2024年4月29日月曜日

詩篇53篇

 詩篇53篇


心配することが得意なのが人間です。ありもしないストーリーを想像しては恐れます。ですがもともと、人間は恐れて生きるように造られていせん。神様と一緒にいて喜び楽しむのが元どおりの姿です。「神が御民を元どおりにされるときヤコブは楽しめ。イスラエルは喜べ。」(6)本来の姿は神様と一緒にいて安心して生きる人です。


人間が「神はいない」と言い出した時、人はまるで獣のように何をしてもオッケーになりました。善悪の基準を失い、自分の欲望を満足させることが幸せだと誤解し、だんだん良心は麻痺していきました。目の欲、肉の欲、暮らしむきが中心となり、神様の裁きや死のことは考えないようにします。聖書はそのような人を「愚か者」と言います。



(1節から4節)

1,愚か者は心の中で「神はいない」と言う。彼らは腐っている。忌まわしい不正を行っている。善を行う者はいない。

2,神は天から人の子らを見下ろされた。悟る者神を求める者がいるかどうかと。

3,彼らはことごとく背き去りだれもかれも無用の者となった。善を行う者はいない。だれ一人いない。

4,不法を行う者たちは知らないのか。彼らはわたしの民を食らいながらパンを食べ神を呼ばない。



「神はいない」と言う人は欲望を満たそうとする一方、何かに恐れ怯えながら生きています。悪いことが起こるのではないか、恥かしいことになるのではないか、といつも想像します。



(5節)

見よ彼らは恐れのないところで大いに恐れた。神があなたに陣を張る者の骨を散らされたのだ。あなたは彼らを辱めた。神が彼らを捨てられたのだ。



恐れる必要のないところで恐れることがすでに神様の裁きです。

自分に不幸が起こるのではないか、敵から悪いことをされるのではないかと、いつも恐れます。

裁きとは、光と安心と喜びのある神様のところに行かないことです。(ヨハネ3.19-20)

神を求めずに自分の中だけで恐れながら生きる人は、いくら不正をして欲望を満たしても安心と喜びがありません。本来、僕らは神様と一緒に生きるように作られました。そこには楽しみと喜びがあります。神様は元通りにしてくださいます。恐れも不安も一切ないのが神様です。



(6節)

ああイスラエルの救いがシオンから来るように。神が御民を元どおりにされるときヤコブは楽しめ。イスラエルは喜べ。



「シオン」とは神様を礼拝する当時の中心地エルサレムです。人々は神様に求め、祈り、賛美し、神様とお会いするためにシオンに上りました。シオンに神様がおられ、そこには喜びと救いがありました。今、僕らも神様を求め、愛し、賛美し、共にいることができます。イエス様を信じる人はみんな神様と一緒にいます。イエス様が一緒に住んでくださっています。僕たちのこの体が聖霊の住まいです。そして二人でも三人でも一緒に集まるならそこに主はおられます。


人間は不安や恐れで生きるように造られていせん。神様と一緒にいて喜び楽しむのが本当の姿です。「神が御民を元どおりにされるときヤコブは楽しめ。イスラエルは喜べ。」(6)今は回復途中です。やがて不安も恐れもない完璧な時がきます。今から期待して、信じて、喜んで歩みましょう。神様の計画は僕らに災いを送ることではありません。「それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのもの」です!(エレミヤ29.11)





2024年4月25日木曜日

詩篇49篇

 詩篇49篇


人間なら、全員、幸せになりたくて、何かで満たされたくて、愛されようとし、強くなろうとします。上手くいく人もいるし、それができなくて苦しむ人もいます。仕事も、財産も、みんな自分を祝福したいし強くなりたいという願いが根底にあります

でも、全てが消え去るものです。どんな喜びも、どんな楽しみも、お金も、名誉も自分を死と神の裁きから救い出す事はできません



(17節から20節)

17,人は死ぬとき何一つ持って行くことはできずその栄誉もその人を追って下ることはない。

18,たとえ人が自分自身を生きている間に祝福できてもあなたには物事がうまく行っていると人々があなたをほめたたえても。

19,そのたましいは代々の先祖のところに行く。そこでは永久に光を見ることはない。

20,人は栄華のうちにあっても悟ることがなければ滅び失せる獣に等しい。



自分の財産や名誉を墓に刻み、土地に自分の名前を付けたとしても消え去ります。どんな権力者であっても死んでいくただの人間です。だから人を恐れる必要はありません。



(6節から13節)

