2023年4月3日月曜日

マルコ14.32-42メッセージ

 ●聖書 マルコ14.32-42

●題 祈りこそが戦場 


●今日のメッセージの概要


イエス様の地上の生涯は33年間。地上にこられた目的は、最初から死ぬためです。

しかも、全人類の罪を背負って身代わりに殺されるためです。イエス様は人には見えない心の中を見る方でした。心の中がどんなに悲しいか、どんなに痛みに満ちたものであるかを知っておられた。しかも、悲しみや痛みは人間の罪とセットです。


遠くから知ってるよ、というのでなく、自分の痛みそのものとして、自分の悲しみそのものとして共有してくださいました。痛み苦しむ当事者となり、しかも、その原因の罪も、まるで自分に原因があるかのように背負ってくださいました。当事者となって神に捨てられました。


さて、今日の箇所の苦しみと悲しみは、33年の人生の中で最大です。叩かれているわけでないに、刺されているわけでないのに、その時の悲しみ苦しみは死ぬほどです。拷問を受けるよりも、十字架で貼り付けになるよりも、苦しかったのが今日のイエス様の姿です。聖書によると、あまりの厳しさに、彼は大声でうめき、泣き、涙を流したとあります。実際に血の汗を流されたほどです。


マタイ、マルコ、ルカも、ヨハネもこれを記述している。イエス様の祈りの中でのこの苦しみは、人間の理解を超えています。誰も経験できないものです。簡単にどうこう言えない神聖な戦いです

この祈りはイエス様の最大の戦いでした。それを僕らは表面的にしか理解できません。今日、メッセージをします。でも、このメッセージよりもずっとずっと深い、深刻な、そして霊的な、聖なる戦いです。


礼拝メッセージをし、今集まって聖書を一緒に読む理由は一緒に神様の栄光をほめ、神様の偉大さを知り、イエス様と深く交わるためです。ですが、その悲しみの深さや大きさを僕らは理解することはできません。大きすぎます。拷問よりも悲しく苦しい、というこの苦しみはイエス様だけが特別に与えられたもので、イエス様の生涯の頂点です。それでもこの聖書を通して神様が僕らに語り、教えてくださいますように。そう信じて祈ります。


そして、この霊的な戦いを終えた後、つまりこの祈りの後は、イエス様は唾をかけられても、鞭で打たれても、勝利していて、もう嘆くことなく黙っています。確信を持って、堂々と十字架に向かっています。


今までも何度もサタンの誘惑は受けました。いつもいつもサタンの攻撃はイエス様が苦しまなくていいように、十字架で殺されなくていいようにしよう、という提案です。例えば、少し前、8章ではペテロを使ってサタンがイエス様を誘惑します。

その時にペテロはそんなことはありません。そんなことがあってはなりません。と言います。


(8:32-33)

32するとペテロは、イエスをわきにお連れして、いさめ始めた。

33,しかし、イエスは振り向いて弟子たちを見ながら、ペテロを叱って言われた。「下がれ、サタン。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」


いつも悪魔はイエス様が十字架に向かわないように仕向けます。

この夜の戦いも、十字架につかなくていい、私にはできない、したくない、しなくていい、という戦い。

ルカによる福音書22章53節に、「今はあなた方の時、闇の力です」


これは、イエスを十字架から引き離すためのサタンの最後の努力です。サタンの願いは、イエス様が父なる神に 「いや、私にはできない」「やめます。犠牲にはなりたくないです。降ります」と言うように仕向けることです。イエス様には選ぶことができます。イエス様が私にはできません。十字架はやめます。と言うことも選ぶこともできます。


もしも悪魔が成功し、イエス様が私にはできません。十字架はやめます。と言ったなら、神の怒りから救われる人間は誰もいなくなります。罪が赦される人は誰もおらず、全ての人は滅びに向かいます。告発者である、悪魔が世界中の人々をさばき、人々は互いに攻撃し、殺し合い、裁き合い、誰もゆるす人も、愛する人もいません。赦してくださる救い主もいません。回復させてくださる救い主もいません。無罪と宣言してくれるイエス様はいなくなります。それを見て悪魔が笑います。天国には誰も入れず、全ての人は永遠に苦しみ続けます。


