クリスチャンにもいろんなタイプの人がいるように見えます。例えば、①「こうでなければ」「こう生きるべし」というキビしい信仰者。②イエス様によって赦されるんだから、何をしても大丈夫だよ~というユルーイ信仰者。
①のタイプの人を見かけたり、逆に②のタイプの牧師さんがいたりして、「本当はどっち?」と迷う人は意外と多いみたいです。またその両端を行ったり来たりする人もいるようです。
聖書が伝える福音は①でも②でもありません。まず、ローマ6.1-2によると、②の何をしても大丈夫だよ~という考えを激しく否定しています。
(1-2節)
1それでは、どのように言うべきでしょうか。恵みが増し加わるために、私たちは罪にとどまるべきでしょうか。2決してそんなことはありません。
5章20節では「罪の増し加わるところに、恵みも満ちあふれました。」とあります。罪が100個の人は100個赦されます。罪が15000個ある人は15000個赦されます。罪が多い人ほど赦しも多く、イエス様の十字架による赦しの福音は完璧です。
これは厳粛なイエス様の犠牲による赦しです。
赦されるのは事実です。だからと言って、赦されるんだから罪もしてもいい、という許可をもらったかのように言う人がいました。コリント教会の中にはこれを誤解して、性的な罪は大したことじゃないと言っている人もいたようです。パウロはそのような人は破門すべし、と教えています。(1コリント5.1-13)
そもそも、イエス様を信じてイエス様と繋がった人は、イエス様と同じように神の怒りと裁きを受けて死んだ人です。イエス様は罪はありませんが、人類の罪を引き受けて殺されました。バプテスマとは「繋がる、浸される、一つになる」という意味です。イエス様を信じてバプテスマを受けた人は、神の怒りと裁きを受けて殺されたイエス様とつながりました。だから、信じた時にイエス様と一緒に罪のある僕らも死にました。
(3-4節)
3それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。4私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。
信じる前は罪が大好きな僕らでした。罪が大好きというよりも、罪に支配され、罪に流され、まるで罪が王様のようでした。それは逃れられない現実でした。生まれた時から罪人の先祖アダムのDNAを持って生まれ、罪に従うようにプリセットされていました。罪が王様でした。「罪は死によって支配した」(5.21)とあります。まるで僕らは罪という王様の奴隷のようでした。
でも、そんな僕らはキリストと一緒に死んだ、と聖書は言います。
(5-6節)
5私たちがキリストの死と同じようになって、キリストと一つになっている(…中略…)私たちは知っています。私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅ぼされて、私たちがもはや罪の奴隷でなくなるためです。7死んだ者は、罪から解放されているのです。
僕らは「罪さま」という横暴な王様の言いなりの奴隷のような身分でした。そこから逃れるには「死ぬ」しかありませんでした。死んだ奴隷は言うことを聞く必要がありません。昔の王様とは死別しました。死んだ人に「罪さま」がいくら誘惑しても、命令しても、死んだので従う必要はないし、従えません。「死んだ者は、罪から解放されているのです。」(7節)そのように、僕らは罪の支配の中にはいません。
(2節)
罪に対して死んだ私たちが、どうしてなおも罪のうちに生きていられるでしょうか。
(14節)
罪があなたがたを支配することはないからです。あなたがたは律法の下にではなく、恵みの下にあるのです。
それでも罪をしようとか、罪もオッケーという人は、自分から好んで過去のご主人様の罪を愛して従う人です。選択権は自分にあります。聖書はそれをやめなさい、と教えています。
(13節)
また、あなたがたの手足を不義の道具として罪に献げてはいけません。
(16節)
あなたがたは知らないのですか。あなたがたが自分自身を奴隷として献げて服従すれば、その服従する相手の奴隷となるのです。
また、聖書は①の「こうでなければ」「こう生きるべし、ねば」という考えも否定しています。
イエス様を信じる人はイエス様と繋がった人です。自分の努力で良くなろうとか、高い次元に行こうという人ではありません。飛行機に乗った人は乗っただけで空の上に連れていかれます。そのように、イエス様につながった人は、イエス様が神様の力によって死から復活し、永遠に生きておられるのと同じように、神様の力によって生きる人になりました。自分で高く飛ぼうとする人ではありません。ただ、イエス様の命に繋がった人です。
(4節)
それは、ちょうどキリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、新しいいのちに歩むためです。
昔は罪が王様で、罪に流され、言いなりにされて生きていました。でも、今はキリストに繋がり、キリストの命が僕らの命になり、キリストの霊が僕らの体に住んでおられます。だから、僕らの心も体も全くあたらしい考えや行動に変えられます。自分で頑張って、自分のパワーで「ねば、べき」で生きるのではありません。僕らがイエス様を信じたのは「新しいいのちに歩むため」です(4節)。新しい命とは、神様からの命です。
(8節)
私たちがキリストとともに死んだのなら、キリストとともに生きることにもなる、と私たちは信じています。
今までは悪い考えや行動を生み出すコンセントに繋がっていたようです。でも、僕らは全く新しいコンセントに繋がりました。神様からの命は良いものしか生み出しません。今までは悪い考えだけを流すwifiにつながっていたようです。でも、今は神様のみこころ情報だけにつながるwifiにつながったようです。
①の「こうでなければ」「こう生きるべし」と頑張ってきた僕らは死にました。今はただイエス様の命に繋がり、イエス様の新しい聖なる意思や力が与えられ続けています。②のイエス様によって赦されるんだから、何をしても大丈夫だよ~という考えもイエス様からは出てきません。ますます神様のみこころの通りに、自分を神様にささげたい、神様のために生きたい、と願う僕らに変えられて行きます。
(13-14節)
13また、あなたがたの手足を不義の道具として罪に献げてはいけません。むしろ、死者の中から生かされた者としてあなたがた自身を神に献げ、また、あなたがたの手足を義の道具として神に献げなさい。
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