5,なぜ私はわざわいの日々に恐れなければならないのか。私のかかとを狙う者の悪意が私を取り囲むときに。

6,彼らは自分の財産に拠り頼み豊かな富を誇っている。

7,兄弟さえも人は贖い出すことができない。自分の身代金を神に払うことはできない。

8,たましいの贖いの代価は高く永久にあきらめなくてはならない。

9,人はいつまでも生きられるだろうか。墓を見ないでいられるだろうか。

10,彼は見る。知恵のある者たちが死に愚かな者浅はかな者も等しく滅び自分の財産を他人に残すのを。

11,彼らの心の中ではその家は永遠で住まいは代々に及ぶ。彼らは土地に自分たちの名をつける。

12,しかし人は栄華のうちにとどまれない。人は滅び失せる獣に等しい。

13,これが愚か者の道。彼らに従う者もその口のことばを喜ぶ。セラ



どんなにお金を積んでも自分を死から救うことはできません。まして、神様の裁きから救うことはできません。イエス様を信じ受け入れ従うことだけが僕らを永遠の祝福へと招いてくださる唯一の道です。贅沢に暮らし、おいしいものを食べて遊び暮らしていた人が死後に火の中で苦しみ、逆に忍耐して貧乏人ラザロが死後に報われていることをイエス様は教えてくださいました。その金持ちは叫んでいます。



(ルカ16:24)

彼は叫んで言った。『父アブラハムさま。私をあわれんでください。ラザロが指先を水に浸して私の舌を冷やすように、ラザロをよこしてください。私はこの炎の中で、苦しくてたまりません。』アブラハムは言った。『子よ。思い出してみなさい。おまえは生きている間、良い物を受け、ラザロは生きている間、悪い物を受けていました。しかし、今ここで彼は慰められ、おまえは苦しみもだえているのです。



今日1日の使い方が、消えていくことのために使うのか、それとも永遠になくならない価値のあることに使うのか僕らは問われています。自分の栄光もお金も持っていくことはできません。反対に、イエス様を信頼し神様と人を愛し仕えるために手放した自分の立場やお金や権利や時間は天では消えることのない価値のある宝です。イエス様は言われます。「なくなる食物のためではなく、いつまでも保ち、永遠のいのちに至る食物のために働きなさい。」今日、話すこと、聞くこと、見るもの、すること全てが永遠に価値のあることへの選択でありますように。



2024年4月24日水曜日

出エジプト18章

 出エジプト18章


僕が働いていた広告業界は完全にトップダウンでした。監督や広告主が言ったことに現場はすぐに早く従います。それが顧客の満足になり、評価につながり、売り上げになりました。判断が難しい事はすぐにその場で上に相談です。現場の判断が後で大きなトラブルになることもありました。広告主や監督を尊敬し従うのが仕事が成功するための基本中の基本でした。


同じように、どんな小さなことも神様に持っていき、判断を仰ぐことがリーダーとしての力です。自分の判断は要求されていません。神様を恐れ、敬い、その教えに従うことです。イエス様は自分を捨てて私に従って来なさい、と言われます。力のあるリーダーとは意見の強い人ではありません。リーダーの力とは、神様のところに行って報告し連絡し相談する力です。略称「ほうれん草」です。聖書は次のように言います。



(19節)

さあ、私の言うことを聞きなさい。あなたに助言しましょう。どうか神があなたとともにいてくださるように。あなたは神の前で民の代わりとなり、様々な事件をあなたが神のところに持って行くようにしなさい。



リーダーとは自分の考えでなく神様のことばをそのまま伝える人です。足したり引いたりせず、そのまま伝える人こそ力あるリーダーです。なぜなら神様のことばは実現する力があるからです。



(20節)

あなたは掟とおしえをもって彼らに警告し、彼らの歩むべき道と、なすべきわざを知らせなさい。



全体のリーダーも、小さいグループのリーダーも基本は全く同じです。神様を恐れ、神様に報告し、相談し、そして神様の言葉を伝える人がリーダーです。リーダーとは意見の強い人ではないし、リーダーの意見が強いなら有害です。リーダーを選ぶ時には、不正の利を憎む人、そして神様に誠実な人たちを見つけるように言われています。



(21節から26節)

21,あなたはまた、民全体の中から、神を恐れる、力のある人たち、不正の利を憎む誠実な人たちを見つけ、千人の長、百人の長、五十人の長、十人の長として民の上に立てなさい。

22,いつもは彼らが民をさばくのです。大きな事件のときは、すべてあなたのところに持って来させ、小さな事件はみな、彼らにさばかせて、あなたの重荷を軽くしなさい。こうして彼らはあなたとともに重荷を負うのです。

23,もし、あなたがこのことを行い、神があなたにそのように命じるなら、あなたも立ち続けることができ、この民もみな、平安のうちに自分のところに帰ることができるでしょう。」

