2023年10月31日火曜日

詩篇26篇

 詩篇26篇

2023年10月30日月曜日

ヨハネの手紙 第三

 ヨハネの手紙 第三


僕は自分が聖書や祈りを教えた人がイエス様に従う生活をするのを見るとめっちゃ嬉しく、人生最大のご馳走だと思います。(余計かもしれないけど、教えた人がイエス様を軽んじているのを見るガッカリは相当です)聖書がそのように書いています。ヨハネの教え子ガイオは目立たなくてもイエス様に誠実な人でした。



(1-4)

1,長老から、愛するガイオへ。私はあなたを本当に愛しています。

2,愛する者よ。あなたのたましいが幸いを得ているように、あなたがすべての点で幸いを得、また健康であるように祈ります。

3,兄弟たちがやって来ては、あなたが真理に歩んでいることを証ししてくれるので、私は大いに喜んでいます。実際、あなたは真理のうちに歩んでいます。

4,私にとって、自分の子どもたちが真理のうちに歩んでいることを聞くこと以上の大きな喜びはありません。



ガイオは目立つ奉仕者ではないけど後方支援に徹する人でした。具体的には、出て行って福音を伝える兄弟たちのために祈り、支え、必要なものを準備して送り出す人です。今で言うなら宣教師を送り出し必要なことを一緒に準備して支える奉仕です。宣教師の方が目立つけど、宣教はチームです。送り出し支える側の人のがいなければ成り立ちません。そのように「遣わされる」ことがないとムリ、と聖書は言います。



(ローマ10.14-15)

宣べ伝える人がいなければ、どのようにして聞くのでしょうか。遣わされることがなければ、どのようにして宣べ伝えるのでしょうか。



ガイオの後方支援が忠実であることは神様の喜び、そして長老ヨハネの喜びでした。ガイオは自分の教会の宣教師だけでなく、イエス様のために働いている他から来た兄弟姉妹を助け、受け入れることで彼らと一緒にイエス様に支える同労者になっていました。



(5-8)

5,愛する者よ。あなたは、兄弟たちのための、それもよそから来た人たちのための働きを忠実に行っています。

6,彼らは教会の集まりで、あなたの愛について証ししました。あなたが彼らを、神にふさわしい仕方で送り出してくれるなら、それは立派な行いです。

7,彼らは御名のために、異邦人からは何も受けずに出て行ったのです。

8,私たちはこのような人々を受け入れるべきです。そうすれば、私たちは真理のために働く同労者となれます。



目立つ宣教師や牧師だけが尊いとか喜ばれてるのではなく、福音を伝える人を支え、彼らと同じ気持ちで祈り、彼らの状況や必要なことを聞き、受け入れ、準備し、送り出す奉仕は同じく尊く、神様にとっての大きな喜びです。「子どもたちが真理のうちに歩んでいることを聞くこと以上の大きな喜びはありません。」(4)僕らもチームです。いわゆる献身者と言われる人が頑張って、他の人は見ているだけで何もしない、と言うのはイエス様の願いではありません。彼らの働きは僕らの働き、いや、イエス様のからだである教会の働きです。一人ひとりは器官です。全員が献身者、主のために働く人です。


(1コリント12.26-27)

一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、もし一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。



自分のことだけでなく、苦闘してイエス様に仕えている兄弟姉妹のために祈り、具体的に準備し、与え、支えましょう。兄弟姉妹を愛し犠牲を払うことはイエス様を愛することと同じです。たとえ右の手の奉仕が左手に知られてなくても、大丈夫です。神様は大いに喜んでくださっています。神様にとってのご馳走です。ハレルヤ!

2023年10月26日木曜日

1ヨハネ4.13-21

 1ヨハネ4.13-21


私たちには「会いたい人」と「避けたい」人がいます。「会いたい人」は自分を肯定し、喜び、受け入れ、さばかないタイプの人です。「避けたい人」は裁き、文句をいい、罰を与える人です。あなたにとって神様は「会いたい人」でしょうか。それとも「避けたい人」でしょうか。「避けたい」人は自分は神様に裁かれる、受け入れられていない、と思う人です。

僕らには欠点があり罪があります。それでも神様は僕らを愛し、肯定し、喜び、受けれ入れてくださっています。理由は罪の裁きと呪いをイエス様が引き受け、十字架によって身代わりに裁かれ、神様の怒りをなだめ、僕らをきよめ、無罪としてくださったからです。僕らは神様に裁かれることはありません。神様の愛を信じた僕らはキリストと一緒に裁かれ、死んで、完全なものとして復活した人とみなされます。(ローマ6.6-8、コロサイ2.12など)最後の審判の日にも裁かれることはありません(17)



