2023年2月9日木曜日

出エジプト記3章

 マザーテレサは言いました。「わたしは神様の手の中の小さな鉛筆にすぎません。神が考え、神が書くのです。」そのように、神様が選んで用いてくださる人間とは、自分の力や知恵に頼らず神様だけを求める人です


(1コリント1.26-29)

 26兄弟たち、自分たちの召しのことを考えてみなさい。人間的に見れば知者は多くはなく、力ある者も多くはなく、身分の高い者も多くはありません。27しかし神は、知恵ある者を恥じ入らせるために、この世の愚かな者を選び、強い強い者を恥じ入らせるために、この世の弱い者を選ばれました。(…中略…)29肉なる者がだれも神の御前で誇ることがないようにするためです。


神様は僕らを成長させてくださいます。神様が与えてくださる成長とは、一般的に考える成長とは真逆です普通は僕らが力をつけることを成長、と言いますが、神様が与える成長は自分の力を頼るのではなく神様の力に頼り、信頼し、従っていくようになることです自分の力でなく神様の力なので、こっちの方が確実だし素晴らしい結果を産みます。それに気付いていくのが成長です


モーセが王宮で知恵と権力と富を持っていた頃には「俺にはできる」と思っていたようです彼は仲間であるイスラエル人のために地位も権力も捨てて歩むことを決めました。ここまでは良かったのですが、イスラエル人たちはモーセを認めてくれず(2.14)、結局、彼はエジプトの王宮からも、イスラエル人たちの中からも逃げました。誰も知らない遠い国でひっそりと生き、40年が経ちました。この40年は彼のプライドが砕かれたようです今はもう80歳で田舎の羊飼いです力も知恵もプライドも失った時に神様はモーセに呼びかけ用いてくださいました。


(4-10節)

4神は柴の茂みの中から彼に「モーセ、モーセ」と呼びかけられた。彼は「はい、ここにおります」と答えた。5神は仰せられた。「ここに近づいてはならない。あなたの履き物を脱げ。あなたの立っている場所は聖なる地である。」6さらに仰せられた。「わたしはあなたの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」モーセは顔を隠した。神を仰ぎ見るのを恐れたからである。 7主は言われた。「わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみを確かに見、追い立てる者たちの前での彼らの叫びを聞いた。わたしは彼らの痛みを確かに知っている。8わたしが下って来たのは、エジプトの手から彼らを救い出し、その地から、広く良い地、乳と蜜の流れる地に、カナン人、ヒッタイト人、アモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人のいる場所に、彼らを導き上るためである。(…中略…)10今、行け。わたしは、あなたをファラオのもとに遣わす。わたしの民、イスラエルの子らをエジプトから導き出せ。」


すっかり自信を失っているモーセは答えます。


(11節)

11モーセは神に言った。「私は、いったい何者なのでしょう。ファラオのもとに行き、イスラエルの子らをエジプトから導き出さなければならないとは。


弱くなったモーセに神様は何度も繰り返してくださいます。「わたしは、あなたをファラオのもとに遣わす」(10節)「わたしが、あなたと共にいる」「このわたしがあなたを遣わすのだ」(12節)用いてくださるのは神様です。モーセの強さとか知恵は関係なく、イスラエル人たちを助けて導き出すのは100パーセント神様です。モーセはただ、用いられるだけです


(12節)

12神は仰せられた。「わたしが、あなたとともにいる。これが、あなたのためのしるしである。このわたしがあなたを遣わすのだ。あなたがこの民をエジプトから導き出すとき、あなたがたは、この山で神に仕えなければならない。」


神様はモーセと共にいる、と言ってくださいました。同じように僕らにも言ってくださいます。イエス様はおっしゃいました。「見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」(マタイ28.20)


神様が一緒にいて用いてくださるのは今も同じです。聖書は「もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」と言います。(ガラテヤ2.20)


それでもモーセはエジプトに戻ってファラオのところに行くのは気が進みませんでした。イスラエル人たちも自分(モーセ)を受け入れてくれそうにありません。不安なモーセは神様の名を聞かれたらどう答えたらいいのか、と質問します。


(13-14節)

13モーセは神に言った。「今、私がイスラエルの子らのところに行き、『あなたがたの父祖の神が、あなたがたのもとに私を遣わされた』と言えば、彼らは『その名は何か』と私に聞くでしょう。私は彼らに何と答えればよいのでしょうか。」14神はモーセに仰せられた。「わたしは『わたしはある』という者である。」


神様の名は「わたしはある」というものです全ての存在の源です。力と命の全て、この世の存在の全てが神様です。そういう意味があります。この神様を信頼する時に僕らは最高の力を得ます。なぜならこの神様こそ全てだからですこの方の前では自分が能力があるとかないとかは全然関係がありません。

神様はこれから起こることを全部知っている方です。そして、イスラエルの長老たちは聞き従うようになること、でもファラオは頑固になることをあらかじめ教えてくださいました


(18-19節)

18彼らはあなたの声に聞き従う。あなたはイスラエルの長老たちと一緒にエジプトの王のところに行き、彼にこう言え。『ヘブル人の神、主が私たちにお会いくださいました。今、どうか私たちに荒野へ三日の道のりを行かせ、私たちの神、主にいけにえを献げさせてください。』19しかし、エジプトの王は強いられなければあなたがたを行かせないことを、わたしはよく知っている。


モーセは神様に選ばれました。自分で闘うためではなく、ただ、神様に言われたことをするためですモーセの能力は関係ありません。今後エジプトで起こるいろんな出来事は、全部神様の力でした。


(20-22節)

20わたしはこの手を伸ばし、エジプトのただ中であらゆる不思議を行い、エジプトを打つ。その後で、彼はあなたがたを去らせる。21わたしは、エジプトがこの民に好意を持つようにする。あなたがたが出て行くとき、何も持たずに出て行くことはない。22女はみな、近所の女、および自分の家に身を寄せている女に、銀の飾り、金の飾り、そして衣服を求め、それを、自分の息子や娘の身に着けさせなさい。こうしてあなたがたは、エジプト人からはぎ取りなさい。」


神様はモーセにも僕らにもできないことをやれ、とは言われません。全ては神様がなしてくださるだけですモーセがすべきことは、ただ神様に言われた通りに自分を委ねることでした。


これは僕らにも適用できます。鉛筆は、神様の手の中で、神様の思うままに動くからこそ美しい絵や文章を描くことができます。僕らは神様に選ばれました。そして、それぞれに役目が与えられています。でも、それらは神様が「わたしがする」と言われるのであって僕らがするのではありません。すべての栄光も主権も神様に手放して自分を空にしたとき、小さな鉛筆になって全てを委ねたとき、神様が僕らを使ってくださいます。大切なのは、自分の力で生きることではなく、神様に従順であることです


神様は今日も僕らと一緒にいてくださいます。そしれ僕らを用いて遣わしてくださっています。神様を愛し、隣人を愛するための僕らですそしてその力も予定も全て神様からのものです。僕らが恐れず、かつ、威張らず、神様の手足として、素直な鉛筆のように用いられる一日でありますように。

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