24,モーセはしゅうとの言うことを聞き入れ、すべて彼が言ったとおりにした。

25,モーセはイスラエル全体の中から力のある人たちを選び、千人の長、百人の長、五十人の長、十人の長として、民の上にかしらとして任じた。

26,いつもは彼らが民をさばき、難しい事件はモーセのところに持って来たが、小さな事件はみな彼ら自身でさばいた。



人から相談される時の基本は、ただ相手の話を傾聴して神様にそれをそのまま報告することです。一つひとつの話を区切ってこまめに一緒に祈るのも方法です。神様は必ずことばや考えを与えてくださいます。神様のくださる考えは人の思いを超えています。与えられたものをそのまま伝えましょう。聖書が言う「さばき」とは、神様の判断のことです。

無色透明なパイプのように、神様にそのまま事情を伝え、神様の言葉をそのまま流す人こそリーダーです。リーダーは不純物が入らないように、流れが良くなるように、毎日掃除しましょう。自分の利益、主張、神様より人を恐れること、それらの不要物はちゃんと告白して手放す祈りをしましょう。今日も余計なフィルターを通さない、純粋な神様との交わりができますように。








2024年4月23日火曜日

告さん、勇さんと 「私の全てをお捧げします」

2024年4月にアメリカから帰ったばかりのピアノの告さん、素敵なボイシングすぎます。
そして勇さんとのセッション、幸せでした!


 

出エジプト17章

 出エジプト17章


普通、僕らは問題が解決するように祈ります。…ですが、実は祈るために問題が与えらているようです。神様の愛と力と栄光を知るために、です。イスラエルの歴史を読むと、祈り求めるために水や食物が不足し、神様の解決を体験するために争いが起こるようです。祈ることによって神様の力と愛がより明らかになります。人の目に悪い出来事でも、それは神様の力と栄光と愛が現れるための通過点のようです。


荒野に導かれたイスラエルの人々は水がなくてモーセに文句を言いました。そもそも「主は私たちの中におられるのか、おられないのか」という疑いです。(17)このトラブルもまた、神様を求めて神様の力を体験するためにプロセスでした。



(1節から7節)

1,イスラエルの全会衆は、主の命によりシンの荒野を旅立ち、旅を続けてレフィディムに宿営した。しかし、そこには民の飲み水がなかった。

2,民はモーセと争い、「われわれに飲む水を与えよ」と言った。モーセは彼らに「あなたがたはなぜ私と争うのか。なぜ主を試みるのか」と言った。

3,民はそこで水に渇いた。それで民はモーセに不平を言った。「いったい、なぜ私たちをエジプトから連れ上ったのか。私や子どもたちや家畜を、渇きで死なせるためか。」

4,そこで、モーセは主に叫んで言った。「私はこの民をどうすればよいのでしょう。今にも、彼らは私を石で打ち殺そうとしています。」

5,主はモーセに言われた。「民の前を通り、イスラエルの長老たちを何人か連れて、あなたがナイル川を打ったあの杖を手に取り、そして行け。

6,さあ、わたしはそこ、ホレブの岩の上で、あなたの前に立つ。あなたはその岩を打て。岩から水が出て、民はそれを飲む。」モーセはイスラエルの長老たちの目の前で、そのとおりに行った。

7,それで、彼はその場所をマサ、またメリバと名づけた。それは、イスラエルの子らが争ったからであり、また彼らが「主は私たちの中におられるのか、おられないのか」と言って、主を試みたからである。



敵から攻撃される時も同じです。敵に勝つことができるのは神様です。人は戦いますが一番大事なのは祈り祈られることです。モーセは丘の上で手を挙げて祈り続けました。祈り疲れた時には仲間が祈りを支えてくれました。主に信頼して祈り求めることが戦いの中心でした。



(8節から13節)

8,さて、アマレクが来て、レフィディムでイスラエルと戦った。

9,モーセはヨシュアに言った。「男たちを選び、出て行ってアマレクと戦いなさい。私は明日、神の杖を手に持って、丘の頂に立ちます。」

10,ヨシュアはモーセが言ったとおりにして、アマレクと戦った。モーセとアロンとフルは丘の頂に登った。

11,モーセが手を高く上げているときは、イスラエルが優勢になり、手を下ろすとアマレクが優勢になった。

12,モーセの手が重くなると、彼らは石を取り、それをモーセの足もとに置いた。モーセはその上に腰掛け、アロンとフルは、一人はこちらから、一人はあちらから、モーセの手を支えた。それで彼の両手は日が沈むまで、しっかり上げられていた。

13,ヨシュアは、アマレクとその民を剣の刃で討ち破った。



敵と戦うのは神様です。人には緊急事態に見えても神様にとっては緊急ではありません。手を上げるのは祈ることです。聖書は祈りのしぐさとして手を上げるように何度も書いています。

モーセは言いました。「主の御座の上にある手。主は代々にわたりアマレクと戦われる。」(16節)戦い勝利させてくださるのは神様の手です。僕らの手はその神様に信頼して求める祈りの手です。祈り疲れるモーセをアロンとフルは支え続けました。「モーセが手を高く上げているときは、イスラエルが優勢になり、手を下ろすとアマレクが優勢になった。」(11)とあるように、祈りが戦いの中心でした。


