僕ら人間は神様よりも自分の体験を信じ、それによって自分の考えを決めてしまいます。挫折の経験がある人の中には「どうせ自分は無理」と思い固く閉じてしまう人もいます。ところが、神様のことばはそんな僕ら人間の経験やガンコさを砕き、全く新しい人に変えてくださいます。変えられない神様なら神様ではありません。モーセは自分の昔の失敗に縛られて、何度神様に言われても信じようとせず、拒否します。それでも神様はモーセを選び、何度も語りかけてくださいます。今日の箇所はモーセがいろんな言い訳をしてリーダーの役目を断っている場面です。そんな彼を神様はあきらめません。何度も丁寧に答えてくださり、少しずつ心を変えてくださいます。
●役目を辞退するモーセの言い訳 その1。
(1節)
モーセは答えた。「ですが、彼らは私の言うことを信じず、私の声に耳を傾けないでしょう。むしろ、『主はあなたに現れなかった』と言うでしょう。」
神様はハッキリ「彼ら(イスラエル人たち)はあなたの声に聞き従う。」と断言されました。(3.18)だけどモーセは信じません。40年前は自分がイスラエル人たちを救うんだ、と思っていたけど、その時は人々は受け入れてくれませんでした。「だれがおまえを、指導者やさばき人として私たちの上に任命したのか。」と言って拒絶されたし、(2.14)その挫折感は強かったようです。神様は何度も「わたしが、あなたと共にいる」「このわたしがあなたを遣わすのだ」(3.12)とおっしゃいました。モーセはガンコに「ムリです、嫌です」と答え続けます。そんな彼が引き受けることができるように、また、人々がモーセを信じることができるように、神様は3つの奇跡を与えてくださいました。
奇跡① 人々が信じるための奇跡
杖が蛇になる奇跡
(2-4節)
主は彼に言われた。「あなたが手に持っているものは何か。」彼は答えた。「杖です。」3すると言われた。「それを地に投げよ。」彼はそれを地に投げた。すると、それは蛇になった。モーセはそれから身を引いた。4主はモーセに言われた。「手を伸ばして、その尾をつかめ。」彼が手を伸ばしてそれを握ると、それは手の中で杖になった。
これは、イスラエル人たちがモーセが神に遣わされたことを信じるための奇跡です。「これは、彼らの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、主があなたに現れたことを、彼らが信じるためである。」(5節)とあります。
奇跡② もし人々が信じなかった場合の予備の奇跡
手がツァラアト(重い皮膚病)になる奇跡
さらに、それでもダメだった場合に備えて、神様は2つ目の奇跡も用意してくださいました。
(6-7節)
主はまた、彼に言われた。「手を懐に入れよ。」彼は手を懐に入れた。そして出した。なんと、彼の手はツァラアトに冒され、雪のようになっていた。7また主は言われた。「あなたの手をもう一度懐に入れよ。」そこで彼はもう一度、手を懐に入れた。そして懐から出した。なんと、それは再び自分の肉のようになっていた。
これは、人々が1つ目の奇跡でも信じなかった場合の予備です。神様はおっしゃいました。「たとえ彼らがあなたを信じず、また初めのしるしの声に聞き従わなくても、後のしるしの声(2つ目の奇跡)は信じるであろう。」(8節)神様は本当に優しい方です。過去の失敗ですっかりやる気をなくしているモーセに、いくつもの奇跡を行う力を用意してくださいます。
奇跡③ それでも信用されなかった場合の予備の奇跡
ナイル川の水が血に変わる奇跡
神様は弱くなってるモーセをあきらめません。彼の気持ちに寄り添ってくださり、もし、2つの奇跡を見せてもダメだった場合の予備をもう一つ与えてくださいました。
(9節)
もしも彼らがこの二つのしるしを両方とも信じず、あなたの声に聞き従わないなら、ナイル川の水を汲んで、乾いた地面に注ぎなさい。あなたがナイル川から汲んだその水は、乾いた地面の上で血となる。」
●役目を辞退するモーセの言い訳 その2。
モーセはいくら奇跡の力を与えられてもやりたくありませんでした。それで「わたしは口下手です」と神様に言い訳をします。
(10節)
モーセは主に言った。「ああ、わが主よ、私はことばの人ではありません。以前からそうでしたし、あなたがしもべに語られてからもそうです。私は口が重く、舌が重いのです。」
当たり前ですが、神様の働きは神様の力です。なのでその人の力は関係ありません。問題はその人が自分の心と体を神様に明け渡すかどうかです。神様は「口が下手です」と言って断るモーセに丁寧に答えてくださいます。話すことばも、その能力も与えてくださるのは神様です。そもそも、口や耳をお造りになったのは神様です。
(11節-12節)
主は彼に言われた。「人に口をつけたのはだれか。だれが口をきけなくし、耳をふさぎ、目を開け、また閉ざすのか。それは、わたし、主ではないか。12今、行け。わたしがあなたの口とともにあって、あなたが語るべきことを教える。」