これは僕らの想像を超えた、神の子イエス様だけがすることのできる霊的な大きな大きな戦いです。



●イエス様の最大の戦いと勝利


(33)

そして、ペテロ、ヤコブ、ヨハネを一緒に連れて行かれた。イエスは深く悩み、もだえ始め、


「するとイエスは、ひどく肝を つぶして、悩み始めた。」岩波 

(急に)おびえ出し、おののきながら 塚本


英語の訳では驚き、とか恐怖に打たれ、が多い。「何がイエス様を驚かせるのだろう」と思います。イエス様は全知全能であり、すべてを知っている。イエス様は知らないことがあるのか?今まで、裏切りも、苦しみも、十字架も何度も予告してきたのに。


イエス様がこの夜、今まで全く経験したことをそれをしようとしているのです。

イエス様がこれまでのこととはまったく異質なものだからです。


イエス様が驚き恐怖に打たれたのは何か?もちろんこれから起こる全ては悲しみです。

ユダの裏切り?まもなく11人が逃げてしまうこと?じゃあ、午前中に行われる不当な裁判か?あざけりだったのか?唾を吐かれたことだろうか?顔を殴られたこと?鞭打たれたことだろうか?十字架につけられたこと?死ぬことなのか?全ては悲しみです。それでも、それ以上のことがここにあります。このような驚くべき苦悩の感情を引き起こしたものは何だったのだろうか。


捕らえている苦悩に満ちた驚嘆は、それを超えるものなのです。イエス様にとって一番したくない、できない、この苦しい杯を過ぎ去らせてください、と思うことは、罪を持って神様から呪われることです。それが一番イエス様が嫌いなこと、したくないことです。


「アバ、父よ、あなたは何でもおできになります。どうか、この杯をわたしから取り去ってください。しかし、わたしの望むことではなく、あなたがお望みになることが行われますように。」


私たちは罪に慣れています。目の欲、肉の欲、暮らし向きの自慢に慣れていて、罪に対して完璧な憎しみを抱くことはできません。クリスチャンになってからも罪を好む自分がいます。罪を完璧に嫌い、罪を完全に退けることはない。でも、イエス様は完全です。イエス様の存在のすべてが、全身全霊で罪を嫌うのです。イエス様は全力で悪に反発していたのです。イエス様は聖なる聖なる聖なる神様です。


罪人になる、という体験がないし、一番罪から遠い存在だし、一番、罪を嫌う方です。

その聖なる聖なる聖なる神の子が、罪を最大に嫌うイエス様が、罪を持つ人となり、罪人代表となり、神の怒りを受けるのです。何百万人、何億人という罪人のために、100万回の神の怒りを引き受けるのです。


一番嫌っていたことは罪です。罪から完全に分離していた神です。一番それを自分が引き受けます。だからこそ、その恐怖とおののき、葛藤、嫌悪感は計り知れないものがありました。


(ルカ22:44)

イエスは、苦しみもだえて、いよいよ切に祈られた。汗が血のしずくのように地に落ちた。


血の滴るような汗をかき始めたという。巨大なストレスがかかると、毛細血管が拡張し、膨張し、爆発して、汗腺から血が出てくるという医師もいるそうです。いずれにしても、これが人間として、そして体がその苦しみの最大の反応をしていました。もしかすると服が血だらけになっていたかもしれません。


(35-36)

それからイエスは少し進んで行って、地面にひれ伏し、できることなら、この時が自分から過ぎ去るようにと祈られた。

そしてこう言われた。「アバ、父よ、あなたは何でもおできになります。どうか、この杯をわたしから取り去ってください。しかし、わたしの望むことではなく、あなたがお望みになることが行われますように。」



主は、「アバ」と言いました。親しみを込めた言い方です。その親密な愛が自分を救ってくれることを懇願するかのように、愛情深い、親密な、神の個人名を呼びました。主は、「あなたには、すべてのことが可能です」と言います。何でもできるはずです。あなたにはすべてのことが可能です、この杯を私から取り除いてください」