僕らに日々起こるトラブルや問題は祈るために与えられたものです。尊敬する舟喜牧師が言っていました。「本業は祈り。副業が牧師。」


みんなそうです。本業が祈り、仕事は副業です。今日も「祈りのために、心を整え身を慎み」ましょう。(1ペテロ4.7)「怒ったり言い争ったりすることなく、どこででもきよい手を上げて祈るようにしなさい。」(1テモテ2.8)祈るために今日もいろんなことが起こります。祈りは自分の力でも栄光でもないことを認めることです。本来の僕たちに戻っていく行為です。今日も祈り続けましょう。主こそが世界の王であり支配者です。この神様と交わることができるなんて最高です。どんなことが起こっても、神様と一緒なら大丈夫です。ハレルヤ!






2024年4月22日月曜日

出エジプト16.13-21

 出エジプト16.13-21


神様を知らない人は、見えるもので安心しようとします。その中でもお金で安心しようとする人は多いようです。一方聖書は、神様に頼るように繰り返します。イエス様は「私たちの日ごとの糧を、今日もお与えください。」と神様に求めるように教えてくださいました。(マタイ6.11)日ごとの糧とは、今日必要なお金、力、健康、愛、知恵など、必要なもの全てです。イエス様が教えて下さる祈りは必ず聞かれます。必要なものは毎日ちょうどよく与えられます。心配したり貪ったりして「自分のために、地上に宝を蓄えるのはやめなさい。そこでは虫やさびで傷物になり、盗人が壁に穴を開けて盗みます。」とイエス様は言われます。(マタイ6.17)神様がこれからも与えると約束してくださってるのに溜めこもうとするのは、神様への疑いやむさぼりです。そのことの実例としてイスラエル人たちに神様が毎日パンが与えてくださったこと聖書に書かれています



(13節から18節)

13,すると、その夕方、うずらが飛んで来て宿営をおおった。また、朝になると、宿営の周り一面に露が降りた。

14,その一面の露が消えると、見よ、荒野の面には薄く細かいもの、地に降りた霜のような細かいものがあった。

15,イスラエルの子らはこれを見て、「これは何だろう」と言い合った。それが何なのかを知らなかったからであった。モーセは彼らに言った。「これは主があなたがたに食物として下さったパンだ。

16,主が命じられたことはこうだ。『自分の食べる分に応じて、一人当たり一オメルずつ、それを集めよ。自分の天幕にいる人数に応じて、それを取れ。』」

17,そこで、イスラエルの子らはそのとおりにした。ある者はたくさん、ある者は少しだけ集めた。

18,彼らが、何オメルあるかそれを量ってみると、たくさん集めた人にも余ることはなく、少しだけ集めた人にも足りないことはなかった。自分が食べる分に応じて集めたのである。



朝ごとにパンが与えられ、しかもそれはちょうど良い分量でした。ところが心配して明日の分までとっておこうとした人がいたようです。ところがそのパンは消費期限が1日だけで、虫が沸き臭くなりました。



(19節から21節)

19,モーセは彼らに言った。「だれも、それを朝まで残しておいてはならない。」

20,しかし、彼らはモーセの言うことを聞かず、ある者は朝までその一部を残しておいた。すると、それに虫がわき、臭くなった。モーセは彼らに向かって怒った。

21,彼らは朝ごとに、各自が食べる分量を集め、日が高くなると、それは溶けた。



毎日与えらえたパンはイエス様が毎日僕らに与えてくださるいのちや愛や恵みを表しています。神様のことばや聖霊の満たしとも言えます。僕らが生きているのではありません。イエス様が毎日新しくいのちを与えてくださっています。



(ヨハネの福音書 6章33~35節)

神のパンは、天から下って来て、世にいのちを与えるものなのです。」

(…中略…)「わたしがいのちのパンです。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。



毎日ちょうど良く与えられています。イスラエル人たちが毎日集めたように、僕らも与えられる神様のことばや愛や恵みや力の今日の分を集めて、分けあって食べる必要があります。食べるのは僕らの側がすることです。「明日のことまで心配しなくてよいのです。明日のことは明日が心配します。」(マタイ6.34)めぐみは今日の分だけで十分です。今日も求めて、もらって、分あって食べましょう。とっておく必要はありません。毎日ちょうど良く与えられます。ハレルヤ!

