愛し合うカップルは会話することや時間を一緒に過ごすことが喜びであり楽しみです。同じように、神様と愛し合う人にとっては祈りは喜びだし、神様のために取り分けた安息日は楽しみです。もしも祈りや礼拝が強制される義務ならそこには愛はありません。
神様との関係は国籍や肉体的なハンディは関係ありません。どんな人でも神様を愛し喜び時間を過ごす人は「安息日を守る人」です。その人は神様を喜び、神様に喜ばれます。神様に切り捨てられることはありません。
この当時、異国の民は「どうせ私は神様から見放されている」と思っていたし、宦官(去勢され子どもを設ける機能がない人)も、「どうせ私は枯れ木だ」と思っていたようです。でも、神様にとっては国籍やハンディは関係ありません。むしろ神様はそのような人たちを招き、息子、娘にもまさる身分を与えてくださいます。
(3-7節)
主に連なる異国の民は言ってはならない。「主はきっと、私をその民から切り離される」と。宦官も言ってはならない。「ああ、私は枯れ木だ」と。なぜなら、主がこう言われるからだ。「わたしの安息日を守り、わたしの喜ぶことを選び、わたしの契約を堅く保つ宦官たちには、
わたしの家、わたしの城壁の内で、息子、娘にもまさる記念の名を与え、絶えることのない永遠の名を与える。
また、主に連なって主に仕え、主の名を愛して、そのしもべとなった異国の民が、みな安息日を守ってこれを汚さず、わたしの契約を堅く保つなら、わたしの聖なる山に来させて、わたしの祈りの家で彼らを楽しませる。彼らの全焼のささげ物やいけにえは、わたしの祭壇の上で受け入れられる。なぜならわたしの家は、あらゆる民の祈りの家と呼ばれるからだ。
週に1日、神様のために過ごす日のことを「安息日」と言いますが、これは義務でも強制でもなく喜びです。同じように祈りは神様との会話です。これもまた、神様が「楽しませる」と言われます。どの国の人でも、どんな身分の人でも、神様を愛し、神様に愛される人は神様の子どもにもまさる人です。
祈りは神様との愛の会話です。そこには楽しみと喜びが満ちています。僕らの口が神様を賛美しほめるなら、それは神様への賛美のいけにえです。僕らの体は神様を愛し、愛され、神様と対話し交わるための体です。神様との交わりを喜ぶための僕らの口であり体であり、そして神様を喜ぶための日です。
神様を愛することや、愛されることは義務や強制ではありません。神様は僕らを楽しみ喜ばせようとして招いてくださいました。安息日は喜びの日、祈りは喜びです。ハレルヤ!
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