これは今も同じです。神のことばは神様から与えられます。僕らはイエス様を家族や友人に伝えようとするときに戸惑います。でも、話すべきことばを与えてくださるのは神様です。神様が「あなたが語るべきことを教える」(12節)と言ってくださいます。礼拝でメッセージをしたり、このようなメールを書く時も同じです。自分の力や自分のことばによって出来ることではありません。イエス様を知らない人に伝える時も同じです。僕も毎週のように「この人に何を言えばいいのだろう…」「この聖書の箇所からいったい何を語ればよいのだろうか…」と途方に暮れています。それでも不思議に語るべき言葉を与えられてきたし、これからも与えられると主が言ってくださいます。
モーセがこれから行く相手は恐ろしい相手です。ファラオはイスラエル人を殺し虐待している権力者です。また、仲間のイスラエル人たちでさえ信用してくれません。そんな状況でも神様は「わたしがあなたの口とともにあって、あなたが語るべきことを教える。」とおっしゃいます。(12)今も神様に反対する人にどのように話したら良いのか僕らはわかりません。でも、イエス様はおっしゃいました
(ルカ12.11-12)
また、人々があなたがたを、会堂や役人たち、権力者たちのところに連れて行ったとき、何をどう弁明しようか、何を言おうかと心配しなくてよいのです。言うべきことは、そのときに聖霊が教えてくださるからです。」
●理由なしに辞退するモーセ
ついにモーセは「他の人を使わしてください」とお願いします。彼はとにかくこの役目が「嫌」なのです。本当は神様に従いたくないし、神様より自分の思い通りにしたい、というのが本音です。これがモーセの、そして僕らの「罪」です。
(13節)
13すると彼は言った。「ああ、わが主よ、どうかほかの人を遣わしてください。」
神様は怒ります。ですが、それでもモーセを見捨てません。「ほかの人を遣わしてください」という願いに寄り添ってくださり、モーセの兄アロンを口として用いるから行きなさい、と言われます。神様→モーセ→アロン→ファラオ(または民衆) という順番です。怒りながらも見捨てないのが神様です。
(14-16節)
14すると、主の怒りがモーセに向かって燃え上がり、こう言われた。「あなたの兄、レビ人アロンがいるではないか。わたしは彼が雄弁であることをよく知っている。見よ、彼はあなたに会いに出て来ている。あなたに会えば、心から喜ぶだろう。15彼に語り、彼の口にことばを置け。わたしはあなたの口とともにあり、また彼の口とともにあって、あなたがたがなすべきことを教える。16彼があなたに代わって民に語る。彼があなたにとって口となり、あなたは彼にとって神の代わりとなる。
「罪」とは神様より自分の思い通りにすることです。神様は罪に対してお怒りになります。ですが、それでも滅ぼしたり、見捨てたりせず、その罪人を生かし、作り変え、用いようとしてくださいます。ガンコなモーセのためには助け手アロンを遣わして下さいました。
主は今日も僕らを用いようとしてくださっています。神様の願いに答えたくない、用いられなくていい、伝えなくていい、このままでいい、と思いたいのが僕らの罪の心です。神様より自分の考えを変えたくないガンコさがあるのが罪人の僕らです。でも、イエス様はそんな僕らを作り変え、用いてくださいます。全て、イエス様を信じた人はイエス様の体の器官だと聖書は言います。そして、神様は器官であり僕らを用いて世界を動かす方です。
(ローマ12.5)
大勢いる私たちも、キリストにあって一つのからだであり、一人ひとりは互いに器官なのです。
「◯◯だから僕はできない。」「◯◯がないから無理」「あの時こうだったから無理」神様に従いたくない理由はいくらでも出すことができます。若い時は若すぎるから無理、中年になると忙しいから無理、そして高齢になると年をとったから無理、です。言い訳は無限にあります。が、本当の理由は神様に従いたくありません、わたしの決断の方が神様より上です、という罪です。
でも、力も命もことばも全部神様のものです。経験を塗り替え、心を作り変えることができるのが神様です。弱くても用いられます。いや、弱い器官こそが用いられると聖書はいいます。
僕らの心を、そして体を神様に差し出しましょう。ことばを与えたり黙らせたりなさるのは神様です。手足に力を与え動かすことができるのは神様です。心を新しくすることができるのは神様だけです。僕らに与えられた神様からの役目があります。それを引き受けるのも断るのも自由です。が、神様は用いようとしてくださっています。
(ローマ12.1)
あなたがたのからだ を、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。
(1コリント12.21-22)
21目が手に向かって「あなたはいらない」と言うことはできないし、頭が足に向かって「あなたがたはいらない」と言うこともできません。22それどころか、からだの中でほかより弱く見える部分が、かえってなくてはならないのです。
僕らが自分を明け渡す時、僕らが思う以上の神様の恵みと愛を体験することができます。今日も僕らが頑固さを捨てて、主に明け渡しますように。予想以上の神さまの愛と力を体験させていただけますように。
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