2024年4月21日日曜日

出エジプト15章1-21節 与えられる天国の歌  4月21日メッセージ

 聖書箇所 出エジプト15章1-21節 

タイトル 与えられる天国の歌  4月21日メッセージ



●イントロ 賛美は礼拝の中心


賛美の歌はもちろん神様に捧げる歌です。でも、もう一つ大事な面があって、賛美の歌の歌詞は私たちに対するメッセージを伝えます。教会によっては30分ぐらいずっと歌い続けて、最初に4曲とか5曲とか賛美する、そういう礼拝スタイルがあります。みなさん、30分ずっと止まらず次々と歌うスタイルどう思いますか?この質問をすると、すごくいい、感動する、という人と、長すぎる、疲れる、という人に分かれます。


神様を知らない人にとっては、なんでこんなに長く歌うんだろう、意味がわからん、と思うでしょう。自己満足だとか言われるかもしれません。僕も昔はそう思っていました。


聖霊が与えられた人にとっては歌詞の内容ひとつひとつが神様から与えられたメッセージです。歌うほどに、神様が自分に語りかけ、自分も神様に語りかける、神様との親密な交わりです。しかもみんなで同じ歌詞、同じ心で歌えて、一緒に神様と交わることができる、最高の時間です。だから、歌が長いとか全く感じ無くなっていきます。天国にある感動と喜びに参加できるのが、聖霊によって歌う時間です。


神様との霊的な交流が賛美です。賛美の歌は礼拝の中心です。賛美こそ神様との真実な交わりの時間です。


1 モーセの歌は天国と共通する勝利の歌。


今日の歌は、イスラエル人たちが海が分かれて、そこを通って救われたときの賛美です。モーセの歌と言われています。イスラエル人たちが歌った歌です。そしてこれはメッセージです。強烈な、私たちへの励ましのメッセージです


今から3500年前といわれている歌だけどもでも同じ、この歌を与えてくださった神様が今日もこの歌詞を通して、神様が僕にも皆さんにも大事なことを教えてくださってます。


実はこのモーセの歌、天国でも歌われています。

天国の礼拝の様子が一番最後の黙示録に書かれています。そこで天にいる人々が「モーセの歌」を歌っています。今日一緒に読んだモーセの歌は天国の歌でもあります。歌詞が全く同じではないけど、歌っている場所や状況と、そして、伝えている内容は同じです。

その内容の共通点はなんでしょうか?それは、神の怒りが注がれ、自分を苦しめた神様の敵が滅び去ったことです。


(黙示録15章1節から3節)

1,また私は、天にもう一つの大きな驚くべきしるしを見た。七人の御使いが、最後の七つの災害を携えていた。ここに神の憤りは極まるのである。

2,私は、火が混じった、ガラスの海のようなものを見た。獣とその像とその名を示す数字に打ち勝った人々が、神の竪琴を手にしてガラスの海のほとりに立っていた。

3,彼らは神のしもべモーセの歌と子羊の歌を歌った。


「最後の七つの災害を携えていた。ここに神の憤りは極まるのである。」とあります。神の怒りが降り注ぎ、滅ぼされた時の歌です。

歌っている人たちは、どんな人たちでしょうか。「獣とその像とその名を示す数字に打ち勝った人々」です。

獣と言うのは、悪魔が遣わした、この世界の支配者のことです。

この世界を支配し、人々を縛り、虐待し、苦しめてきた人が神様の怒りの裁きによって滅ぼされた時、人々は感動して、この賛美の歌を歌っています。


この状況は出エジプト記15章も同じです。

イスラエル人たちは430年間も苦しめられ搾取され踏みにじられてきました。エジプトが彼らを虐待し殺してきたことは、ここに悪魔の働きがあるからでう。天で歌われているこの歌は私たちを苦しめて支配し、搾取し、やりたい放題私たちを傷つける敵が滅ぼされた時に歌った歌です。共通点は敵である悪魔が神様の怒りにあって滅ぼされて私たちは自由になった。その時の感動の歌です。

歌詞はメッセージです。この3500年前の歌は私たちにも語りかけています。


この歌のメッセージは私たちに希望を与えることです。今、皆さんが長い時間苦しめられていて、縛られていて、もがいてきたことがあるかもしれません。そして、その背後には悪魔の存在があります。そして、僕ら自身の罪もその原因です。しかし、イエス様やがて、悪魔も、そして、罪も滅ぼしてしまいます。僕らはややがて、全てから解放され、感謝と喜びだけに満たされる時がきます。

もうすでに、イエス様は悪に勝利しています。


今はまだ、悪魔は悪あがきをして僕らを苦しめます。でも、イエス様はもう勝利が確定しています。

今の時代は、すでにイエス様が勝利が確定していることと、しかし、いまだに悪魔の活動が一定の範囲で許可され、僕らの中にも罪の影響による苦しみがあります。いまだにあります。


すでに、といまだの間に生きています。英語で、between already and not yet というそうです。


でも、この歌は悪魔も罪も、完全に消し去られることを僕らに教えてくれます。イエス様によって敵は完璧に滅び、僕らは救われ、自由になります。そして、今からそれを期待し、信じて、僕らも賛美を歌います。


