僕らは人をランク付けしたがります。そして教会の中にもいつの間に「あの人は素晴らしい」「この人は残念な人…」というような判断があります。ところが、イエス様の判断は僕らの考えと全然違います。イエス様は完全に罪人の側、嫌われる人の側、うまく行かない人の側、困った人の側です。
(2-3節)
彼は主の前に、ひこばえ(切り株から出た新芽。場違いであり望まれない人のこと)のように生え出た。砂漠の地から出た根(生まれても間も無く死ぬ人のこと)のように。彼には見るべき姿も輝きもなく、私たちが慕うような見栄えもない。
彼は蔑まれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で、病を知っていた。人が顔を背けるほど蔑まれ、私たちも彼を尊ばなかった。
イエス様は誰にも望まれない、喜ばれない人のようです。人から嫌われ、神様からも捨てられる側の人です。
イエス様は逮捕され、拷問を受け、処刑を受けられました。その様子を見た人々は「やっぱりこの人は罪人だった。神様の呪いが下った」と思いました。そのように、イエス様は神様から罰を受け呪われていく当事者になってくださいました。
でも、それは僕ら罪人が受けるべき神様の怒りと呪いでした。
(4-5節)
まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みを担った。それなのに、私たちは思った。神に罰せられ、打たれ、苦しめられたのだと。
しかし、彼は私たちの背きのために刺され、私たちの咎のために砕かれたのだ。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、その打ち傷のゆえに、私たちは癒やされた。
羊は弱くて、飼い主から離れると戻ることができずに死んで行くそうです。そのように、僕ら人間は神様から離れてただ死んで行くような弱いものでした。でも、神様はその弱さを全部イエス様に背負わせ、イエス様が僕らの身代わりに苦しんで死んでくださいました。十字架上の処刑は神様から呪われた姿です。イエス様はいつもさばく側でなく、裁かれる側です。なんの弁解も反論もしませんでした。
(6-9節)
私たちはみな、羊のようにさまよい、それぞれ自分勝手な道に向かって行った。しかし、主は私たちすべての者の咎を彼に負わせた。彼は痛めつけられ、苦しんだ。だが、口を開かない。屠り場に引かれて行く羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。(…中略…)彼の墓は、悪者どもとともに、富む者とともに、その死の時に設けられた。彼は不法を働かず、その口に欺きはなかったが。
「あの人は神様の罰を受けている」と思う人はいるでしょうか。イエス様はその人の味方です。その人の身代わりに神様の怒りと呪いを受けてくださる方です。イエス様は激しい苦しみを受け、そして、神様の怒りは終わり、僕らは無罪とされています。イエス様は激しい苦しみの十字架によって満足し、もう僕らにああしなさい、こうしなさい、と要求しません。イエス様の十字架の犠牲に加えて僕らが必要なものはありません。
(11節)
「彼は自分のたましいの激しい苦しみのあとを見て、満足する。わたしの正しいしもべは、その知識によって多くの人を義とし、彼らの咎を負う。
イエス様は今日も罪人の側、嫌われる人の側、うまく行かない人の側、困った人の側に立って祈ってくださっています。
(12節)
彼は多くの人の罪を負い、背いた者たちのために、とりなしをする。」
イエス様は今日も罪人のことを愛し、罪人の側になって犠牲を払い、祈り続けてくださってます。
僕らが苦手な人、嫌いな人だと思っても、イエス様にとっては命がけで愛し、犠牲を払う宝の人です。
僕らは簡単に人をランク付けしたがります。でも、イエス様の判断は僕らの考えと全然違います。僕らの判断は小さすぎます。イエス様の愛は大きすぎます。イエス様は罪人の側、嫌われる人の側、うまく行かない人の側、困った人の側になって愛し、犠牲を払ってくださる方です。大きすぎます。すごすぎます。ただ、たたえましょう。ひれ伏しましょう。感謝しましょう。
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