僕もそうでしたが、教会の顔と会社の顔が全然違う人がいます。教会では熱心な人ですが、普段は別の人になります。この当時の礼拝者の中に形ばかり信仰熱心で、断食までして祈っているのに、普段は人と争ってばかりで、労働者をこき使い、それでいて「神様が祈りに答えてくれない」と不満を言う人がいたようです。そのような人を神様は責めています。
(3-5節)
『なぜあなたは、私たちが断食したのに、ご覧にならず、自らを戒めたのに、認めてくださらないのですか。』見よ。あなたがたは断食の日に自分の好むことをし、あなたがたの労働者をみな、追い立てる。
見よ。あなたがたが断食をするのは、争いとけんかのためであり、不当に拳で殴るためだ。あなたがたが今のように断食するのでは、いと高き所に、その声は届かない。
わたしの好む断食、人が自らを戒める日とは、このようなものだろうか。葦のように頭を垂れ、粗布と灰を敷き広げることなのか。これを、あなたがたは断食と呼び、主に喜ばれる日と呼ぶのか。
実生活と神様の前の態度が違う人の祈りを「その声は届かない。」(4節)とハッキリと言われます。その人の表面は真面目で「葦のように頭を垂れ、粗布と灰を敷き広げ」(4節)悔い改めているように見えます。
本当の祈りは実生活に現れます。本当に神様を愛する人は隣人を愛する態度に現れます。
(6-9節)
わたしの好む断食とはこれではないか。悪の束縛を解き、くびきの縄目をほどき、虐げられた者たちを自由の身とし、すべてのくびきを砕くことではないか。
飢えた者にあなたのパンを分け与え、家のない貧しい人々を家に入れ、裸の人を見てこれに着せ、あなたの肉親を顧みることではないか。
そのとき、あなたの光が暁のように輝き出て、あなたの回復は速やかに起こる。あなたの義はあなたの前を進み、主の栄光があなたのしんがりとなる。
そのとき、あなたが呼ぶと主は答え、あなたが叫び求めると、『わたしはここにいる』と主は言う。
神様を愛することは隣人を愛することです。両者はセットです。そして、隣人を愛する人を神様は喜び祝福してくださいます。
(9-12節)
もし、あなたの間から、くびきを除き去り、虐げの指をさすことや、邪悪なことばを取り去り、
飢えた者に心を配り、苦しむ者の願いを満たすなら、あなたの光は闇の中に輝き上り、あなたの暗闇は真昼のようになる。
主は絶えずあなたを導いて、焼けつく土地でも食欲を満たし、骨を強くする。あなたは、潤された園のように、水の涸れない水源のようになる。
あなたのうちのある者は、昔の廃墟を建て直し、あなたは代々にわたる礎を築き直し、『破れを繕う者、通りを住めるように回復する者』と呼ばれる。
僕らの生活が裏表なく、いつも神様を愛し隣人を愛するものでありますように!
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