苦しめられ続けているのが本来のあなたの姿ではありません。敵は滅びます。

それをもう一度私たちに教えてくれる。それが今日の歌です。


2 神の怒りと裁き


どんな状況でモーセたちが歌っているのか文脈のおさらいです。


(出エジプト記 14章29~30節)

イスラエルの子らは海の真ん中の乾いた地面を歩いて行った。水は彼らのために右も左も壁になっていた。こうして主は、その日、イスラエルをエジプト人の手から救われた。イスラエルは、エジプト人が海辺で死んでいるのを見た。


どこにも救いがないのに救われました。後ろからエジプト軍が追いかけてきます。前は海です。どこにも逃げ場がなかったのに救われました。神様は「あなたを呪うものを私は呪う」とおっしゃっていました。それが実現した日です。

430年も彼らはエジプトから呪われ苦しめられました。王様ファラオはまるで悪魔から遣わされた王のように、全ての男子の赤ちゃんを殺し、虐待し続けました。それでも神様の言葉は実現し彼らは救われました。


この歌、100万人以上のイスラエル人たちが救われて歌った歌ですが、その光景は恐ろしいものです。

目の前には、無数の死体が海辺に打ち上げられています。

海が分かれて、その中に道ができて、彼らは脱出できました。が、その後に追いかけてきて、エジプトの全部隊が海の中の道を通った時に、神様は海の水を戻し、全員溺死しました。

恐ろしい光景です。これは神様の怒りと裁きで殺された人たちをリアルに見ている時の歌です。無数の死体を見ながら、それでも自分達は滅ぼされずに救われたことを恐れを持って歌っています。


そしてその歌詞は何度もそれを歌います。


(1)

そのとき、モーセとイスラエルの子らは、主に向かってこの歌を歌った。彼らはこう言った。「主に向かって私は歌おう。主はご威光を極みまで現され、馬と乗り手を海の中に投げ込まれた。


(4-5)

主はファラオの戦車とその軍勢を海の中に投げ込まれた。選り抜きの補佐官たちは葦の海に沈んだ。

深淵が彼らをおおい、彼らは石のように深みに下った。


(10)

あなたが風を吹かせられると、海は彼らをおおい、彼らは鉛のように、大いなる水の中に沈んだ。


聖書は何度も神様の裁きを繰り返します。


(19)

ファラオの馬が戦車や騎兵とともに海の中に入ったとき、主は海の水を彼らの上に戻された。しかし、イスラエルの子らは海の真ん中で乾いた地面を歩いて行った。


神の怒りと呪いはあります。今もあります。救いとは、神の怒りからの救いです。神の裁きがあるから救いが必要だし、裁きを逃れて救われた私たちは恐れつつ感謝します。


来週、斎藤さんがお話ししてくださる箇所はこちらです。ここでも神様の怒りと裁きがある、と明言しています。


(ガラテヤ6章7-8節)

7思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、刈り取りもすることになります。

8自分の肉に蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊に蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです。


人が自分の肉欲のために行動するなら、必ず神様からの裁きとして、その刈り取りをするようになります。


エジプト人たちはまさに肉欲のためにイスラエルを利用してきました。430年もです。


(15:9)

敵は言った。『追いかけ、追いつき、略奪したものを分けよう。わが欲望を彼らによって満たそう。剣を抜いて、この手で彼らを滅ぼそう。』


欲望を満たすための奴隷です。やりたい放題にできたイスラエルです。その奴隷を手放すことを惜しんで、また捕まえに行きます。イスラエル人には何をしてもよかったようです。欲望の吐口です。「わが欲望を彼らによって満たそう。」彼らのものは何を奪ってもいい。虐待してもいい、レイプしてもいいような相手でした。人間の欲望丸出しの生き地獄のような世界です。

神様は正しく裁きを行います。人間の悪を放置せず、悪魔の言いなりになる人たちを滅ぼし尽くしてしまいます。


今も目を背けたくなるようなことが世界に起こっています。僕らが知っているのはほんの一部で実際には悪魔的なことが横行していると思います。それでも神様は正しくこの世界を裁くと聖書は繰り返します。


(2テサロニケ 1:6-7)

つまり、あなたがたを苦しめる者には、報いとして苦しみを与え、

苦しめられているあなたがたには、私たちとともに、報いとして安息を与えてくださることは、神にとって正しいことなのです。そのことは、主イエスが、炎の中に、力ある御使いたちを従えて天から現われるときに起こります。


やがて注がれる神様の怒りと裁きを表すかのように、モーセたちは目の前で殺されていく無数の人たちを見ました。


(1-2)

