マルコ14.43-52
僕らが苦しむのは「こうなりたい」「こうならなければならない」と思うからです。自分の計画、計算を握りしめるときには予想外のことは全て苦しみでありストレスです。僕らの最大の戦いはそのような自分の計画やこだわりを手放して、神様のことばを信頼し、神様に全て明け渡すことです。イエス様もこの戦いを経験されました。裏切られ、罪人とされ、全ての人の罪を背負って神に呪われる人となることは、神様のご計画の通りだったし、聖書のことばの実現でした。でも、イエス様でさえも、そのご計画に身をささげることは葛藤があり苦しみがありました。
(35-36)
それからイエスは少し進んで行って、地面にひれ伏し、できることなら、この時が自分から過ぎ去るようにと祈られた。
そしてこう言われた。「アバ、父よ、あなたは何でもおできになります。どうか、この杯をわたしから取り去ってください。しかし、わたしの望むことではなく、あなたがお望みになることが行われますように。」
イエス様はこの祈りの中での戦いに勝利します。勝利とは「わたしの望むことではなく、あなたがお望みになることが行われますように。」
と心から祈ることができた、という勝利です。祈りの中で自分を完全に明け渡した後のイエス様は裏切られても逮捕されても拷問を受けても堂々としています。
(43-46)
そしてすぐ、イエスがまだ話しておられるうちに、十二人の一人のユダが現れた。祭司長たち、律法学者たち、長老たちから差し向けられ、剣や棒を手にした群衆も一緒であった。
イエスを裏切ろうとしていた者は、彼らと合図を決め、「私が口づけをするのが、その人だ。その人を捕まえて、しっかりと引いて行くのだ」と言っておいた。
ユダはやって来るとすぐ、イエスに近づき、「先生」と言って口づけした。
人々は、イエスに手をかけて捕らえた。
愛する弟子が裏切り、しかも、熱い口づけで裏切ります。祭司長たちも律法学者たちもユダも「自分の思い通り」のための行動です。ユダの口づけも思い通りにイエスを逮捕させ殺すための口づけです。心と行動が真逆です。ウラとオモテが違いすぎます。…と僕らはユダを非難しますが、僕らも「愛っぽい行動」「親切な言動」が実は「自分の思い通り」のためのものであることはよくある話です。僕も人と表面的にうまくいくために親切っぽいことをよく言います。ところが聖書の教えは違います。「憎む者がくちづけしてもてなすよりは、愛する者が傷つけるほうが真実である。」(箴言27:6 )
イエス様を逮捕しにきた祭司長たちも律法学者たちは、心では憎んでいましたが、普段は群衆を恐れて手出ししませんでした。彼らの行動はいつも自己保身、自分の栄光です。弟子たちも同じく、イエス様が逮捕されるとすぐにイエス様を見捨てて逃げていきます。危機的な時に僕らの本性が出ます。全ての人の行動全ては自己保身のため、と言っても過言ではありません。
ところが、イエス様にとっては違います。人の醜さ、罪、傲慢さ、憎悪、全てを引き受けてイエス様が罪人代表となり、人にも神にも呪われて捨てられていくのが神様のご計画でありイエス様の使命でした。「こうなったのは聖書が成就するためです。」とイエス様は言われます。イエス様は全部を神様のご計画にお委ねし、身を任せておられます。自分を捨てて主にささげ切ったイエス様は堂々としておられます。
(48-50)
イエスは彼らに向かって言われた。「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持ってわたしを捕らえに来たのですか。
わたしは毎日、宮であなたがたと一緒にいて教えていたのに、あなたがたは、わたしを捕らえませんでした。しかし、こうなったのは聖書が成就するためです。」皆は、イエスを見捨てて逃げてしまった。
僕らが自己中心、自己保身のために動くときには弱く、怖く、不安です。愛っぽい行動も自己保身や自己実現の虚しいものです。でも、自分を捨てて、神様のご計画や神様の教えに委ねていくときに僕らは力といのちを得ます。イエス様がお手本です。「こうなったのは聖書が成就するためです。」今日も祈りましょう。「わたしの望むことではなく、あなたがお望みになることが行われますように。」僕らの自己保身や自己実現よりも、神様がお望みになることの方が良いし高いし素晴らしいに決まってます。主のみ心がなりますように。ハレルヤ!
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