(16)

16,私たちは自分たちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛のうちにとどまる人は神のうちにとどまり、神もその人のうちにとどまっておられます。

17,こうして、愛が私たちにあって全うされました。ですから、私たちはさばきの日に確信を持つことができます。この世において、私たちもキリストと同じようであるからです。



恐れる人は「受け入れてもらえないかも…」「さばかれるかも…」と思う人です。コワイので背伸びして良い人に見せようとしたり、繕ったり隠したりと痛々しいです。一方、神様の愛と赦しと義ときよめを信じる人は安心できます。それは恐れを締め出します。神様の完璧な愛とはイエス様の犠牲です。



(18-10)

18,愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。恐れには罰が伴い、恐れる者は、愛において全きものとなっていないのです。

19,私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです。



これを知った人は神様と兄弟姉妹を愛する人に変えられます。自分の愛ではなく神様の愛が御霊によって与えられているからです。



(13)

神が私たちに御霊を与えてくださったことによって、私たちが神のうちにとどまり、神も私たちのうちにとどまっておられることが分かります。



聖書によると、神様からの愛は相手のため、神様のために十字架を背負って自分を捨てることだと言います。(マタイ10.38-39、1ヨハネ3.16など多数)イエス様は自分を苦しめる罪人のため、敵のために十字架でご自分を捨ててくださいました。ここに愛があるのです。(1ヨハネ4.9-10)イエス様は敵を愛し、迫害する人のために祈りなさい、とおっしゃいます。(マタイ5.44)



(20-21)

20,神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません。

21,神を愛する者は兄弟も愛すべきです。私たちはこの命令を神から受けています。



今度は自分の番です。神様は罪のある僕らを赦し、受け入れ、犠牲を払って愛してくださいました。僕らの番です。神様を愛し、兄弟姉妹を愛します。周りがいい人だからではありません。イエス様がご自分を捨てて愛してくださったからです。自分を愛してくれる者を愛しても神様の前では価値がありません。(マタイ5.46)愛は都合のいい相手を求めることでも性欲や承認欲求を満たすためのものでもありません。愛は相手のため、神様のために十字架を背負って自分を捨てることです。


僕らの頑張りとか心がけではありません。「愛は神から出ているのです。」(7)思い通りにならなくても大丈夫です。見返りがなくても大丈夫です。逆ギレされても大丈夫です。死んでも大丈夫です。神がまず私たちを愛してくださったからです。安心して従いましょう。神様の愛が僕らの中に満ちています。後はそれを表すだけです。ハレルヤ!




2023年10月25日水曜日

Ⅰヨハネ4.7-12

 Ⅰヨハネ4.7-12


僕らのほんわかした愛のイメージと、神様が与えてくださる愛は全然違います。それはキュンとか、いい感じになることではなく、自分を苦しめる人、自分に反対する人、自分を憎む人、自分の敵のために自分を捨て、与えるものです。人間にはあり得ないものです。



(3章16節)

キリストは私たちのために、ご自分のいのちを捨ててくださいました。それによって私たちに愛が分かったのです。ですから、私たちも兄弟のために、いのちを捨てるべきです。



(10-11)

10,私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。

11,愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた、互いに愛し合うべきです。



(ローマ5章8節)

しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。



この愛は自分からいくら振り絞っても出ません。神様によってのみ与えられます。聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。(ローマ5.5)神様は愛そのものです。神様から生まれた人限定でこの愛は与えられます。



(7-9)

7,愛する者たち。私たちは互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛がある者はみな神から生まれ、神を知っています。

8,愛のない者は神を知りません。神は愛だからです。

9,神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちにいのちを得させてくださいました。それによって神の愛が私たちに示されたのです。



この無償の愛、犠牲の愛は神様の愛は僕らがそれを行動に現すことで完成されます。神様は見えませんが、その愛は見ることができるし、表すことができます。そうするように命令されています。



(12)

いまだかつて神を見た者はいません。私たちが互いに愛し合うなら、神は私たちのうちにとどまり、神の愛が私たちのうちに全うされるのです。



神様は自分に喜びを与えてくれる人を愛するのと同じように、自分を苦しめる人も愛します。自分に賛同してくれる人を愛するのと同じように、反対する人を愛します。自分を愛してくれる人を愛するのと同じように、自分を憎む人も愛します。これは自分の命を捨て、愛する御子イエス様を十字架で犠牲にして敵を、罪人を愛し救おうとなさる愛です。


