われました。「あなたがたは、ただで受けたのだから、ただで与えなさい。」(マタイ10.8)
教会はビジネスではありません。牧師や宣教師やスタッフはお給料のためのお仕事ではありません。
じゃあどうやって食べて行くの?と思うかもしれません。イエス様はおっしゃいます。「出してくれる物を飲み食いしなさい。働く者が報酬を受けるのは、当然だからです。(…中略…)どの町にはいっても、あなたがたを受け入れてくれたら、出される物を食べなさい。」(ルカ10.7-8)
牧師や宣教師やスタッフが金銭を要求するのはおかしなことです。同時に、神様は教会を通して福音のために働く人を必ず養ってくださいます。そのためにみんなで献金し工夫もします。でも、お金中心で動くのは主の教会ではありません。
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