神様はできます。愛する一人子が罪人代表となることをやめる、やめさせることはできます。この呪いを、アバから引き離され、見捨てられる、という一番自分がしたくないことを避けることはできます。でも、もしイエス様は父から呪われ罪を背負って死ななければ、私たちは誰も救われません。全員が地獄行きです。


イエス様がやりたくないことは、絶対にやってはいけない、といつも言っていることを自分がやることです。罪から離れ、聖く純粋である神の子が、汚れた罪人として神に呪われ捨てられることです。自分の性格とは一番違うことです。聖なる神の子が呪われた人間になることです。愛される息子が、捨てられ呪われる罪人となることです。これはイエス様のきよく美しいご性質と違いすぎます。



●勝利の決意と祈り


(36)

しかし、わたしの望むことではなく、あなたがお望みになることが行われますように。」


今まで何度もそう教えてきました。主の祈りでも、そう教えてきました。みこころがなるように、私の思いではなく、主の思いがなるように。でも、これはそんなに簡単なことではありませんでした。彼は6秒間でそれを言ったわけではありません。6秒で言ったわけではなく、何時間もかけて苦しまぎれに繰り返されたのです。この時、イエス様は自分を捨てて死なれました。


自分を捨てて服従することは勝利です。この3回、主の前に行って、祈ってます。3回とも父なる神の御心に屈服しています。これが最終的な勝利です。最後の悪魔の誘惑に勝ちました。終わったのです。イエス様は、このあと堂々と、躊躇することなく、神様が決めたことを行うことを決意し、十字架にかかられるのです。


3回目が終わるとイエス様は全然違います。


(41)

41イエスは三度目に戻って来ると、彼らに言われた。「まだ眠って休んでいるのですか。もう十分です。時が来ました。見なさい。人の子は罪人たちの手に渡されます。

42立ちなさい。さあ、行こう。見なさい。わたしを裏切る者が近くに来ています。」



しかし、42節で「立ちなさい。さあ、行こう。」この時イエス様はもう震えてはいない。血の汗を流し、血まみれだが、戦いは終わり、勝利しています。ヨハネ18章3節には、ユダが「ユダは一隊の兵士と、祭司長、パリサイ人たちから送られた役人たち」が群衆、剣、棍棒を持ってきている様子が描かれています 一隊の兵士とは600人だったと言われています。まるで戦争のように兵士たちがきました。

イエスは逆らわず、彼らに立ち向かわれた。ヨハネ18章によれば、イエスは彼らにこう言われた、「誰を捜しているのか」と。


(ヨハネ 18:6)

6,イエスが彼らに「わたしがそれだ」と言われたとき、彼らは後ずさりし、地に倒れた。


イエスは「わたしはそれである」と言われた。そして、彼らは皆、地面に倒れた。全員。何百人もの兵士がきていた。イエス様が "わたしはそれである "と言ったときの声によって、地面に倒れます。


イエス様は二度それを言った。彼は勝利者で堂々としている。もう勝っています。神の御心がなります。神様のご計画とイエス様が祈りの中で一つになりました。

すでに勝利して裏切り者に向かい、ユダヤ教の宗教的な敵、ローマ兵、その他すべての群衆に向かい合うのです。


私たちは主が勇敢にに直面しているのを見ますが、でも、本当の本当の戦いは前日の夜のここゲッセマネの祈りでした。

逮捕されるときにはイエス様とても強く勇敢だった理由は、すでに勝利を収めていたからです。すでに自分を手放し、完全に明け渡していたからです。手放すいいのりこそが本当の戦場です。そして自分を捨てることが本当の勝利です。



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●弟子たちの敗北。祈りの大切さ


(32)

さて、彼らはゲツセマネという場所に来た。イエスは弟子たちに言われた。「わたしが祈っている間、ここに座っていなさい。」



この時は過越の祭りと言って、国中からエルサレムに人々がきていて、ごった返しています。その人混みから逃れる場所がゲッセマネ。

彼らが離れて一緒に時間を過ごすことができる、そして、神様とゆっくりと祈りの交わりをするプライベートな場所


(ルカ 22:39-40)