あり得ない愛が与えられています。そして僕らもそれができます。自分はできないけど、神様がそうなさいます。神様は愛だからだからです。(7-8)愛することは自分を捨てることです。愛することは自分の利益を求めず、苛立たず、他人の悪を心に留めないことです。愛は与えることです。忍耐することです。裁かず、赦すことです。(1コリント13.4-7)神様は愛です。今日、僕らが神様に心も体も明け渡し、神様の愛を現す器とされますように。

2023年10月24日火曜日

1ヨハネ3.13-24

 1ヨハネ3.13-24


結婚するかしないか。どこに住むか、どちらに進むか、僕らは迷います。そして、どちらが御心ですか、と祈ります。御心、と言いつつ実は自分の利益損得で考えがちです。神様の願いは神様と人を愛することです。愛するための祈りをするなら、何でもいただくことができると聖書は断言します。



(16-18)

16キリストは私たちのために、ご自分のいのちを捨ててくださいました。それによって私たちに愛が分かったのです。ですから、私たちも兄弟のために、いのちを捨てるべきです。

17,この世の財を持ちながら、自分の兄弟が困っているのを見ても、その人に対してあわれみの心を閉ざすような者に、どうして神の愛がとどまっているでしょうか。

18,子どもたち。私たちは、ことばや口先だけではなく、行いと真実をもって愛しましょう。



愛とは、相手のため、神様のために自分を捧げ、自分を失い、与え、行動することです。愛は自分のいのちを捨てることです。これが愛だと聖書は言います。そして、それを願うなら祈りは必ず聞かれます。求めていることは与えられると聖書は断言します。



(22-24)

22,そして、求めるものを何でも神からいただくことができます。私たちが神の命令を守り、神に喜ばれることを行っているからです。

23,私たちが御子イエス・キリストの名を信じ、キリストが命じられたとおりに互いに愛し合うこと、それが神の命令です。

24,神の命令を守る者は神のうちにとどまり、神もまた、その人のうちにとどまります。



自分を捨てて、自分の願いを捨てれば捨てるほど、そして、神様の心、神様の願いを求めるほどに、祈りが聞かれます。主の祈りも同じです。自分の思い通りでなくていいです。御心がなりますようにと祈ります。

神様の願いの通り、苦手な人を愛し、自分をのろう人を祝福し、悪に対して善で返すことです。それを願った時にそれはもう叶えられています。聖書は何度も繰り返しています。神様を愛すること、人と人が愛し合い、赦し会う、互いに犠牲を払い、忍耐することです。イエス様がそうしてくださったからです。神様の願いそのものです。


その祈りは聞かれます。もう聞かれました。実現しました。それが確信です、と聖書は言います。


(5章14-15)

14,何事でも神のみこころにしたがって願うなら、神は聞いてくださるということ、これこそ神に対して私たちが抱いている確信です。

15,私たちが願うことは何でも神が聞いてくださると分かるなら、私たちは、神に願い求めたことをすでに手にしていると分かります。


祈りもしないでああだこうだいう前に、祈るべきです。祈ったらもうそれは実現しています。あとは行動するだけです。あの人と和解できないのは、あの人に苦手意識があるのは、祈ってないからです。御心にかなう祈りをしたら、もうそれは叶えられたのです。

今日も祈りましょう。自分の願いは一旦捨てて、神様の思い通りになるように、祈りましょう。それは実現します!

2023年10月23日月曜日

1ヨハネ3.1-12

 1ヨハネ3.1-12


「クリスチャンになったのにいつも罪に流されてしまう…」「肉欲に勝てない…、あの人がゆるせない…」と言う悩みを聞くことがあります。答えは「罪が苦しい、そんな自分はイヤ、と思うことは神様の子どもとなったしるし、聖霊が住んでおられる証拠」です。聖なるキリストとつながった人は罪を嫌がります。罪がが苦しくて悩むはずです。キリストと罪とは完全に真逆、水と油、磁石のSとNのように反発するものです。ヨハネの手紙第一は何度も「キリストにとどまる者はだれも、罪を犯しません。」(6)「神から生まれた者はだれも、罪を犯しません。神の種がその人のうちにとどまっているからです。その人は神から生まれたので、罪を犯すことができないのです。」と繰り返し言い切ります。(9)一方で、「もし自分には罪がないと言うなら、私たちは自分自身を欺いており、私たちのうちに真理はありません。」(1.8)とも言います。どっち?!と思います。答えは、神の子どもは罪を犯すことがないけども、同時に僕らの中には「罪」と言う汚い人格がまだ住み着いていて抵抗していることです。キリストが住むキレイなアパートに入居したのに、前の汚い住民がそこにまだいる、と言う状況です。それが僕らの肉体の中で起こり、苦しめています。