そのとき、モーセとイスラエルの子らは、主に向かってこの歌を歌った。彼らはこう言った。「主に向かって私は歌おう。主はご威光を極みまで現され、馬と乗り手を海の中に投げ込まれた。

主は私の力、また、ほめ歌。主は私の救いとなられた。この方こそ、私の神。私はこの方をほめたたえる。私の父の神。この方を私はあがめる。


歌の中で何度も何度も、神様が敵を滅ぼし尽くした、と繰り返します

救いは、ただ神様にだけあります。

僕らのこの世界も神様は悪を一掃することを目の当たりにする日がきます。

人間が欲望丸出しで傷つけ合い、殺しあっています。

でも、それが終わる日がきます。


僕らも神様の裁きを受けて滅ぼされる側だったけども、救われました。

まだ悪魔は滅ぼされていないけど、でも、敵は滅ぼされることが決まっています。ここに希望があります。


今僕らが感謝して歌うのは、それを知って、すでに感謝しているからです。


3 無数の溺死体と十字架上のイエス様


モーセとイスラエルは、神様の怒りを見ました。無数の死体を見て歌いました。神様の怒りがあること、そして、救われたことをはっきりと知って歌いました。


僕らも、歌うときに見上げる姿があります。神様の怒りを受けて呪われて、捨てられている姿があります。神様の怒りが注がれて殺された姿があります。誰だと思いますか?十字架のイエス様です。


イエスキリストの十字架の姿を知り、あの血だらけの姿を見て、神様の怒りはある、と知ります。神様の裁きはあります。そして、その神様の怒りと裁きは、僕らの上ではなく、イエス様の上に注がれ、イエス様が裁きを受け、神の怒りを受け、呪われて滅ぼされた、と知ります。

イエス様の十字架の犠牲によって僕らは救われました。

天国でも、イエス様はほめたたえられています。が、それは栄光の姿でありながら、でもやっぱり屠られたとみなされる子羊の姿です。天国の礼拝者たちは歌います。


(黙示録 5:12)

彼らは大声で言った。「ほふられた小羊は、力と、富と、知恵と、勢いと、誉れと、栄光と、賛美を受けるにふさわしい方です。」


イエス様は天国でも神様の怒りと呪いが注がれ、殺され、傷つき、血を流してくださった羊のようです。

あの死刑によって僕らは救われました。

神様の怒りと裁きは、イエス様に注がれ、僕らは免除されました。


イスラエルは無数の溺死体を見ながら、恐れを持って、神様をほめ讃えました。


(1-2)

そのとき、モーセとイスラエルの子らは、主に向かってこの歌を歌った。彼らはこう言った。「主に向かって私は歌おう。主はご威光を極みまで現され、馬と乗り手を海の中に投げ込まれた。

主は私の力、また、ほめ歌。主は私の救いとなられた。この方こそ、私の神。私はこの方をほめたたえる。私の父の神。この方を私はあがめる。


自分の罪深さを知り、自分が救われる資格は何もないことを知っている人には、神様への感謝と賛美も大きいです。だからイエス様は教えます。貧しい者は幸いです。悲しむ者は幸いです。飢え乾くものは幸いです。

神様への賛美は喜びと共に裁きを行う神様への恐れがあります。


(出エジプト記 15章11節)

主よ、神々のうちに、だれかあなたのような方がいるでしょうか。だれかあなたのように、聖であって輝き、たたえられつつ恐れられ、奇しいわざを行う方がいるでしょうか。


賛美は主の裁きを知ることです。そして、そこからの救いと解放を知ることです。

賛美には救いの喜びがあります。そこには神の怒りがセットであります。神の裁きへの恐れがセットであります。単に楽しい雰囲気を作り上げたり盛り上げることでもなく、イエス・キリストの十字架を見上げることです。そしてそこから救われた私たちへの神の愛と恵みを歌うことです。


◆詩音との面談で教えられたこと


詩音がKBIですごく教えられたことを分かち合ってくれました。


(申命記12章7節)

そこであなたがたは家族の者とともに、あなたがたの神、主の前で食事をし、あなたの神、主が祝福してくださった、あなたがたのすべての手のわざを喜び楽しみなさい。


なぜ苦しみがいまだにあるのに、悲しみがあるのに、神様は私たちに喜び楽しみなさいと求めておられるのだろうか。


普通、私たちがお祝いするのはいつか?何かが完成し、成し遂げられた時。病気が癒やされ、苦しみから解放された時に祝います。今の僕らはいまだに苦しみがありますが、でも、イエス様はすでに十字架の上で「完了した」と言ってくださっています。だから私たちは今から将来の約束を信じて、お祝いし、感謝し喜ぶことが出来ます。詩音はすごく教えられて、モヤモヤがなくなり、すごく嬉しくなった、と言っていました。