それからイエスは出て、いつものようにオリーブ山に行かれ、弟子たちも従った。

いつもの場所に着いたとき、イエスは彼らに、「誘惑に陥らないように祈っていなさい。」と言われた。


ルカによる福音書(ルカ22:40)によると、弟子にこう言っています。「誘惑に陥らないように祈っていなさい。」

イエス様は彼らが あんな男は知らない、と否定することはわかっています。弟子たちも今誘惑にあっていることを知っていまいsた。弟子たちがつまづいて逃げて行くのはわかっています。それでも、いのりなさい、と言います。

まずはイエス様が祈ってくださっています。つまづくのは知ってる。だけど、祈りなさい、とおっしゃいます。何度も言われます。少なくても3回は言われています。


(37-38)イエスは戻り、彼らが眠っているのを見て、ペテロに言われた。「シモン、眠っているのですか。一時間でも、目を覚ましていられなかったのですか。誘惑に陥らないように、目を覚まして祈っていなさい。霊は燃えていても肉は弱いのです。」



まずはイエス様が私たちの大祭司として祈ってくれています。先にイエス様は祈ってくれています。私たちの信仰が破綻しないように祈ってくれています「あなたの信仰がなくならないように祈りました」と言ってくださっています。(ルカ22.32)私たちには執り成す大祭司イエス様がいます。イエス様のとりなしの祈りによって私たちは完全な失敗から守られています。

それでも、あなたは祈りなさい、と言われます。主の祈りで、『私たちを試みに合わせないで、悪からお救いください。」と祈りなさい。と。誘惑や悪に打ち勝つためには、祈ることが必要であることを教えられたのです。自分は大丈夫と言わないで、自分の力に頼らず、主を呼びなさい。


僕らも祈らなければ、負けてしまうのです。弟子たちはこれから、裏切り、逮捕、拷問、処刑、最も危険な瞬間がきます。そして弟子たちは祈ってもいなくて、弱く、無防備で、逃げることしかできませんでした。弟子たちはこの危険なときに、祈るべきだったのです。彼らは1時間も祈れませんでした。


(33)

そして、ペテロ、ヤコブ、ヨハネを一緒に連れて行かれた。イエスは深く悩み、もだえ始め、


ヤコブとヨハネは、母親と一緒にイエスのところに来て、"あなたの右手と左手に座ってもいいですか?"と言った人たちです。彼らは、自分たちが第一人者だという意識を持っていたのです。ペテロは、自分でも認めるリーダーだったです。この3人が主要なリーダーです


この人たちは立ち直った後、他の人たちに影響を与える人たちです。だから、彼らはこの夜は弱さを学ぶ必要があるのです。

誘惑に打ち勝つために祈ることがいかに大切かを、祈らずに誘惑に負けてしまうことで学ぶことになったのです。彼らはこれから失敗します。この失敗によって学ぼうとしていたのです。


自分たちの弱さ惨めさを露呈させるために、3人を連れて行きました。


(37-40)

37,イエスは戻り、彼らが眠っているのを見て、ペテロに言われた。「シモン、眠っているのですか。一時間でも、目を覚ましていられなかったのですか。

38,誘惑に陥らないように、目を覚まして祈っていなさい。霊は燃えていても肉は弱いのです。」

39,イエスは再び離れて行き、前と同じことばで祈られた。

40,そして再び戻って来てご覧になると、弟子たちは眠っていた。まぶたがとても重くなっていたのである。彼らは、イエスに何と言ってよいか、分からなかった。


なぜなら、彼らは自信満々で、自分はイエス様の右と左に座るべきだといい、ペテロは自分は死んでも裏切りません、と思っていました。そこで、主は彼らを祈りの中に連れて行かれた。そして、彼らは祈れず、祈りの重要性がわからず、眠っていて、そして、イエス様を捨てて逃げてしまう、という自分の弱さを知ることになります。