(ローマ8.15-20)

私には、自分のしていることが分かりません。自分がしたいと願うことはせずに、むしろ自分が憎んでいることを行っているからです。

(…中略…)、今それを行っているのは、もはや私ではなく、私のうちに住んでいる罪なのです。(…中略…)私は、したいと願う善を行わないで、したくない悪を行っています。(…中略…)それを行っているのは、もはや私ではなく、私のうちに住んでいる罪です。



神様の子どもは罪を犯しません。キリストにつながった僕らは罪を嫌い、それを無視し、やめようとし、キリストに似たものになろうとします。



(1-3)

1,私たちが神の子どもと呼ばれるために、御父がどんなにすばらしい愛を与えてくださったかを、考えなさい。事実、私たちは神の子どもです。世が私たちを知らないのは、御父を知らないからです。

2,愛する者たち、私たちは今すでに神の子どもです。やがてどのようになるのか、まだ明らかにされていません。しかし、私たちは、キリストが現れたときに、キリストに似た者になることは知っています。キリストをありのままに見るからです。

3,キリストにこの望みを置いている者はみな、キリストが清い方であるように、自分を清くします。



どれほど罪とキリストが真逆か、聖書は説明します。罪は悪魔から出ています。愛することは神様から出ています。



(8-11)

8,罪を犯している者は、悪魔から出た者です。悪魔は初めから罪を犯しているからです。その悪魔のわざを打ち破るために、神の御子が現れました。

9,神から生まれた者はだれも、罪を犯しません。神の種がその人のうちにとどまっているからです。その人は神から生まれたので、罪を犯すことができないのです。

10,このことによって、神の子どもと悪魔の子どもの区別がはっきりします。義を行わない者はだれであれ、神から出た者ではありません。兄弟を愛さない者もそうです。

11,互いに愛し合うべきであること、それが、あなたがたが初めから聞いている使信です。



罪とは「律法に違反することです。」(4)律法とは神と人を愛することです。(11)しかも、愛とは「いい感じ」に好かれることでもなく、自分を捨てて神様に従うことです。そして兄弟姉妹のために自分のいのちを捨てることです。(3章16節)これはキリストのご性格です。この、自分を捨てる愛の人に僕らもなります。いや、もうなってます。やがて完璧にそのような人になることは決定です。「キリストが現れたときに、キリストに似た者に」なります。(2)今はその途中です。「キリストが清い方であるように、自分を清くします。」(2)


「神から生まれた者はだれも、罪を犯しません。」(9)とは、罪と共存することを受け入れないことです。罪をするたびに苦しくなります。なので、聖書はそれを認めて告白して捨てるように言います。「もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。」(1:9)僕らは神様の子どもなので、無罪として生まれ変わりました。やがて神様に似て完全に変えられるように「神の種がその人のうちにとどまっているからです。」(9)兄弟姉妹を愛さない、と言う選択はありません。悩むけど、答えは一択です。自分を捨てて神様を愛すること、自分を捨てて人を愛することです。そのような神様の子どもにもうなってます。「罪も仕方ないんじゃない」と言い、罪をなんとも思わず痛くも痒くもない人は悪魔の子どもだし、その区別があると聖書は言い切ります。



(10)

このことによって、神の子どもと悪魔の子どもの区別がはっきりします。義を行わない者はだれであれ、神から出た者ではありません。兄弟を愛さない者もそうです。



僕らは神様の子どもです。神と人を愛する以外の選択はありません。神様から生まれた人は罪を犯したくもありません。妥協案とか、ほどほどにするとか、落とし所はありません。愛する一択です。罪の誘惑はあるけども、イエス様はもう勝利しています。「その悪魔のわざを打ち破るために、神の御子が現れました。」(8)僕らは自分で思う以上の、すごい愛の人、神の子どもに変えられています。「私たちが神の子どもと呼ばれるために、御父がどんなにすばらしい愛を与えてくださったかを、考えなさい。事実、私たちは神の子どもです。」(1)僕らは自分で思う以上の神様の子どもです。聖なる人、愛の人です。もう、自分が生きているのでなく、キリストが僕らのうちに生きておられます。すごいことです。ハレルヤ!(ガラテヤ2.20)