神様のことばは実現します。世界は神様のことばによって造られ、歴史は神様の意思によってなります。…と書くと「じゃあ、僕らの人生決まったレールを進むだけ?!」とか、「神様の作った映画がリアルになって再生されてるだけ?」「人間って神様の操り人形?」などなど疑問が湧いてきます。神様の支配や意思は絶対的なものです。が、人間もまた自由です。神様に従うことも無視したり反抗したりするのも自由です。歴史が動いていく中には僕ら人間の自由な決断があります。神様は僕ら人間にそれを委ねておられます。神様を信じて神様のために働く時にも僕ら人間はロボットではありません。そこには僕ら人間の決断があり、神様への願いもあります。神様と神様を信じる人の関係は主従関係だけではありません。神様に相談したり、神様に願ったりなど、まるで友人関係のような神様と人との関わりがあります。モーセは神様のことばに従う主従関係だけでなく、だんだん神様との信頼関係を深めて行っています。
(出エジプト33.11)
主は、人が自分の友と語るように、顔と顔を合わせてモーセと語られた。
僕らとイエス様の関係も同じです。絶対者である神様と小さな人間という上下関係や主従関係がありつつも、それでも、神様は僕らを愛し、「友」と呼んでくださいます。まるで親友にこれから何をするか打ち明けるように教えてくださいます。しかも、僕らの気持ちを祈りの中で言うことを喜んでくださる方です。
(ヨハネ 15:15)
わたしはもう、あなたがたをしもべとは呼びません。しもべなら主人が何をするのか知らないからです。わたしはあなたがたを友と呼びました。父から聞いたことをすべて、あなたがたには知らせたからです。
神様がエジプトを怒りさばく時、神様はモーセにすべきことや言うべきことを与えてくださいました。ですが、モーセもまた自分で考えて決断しています。そして神様にそのことをお願いもしています。今日の箇所では神様がエジプトをカエルだらけにして裁きます。まず、モーセは神様に言われた通りにします。
(1-5節)
主はモーセに言われた。「ファラオのもとに行って言え。 主はこう言われる。『わたしの民を去らせ、彼らがわたしに仕えるようにせよ。2もしあなたが去らせることを拒むなら、見よ、わたしはあなたの全領土を蛙によって打つ。3ナイル川には蛙が群がり、這い上がって来て、あなたの家に、寝室に入って、寝台に上り、またあなたの家臣の家に、あなたの民の中に、さらに、あなたのかまど、こね鉢に入り込む。4こうして蛙が、あなたと、あなたの民とすべての家臣の上に這い上がる。』」 5主はモーセに言われた。「アロンに言え。『杖を持って、あなたの手を川の上、水路の上、池の上に伸ばせ。そして蛙をエジプトの地に這い上がらせよ』と。」
エジプトではカエルも豊穣をもたらす神として偶像化されていました。ところが、幸せにしてくれると思って拝んでいたカエルが自分たちを苦しめます。これは、偶像に力がないこと、主以外に神様はないことを明らかにするためでもありました。モーセは言われた通りにアロンに告げ、アロンは言われた通りにしました。
(6節)
アロンが手をエジプトの水の上に伸ばすと、蛙が這い上がって、エジプトの地をおおった。
カエルがベッドの中にも小麦粉の中にも入ってくるこのこの裁きにファラオは耐えられません。これがいつまで続くのか誰にもわかりません。人間はロボットではありません。神様に願い、祈ることができるし、決断することができます。エジプトの王ファラオはモーセとアロンに主に祈るようにと願います。当時ファラオには呪術や魔術ができる人たちを沢山抱えていたのにもかかわらず、彼らはカエルを追い出すことができません。ファラオはモーセとアロンに願います。そして、神様は具体的にこの裁きがいつまでなのか何も告げていません。が、モーセは自分で考えてファラオに「明日、カエルはいなくなるでしょう」と言います。これはモーセの決断であり祈りです。ファラオが神様だけが本物だと知るための願いであり決断でした。
(8-11節)
8ファラオはモーセとアロンを呼び寄せて言った。「私と私の民のところから蛙を除くように、主に祈れ。そうすれば、私はこの民を去らせる。主にいけにえを献げるがよい。」
9モーセはファラオに言った。「蛙があなたとあなたの家から断たれ、ナイル川だけに残るようにするため、私が、あなたと、あなたの家臣と民のために祈るので、いつがよいかを指示してください。」10ファラオが「明日」と言ったので、モーセは言った。「あなたのことばどおりになりますように。それは、あなたが、私たちの神、主のような方はほかにいないことを知るためです。11蛙は、あなたと、あなたの家、家臣、民から離れて、ナイル川だけに残るでしょう。」
僕らの人生は神様が具体的に言われていないことだらけです。僕ら人間はそれを考えて決めることができるし、神様に相談し願い祈ることができます。モーセは神様に祈りつつファラオに「蛙は、あなたと、あなたの家、家臣、民から離れて、ナイル川だけに残るでしょう。」と約束しました。それは「主のような方はほかにいないことを知るため」と言う目的のためです。(10節)そのために、モーセは必死で神様にお願いします。モーセは「主に叫んだ」とあります。神様はモーセのことばを聞いてくださり、その通りにしてくださいました。
(12-14節)
こうしてモーセとアロンはファラオのもとから出て行った。モーセは、自分がファラオに約束した蛙のことで主に叫んだ。13主がモーセのことばどおりにされたので、蛙は家と庭と畑から死に絶えた。14人々はそれらを山のように積み上げたので、地は悪臭で満ちた。
神様はモーセの祈りと願いを聞いてくださり、ファラオに言った通りに次の日カエルを全て死なせました。モーセはこのようにして、神様との信頼関係を深めて行きます。神様は絶対的な力を持っておられます。が、同時に僕らを同労者としておられることがわかります。
クリスチャンとは、イエス様に赦され、呼ばれ、イエス様のからだの部分とされた人たちです。イエス様とクリスチャンが一体として働く様子が聖書にあります。
(1コリント12.26-27)
26一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。27あなたがたはキリストのからだであって、一人ひとりはその部分です。
さらに、なんとイエス様と一緒に王として治めるとも書かれています。
(2テモテ2.12)
耐え忍んでいるなら、キリストとともに王となる。
昨日の箇所では主のことばが絶対であり、主の意思が絶対的な出来事となることがわかりました。それは事実ですが、今日の箇所はモーセが自分の意思で神様の働きに参加していることがわかります。神様を信じて神様のために働く時にも僕ら人間はロボットではありません。そこには僕ら人間の決断があり、神様への願いもあります。神様と神様を信じる人の関係は主従関係だけではありません。神様に相談したり、神様に願ったりなど、まるで友人関係のような神様と人との関わりがあります。
今日も神様に相談しましょう。そして願いを言いましょう。神様は僕らの自由を尊重されています。そして僕らの決断を尊重してくださいます。神様の主権と人間の自由は両立しています。これは神様だけができる素晴らしいことです。愛しつつ、恐れつつ、でも自由に神様に祈りましょう。相談しましょう。そして、叫びましょう。神様に祈りながら決断しましょう。神様は僕らの悩みも願いも、全てのことを働かせて有益に用いてくださいます。(ローマ8.28)ハレルヤ!
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