イエス様の十字架によって、自分の罪に対する裁きがなくなったということ。罪の問題は自分の力で解決できないけど、イエス様がそれを引き受けて、呪われ、死んでくださったこと。僕はもう無罪とされていること。僕もイエス様を信じた時に、すでに死んだとみなされ、今はイエス様が僕の中に生きている。いまだに苦しみはあるけど、最後には完全に解放され栄光に入ることが確定しているから、だから、神様は今から喜びなさ、楽しみなさい、とおっしゃっている。


祝いなさい。喜びなさい。私たちは既に解放されている。イエス様によって完全に無罪とされ、解放され、勝利する人生が約束されている。だからそれを信じて感謝し喜び祝うのだ、と詩音が喜んでいました。


4 主だけが力、主だけがほめ歌


自分達には誇るものは何もありません。イスラエル人たちは救われるための力もなかったはずです。賛美と感謝の歌を歌えるはずなんてなかったはずです。でも、それら全てが与えられました。だから、主が私の力、またほめ歌です。自分から出た歌ではないし、自分が勝利したのでもありません。


(出エジプト記 15章2節)

主は私の力、また、ほめ歌。主は私の救いとなられた。この方こそ、私の神。私はこの方をほめたたえる。私の父の神。この方を私はあがめる。


自分達の力はなかったはずだし、文句や不安しかありませんでした。ただ、神様が約束通りに解放してくださり、祝福を与えてくださった、それだけです。

彼らの手柄は一つもありません。

神様があなた方は救われる、あなた方は祝福される、と何百年も預言していた通りです。

イスラエルがいい人だったからではなく、ただ、神様が約束した通りになったことです。


賛美が与えられました。賛美は彼らから出たものではなく、神様からの賜物です。賛美は賜物です。神様の力も賜物です。救いも賜物です。


同じように、僕らにも手柄はありません。文句だらけ、不満だらけ、罪だらけの僕らが、ただ、神様の愛とめぐみによって裁かれず、救われ、赦され、神様の子どもとなりました。手柄はありません。


だから、僕らも同じように、歌います。


(出エジプト記 15章2節)

主は私の力、また、ほめ歌。主は私の救いとなられた。この方こそ、私の神。私はこの方をほめたたえる。私の父の神。この方を私はあがめる。


私が作る歌ではないです。私が頑張った救いでもないです。


賛美は私たちから出たものではないし、まして作るものではないです。神様から与えられる賜物です。

賛美は神様から与えられます。三位一体の神様の中には愛と尊敬の交わりがあります。その愛の交わりに入れてもらい、一緒に神様に歌うのが、賛美です。僕らが作り出すのではなく、御霊が歌わせてくださいます。御霊が祈らせてくださいます。「主は私の力、また、ほめ歌。」


歌がうまいかどうか関係ありません。神様の力によって、神様から与えられる聖霊によって歌っているのか、それとも自分の力、自分の頑張りや自分の演奏や歌になってしまっているのか、自分に聞いてみましょう。賛美は神様ご自身との交わりです。賛美を与えてくださるのは聖霊です。聖霊に満たされた時に、どうなるか、聖書は言います。


(エペソ5.18-19)

御霊に満たされなさい。

詩と賛美と霊の歌をもって互いに語り合い、主に向かって心から賛美し、歌いなさい。


大事なのは、自分の力で歌っているのか、それとも聖霊によって神様との交わりに参加さえてもらっているかどうか、です。主が歌わせてくださるその賛美に私はゆだねているかどうかが大事です。

この口も心も、神の栄光をほめたたえる口、神様を賛美する心として用いられます。


●まとめ


神様の怒りと、そこからの救いの歌は、この出エジプトの時代から最後の黙示録に至るまで、天では響いています。天の礼拝での賛美が聖霊によって私たちの賛美となっていきます。天と地が1つになっていくのが礼拝であり賛美です。


もう、イエス様は完全に勝利し、悪魔は滅ぼされ、僕らは救われ、栄光を受けることが決まっています。天では先輩たちがすでに喜んで歌っています。


御霊が天の賛美に合わせて、地上にいる私たちにも賛美をさせてくださいます。天が開かれて僕らにもその栄光を見上げさせてくださいます。主が力、主がほめ歌です。賛美は作るものではなく、主の歌に僕らが心合わせて行くこと。御霊によって参加することです。


天では神様の栄光だけがあります。そして、地上にいる私たちも、神様の栄光だけを褒め讃えます。そうさせてくださるのが聖霊の働きです。今から感謝して歌いましょう。歌うことは礼拝そのものです。ハレルヤ!


ーーー

考えてみましょう

1 賛美が神様との親密な交わりか、退屈な時間か、両者の違いはどこに原因があるのでしょう。

2 苦しみや悲しみがありながら喜び賛美できる理由はなんでしょう。

3 目の前の無数の溺死体と十字架にはどんな関係があるのでしょう。