ヨシュア16.10
生ごみを放置すると1日で臭くなるように、ちょっとの罪も放っておくと培養して増えるようです。ちょっとした批判、悪口、淫らな思い、放置するといつの間にか心に一杯になり行動もおかしくなります。自分でなんとかできていると思ったら大間違いです。聖書は罪とは高慢だと言います。「あなたがたの高慢は、よくないことです。あなたがたは、ほんのわずかのパン種が、粉のかたまり全体をふくらませることを知らないのですか。」(1コリンと5.6)神様は何度もカナン人を「聖絶せよ」とおっしゃっていました。でも、ヨセフ族は「追い払わなかった」ようです。これくらいは大丈夫、と思ったのかもしれません。
(10)
ただし、彼らは、ゲゼルに住むカナン人を追い払わなかった。カナン人はエフライムのただ中に住んだ。今日もそうである。カナン人は強制労働に服すことになった。
「できない」のと「しない」のは全然違います。彼らは「追い払わなかった」とあります。理由は書かれてませんが、「カナン人は強制労働に」しました。絶滅させるより、労働者にする方が賢い、と思ったかもしれません。神様より自分の考えが上です。実は神様はこれを想定してあらかじめ言っておられました。
(申命 7:2)
あなたの神、主は、彼らをあなたに渡し、あなたがこれを打つとき、あなたは彼らを聖絶しなければならない。
彼らと何の契約も結んではならない。容赦してはならない。また、彼らと互いに縁を結んではならない。
あなたの娘を彼の息子に与えてはならない。
彼の娘をあなたの息子にめとってはならない。
彼はあなたの息子を私から引き離すであろう。
残しておいたカナン人によってイスラエルは神様から引き離されていきます。次の士師記を読むと、イスラエルはカナン人たちと婚姻関係を結んで彼らの神に仕えるようになっています。神様が言われた通りになってしまいました。
(士師記3.6-7)
彼らの娘を自分たちの妻とし、また自分たちの娘を彼らの息子に与えて、彼らの神々に仕えた。こうしてイスラエルの子らは、主の目に悪であることを行い、彼らの神、主を忘れて、もろもろのバアルやアシェラに仕えた。
罪の根底には高ぶりがあります。「私たちは彼らを支配しているし、大丈夫。」と思ったかもしれません。僕らの不従順はいつの間にか膨れ上がって神様から引き離す原因となります。「ん?あの人イヤだな」と思ったらその都度すぐに認めて神様に告白して捨てましょう。淫らな思いがあったら告白して捨てましょう。「もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。」(1ヨハネ1.9)その時は大丈夫そうに見えても、後でコントロール不能になります。「できない」のと「しない」のは全然違います。神様のご計画は僕らに平安を与えるためであり、将来と希望を与えるためのものです。従うことは祝福と希望と平安しかありません。できない、と言わずやりましょう。一歩進んだ時に神様が川を渡らせてくださり、雹を降らせて敵を絶滅させてくださいます。神様が僕らを祝福へと導いてくださいます。従うことは祝福への道です。ハレルヤ!
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