あの使徒たちも祈りがなければ何もできない弱い人です。イエス様でさえ誘惑に直面して祈る必要がありました。とすれば、私たちはどれほど祈る必要があるのだろうか。


(1ペテロ 5:8)

身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたけるししのように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。


これは、あの時眠ることしかできなかったペテロ自身が書いています。自分の失敗を思い出して書いていると思います。

彼はあの時悪魔に食い物にされたのです。彼は、祈れず、準備されず、自分の力を過信したために、恥ずかしい敗北を経験しました。失敗しからこそ、彼は言います。目を覚ましていなさい、と。ペテロはイエス様の憐れみによってだけ完全な敗北から回復しました。



●適用。祈りこそ戦場であり勝利の場所


私たちにも適用できます。自分の思いではなく、

あなたの思い通りにしてください、と自分を手放した時に、神様のご計画がなります。本当の戦いは祈りの中で、自分を明け渡す戦いです。

父なる神様にとっては愛するひとり子を手放すことです。イエス様にとっては一番嫌いな罪人となることです。


祈りで勝利が達成されると、あとは、主のご計画がなりました。これは僕らも同じ。私たちの本当の戦いは戦場ではなく祈りの部屋で行われます。口では主の祈りをするけど、本当の本当のことをいうと、神様の御心がなるように、とは思ってなくて、自分の願い通りになるように、と思っている、よくあることです。主のみ国がきますように、と祈るけど、本当は自分が王様で支配者でいたい、ということを手放していない。よくあることです。本心は、自分の計画を押し通そうとすることはよくあることです。


本当に自分を捨てます、明け渡します、この計画を、やりたくないこの状況をあなたに明け渡します、と委ねる祈りです。私の思いではなく、主の御心がなりますように、という勝利です。この祈りさえできれば、どんな状況になっても受け入れます。恥をかいてもいいです。メンツまるつぶれでもいいです。宝を手放し、自分を捨てる祈りです。

明け渡す、自分を丸ごと神様に明け渡す祈りこそが戦場です。そして、明け渡すことは勝利です。


しかし、主は38節で "誘惑に陥らないように見守り、祈り続けなさい "と彼らに警告を与えています。自分の置かれている危険性がわからないのか?注意深く、祈り続けなさい。誘惑に陥らないように導いてください」


彼らが負けるのを知っていました。それでも、祈りなさい、祈り続けなさい、と言います。


(38)

誘惑に陥らないように、目を覚まして祈っていなさい。霊は燃えていても肉は弱いのです。」


僕らは聖霊を受けています。でも、聖霊はすばらしい願いを持ち燃えているけど、それでも肉は弱いのです。だから、パウロはこう言ったのです。


(ローマ7:21)

私は、善をしたいと願っているのですが、その私に悪が宿っているという原理を見いだすのです。


最大の戦いは祈りです。イエスは父に祈っています。神様のご計画に降伏し、自分を明け渡す祈りをしています。一番したくないことを背負う、祈りです。


もし、僕が、そして皆さんが、自分の意志を手放して、神に明け渡すとき、その瞬間にあなたは勝利します。

私たちも、正直に祈リマス。この苦しみを遠ざけてください。何時間もかけて、本気で気持ちを嘘つかない本当の気持ちを祈りましょう。

そして、最後の勝利の祈りはイエス様と同じです。「しかし、わたしの望むことではなく、あなたがお望みになることが行われますように。」


これこそが勝利です。

握りしめてることを手放し、やりたくないことも引き受けます。イエス様がそうしてくださったからです。

イエス様は完全に勝利し、罪を背負い、神に呪われ、人に捨てられます。我が神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか、と叫びます。



イエス様が神様に完全に明け渡したことは勝利でした。そして、復活したイエス様は今、完全な栄光を持ち、私たちを赦し、招いてくださっています。祈りこそ戦場です。明け渡すこと、神様に降参することこそが勝利です。

私たちもイエス様に明け渡しましょう。祈りこそが戦場です。


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考えてみましょう。


神様の願いを知りつつ、避けたいこと、逃げていること、思い通りにしいたこと、手放したくないこと、やめたくないこと、従いたくないことはありますか?




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