2024年1月12日金曜日

マタイ6.1-8

 マタイ6.1-8


僕ら人間にはいつも欠乏感があって、何かで満たされたいと願っています。ある牧師は代表的なものとして次の3つを挙げました。

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1、人に愛され人に受け入れられること。

かわいいと言われたり、好かれたり、仲間になったり、彼氏や彼女ができたり、結婚したりなど、人に受け入れられることで満たされたい、と思います。


2、何かができる、有用な人間だと思うこと

良い点数を取ったり、仕事で認められたり、誰かの役に立ったりすることで満たされたいと思います。


3、食べたり飲んだり薬を服用したりすること

おいしいものを食べたり、酒を飲んだり、何かに効く薬を服用することで、手っ取り早く幸福になろうとします。

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神様に愛されています、感謝します、と口では言っても、本音は神様以外で欠乏感を満たそうとすることはよくある話だし、それはどうしても態度に出てしまいます。



(1-4節)

1,人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい。そうでないと、天におられるあなたがたの父から報いを受けられません。

2,ですから、施しをするとき、偽善者たちが人にほめてもらおうと会堂や通りでするように、自分の前でラッパを吹いてはいけません。まことに、あなたがたに言います。彼らはすでに自分の報いを受けているのです。

3,あなたが施しをするときは、右の手がしていることを左の手に知られないようにしなさい。

4,あなたの施しが、隠れたところにあるようにするためです。そうすれば、隠れたところで見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。



良い行いが、実は人にアピールして認められ愛されて満たさるためであることを、イエス様は「偽善者たち」とおっしゃいます。「すでに自分の報いを受けている」とおっしゃいます。神様ヌキの自己満足です(2)僕らの行動には必ず本音の隠れた動機があるはずです。本当は何を目的にしているのか、自分に聞いてみるとわかります。


自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈ることは、人からは出ない愛です。(マタイ5.44-48)それは神様からのものあって、自分でやっているのではありません。まして他の人からほめられたり感謝されたりするものでもありません。ただ、神様の愛を表しただけです。栄光と感謝と賛美は神様のものです。



(5-6節)

5,また、祈るとき偽善者たちのようであってはいけません。彼らは人々に見えるように、会堂や大通りの角に立って祈るのが好きだからです。まことに、あなたがたに言います。彼らはすでに自分の報いを受けているのです。

6,あなたが祈るときは、家の奥の自分の部屋に入りなさい。そして戸を閉めて、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたところで見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。



祈りも神様から頂くものです。自分から出るのではなく、御霊によって与えられます。そして祈りは神様にすべての栄光をお返しするものです。だからイエス様は「心貧しい者は幸いです」とおっしゃいます。(マタイ5.3)御名だけがほめたたえられ、賛美されるのが祈りです。

自分が認められ、感謝を受けるのが祈りではありません。祈りさえも承認欲求を満たすための道具にしてしまいがちなのが僕らの本性です。


自分の行いで幸福なろうとする、しつこいガンコな自我が僕らにはあるようです。そこには神様さえも自分の努力次第で動かせる、という誤解があります。その人はより長く、熱心に繰り返して祈ることで神様を動かそうと思って頑張ります。



(7-8節)

7,また、祈るとき、異邦人のように、同じことばをただ繰り返してはいけません。彼らは、ことば数が多いことで聞かれると思っているのです。

8,ですから、彼らと同じようにしてはいけません。あなたがたの父は、あなたがたが求める前から、あなたがたに必要なものを知っておられるのです。



良い行いも祈りも自分から出ない人は幸いです。「すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至るからです。」(ローマ11.36)全てが神様から与えられたものだ、と思う人は幸いです。


自分に聞いてみましょう。この良い行いは、この祈りは、本音を言うと何を求めているのか、と。


満たしてくださるのは神様だけです。賛美を受けるのは神様だけです。

「私たちにではなく 主よ 私たちにではなく ただあなたの御名に栄光を帰してください。あなたの恵みとまことのゆえに。」(詩篇115:1)ハレルヤ!

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