2024年5月20日月曜日

出エジプト31.12-17

 出エジプト31.12-17


仕事には良い面と悪い面の2つの面があります。それは祝福された喜びの面と、反対に呪われ苦しむ面です。


まず、良い面です。

もともと仕事は神様と一緒に世界のお世話する喜びでした。創世記によると人間が作られた目的は神様に似たものとして、神様と一緒にこの世界を愛しお世話するためです。(創世記1.26-27、2.4-7、15、)

これは今も同じです。すべての仕事は神様と一緒にこの世界を愛し隣人を愛するためのものです。これが仕事の良い面です。


次に悪い面です。

人間が高ぶり堕落し、神様から離れた時から仕事は苦しみになりました。人は糧を得るために汗を流して働くようになり、しかも、思い通りに収穫することができなくなりました。(創世記3.17-19)

これは今も同じです。すべての仕事は汗を流し苦しんで糧を得るためのものです。そこにはトラブルや苦しみがいつもあります。これが仕事の悪い面です。原因は神様を裏切った罪の結果です。


そんな僕らを神様は放っておかず、もう一度回復させてくださいます。神様の願いは苦しみながら仕事することではなく、神様に感謝し、あのエデンの園のように全てが十分に与えられていることを喜んで生きることです。イスラエル人たちは、430年間も奴隷でした。その仕事は呪いと苦しみそのものでした。

神様はそんなイスラエル人たちを奴隷から救い、神様から与えられる乳と蜜の流れる土地を与えると約束してくださいました。(出エジプト3.8)彼らが祝福された土地で仕事することも、その力も種も収穫も全てが神様から与えられたものです。イスラエル人たちがそれを忘れないために、週に1日は必ず仕事を休んで、神様の日を作るように命令されました。それが神様から選ばれ祝福されたことのしるしでした。



(12節から17節)

12,主はモーセに告げられた。

13,「あなたはイスラエルの子らに告げよ。あなたがたは、必ずわたしの安息を守らなければならない。これは、代々にわたり、わたしとあなたがたとの間のしるしである。わたしが主であり、あなたがたを聖別する者であることを、あなたがたが知るためである。

14,あなたがたは、この安息を守らなければならない。これは、あなたがたにとって聖なるものだからである。これを汚す者は必ず殺されなければならない。この安息中に仕事をする者はだれでも、自分の民の間から断ち切られる。

15,六日間は仕事をする。しかし、七日目は主の聖なる全き安息である。安息日に仕事をする者は、だれでも必ず殺されなければならない。

16,イスラエルの子らはこの安息を守り、永遠の契約として、代々にわたり、この安息を守らなければならない。

17,これは永遠に、わたしとイスラエルの子らとの間のしるしである。それは主が六日間で天と地を造り、七日目にやめて、休息したからである。」



このルールを破る人は死刑です。殺人や姦淫や偶像礼拝や横領と同じレベルの厳しい教えです。神様からの恵みと愛を人間はすぐに忘れて自力で生きているように間違うことを防止するためのルールです。神様のために安息日を取り分けることは神様から必要なものは全て与えられることのしるしです。今も僕らの仕事には苦しみが伴いますが、やがてもう一度、あのエデンの園のように、罪のない喜に満ちた世界が来ます。(ヘブル4.9-11)完璧な安息と喜びは用意されています。


旧約聖書に書かれたこの安息日の律法が、新約時代の教会にどのように適応するか諸説あります。週に1日は仕事を休み、集まってイエス様の恵みを喜び確認し感謝する日を過ごすのが主流ではありますが、それでも理解の幅はあります。大事な事は人を縛り付けることではなく自由にすることです。人を縛り付けて殺すのが律法であり、人を生かし自由にするのが御霊だと聖書は言います。



(2コリント3:6)

神は私たちに、新しい契約に仕える者となる資格をくださいました。文字に仕える者ではなく、御霊に仕える者です。文字は殺し、御霊は生かすからです。



(2コリント3:17)

主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があります。



毎日が喜びの日、平安の日、安息の日です。人によって教会によって安息日の理解の違いがあっても、主を愛するために考えているならその差は問題ではないと聖書は言います。



ローマ 14:5-6)

ある日を、他の日に比べて、大事だと考える人もいますが、どの日も同じだと考える人もいます。それぞれ自分の心の中で確信を持ちなさい。日を守る人は、主のために守っています。食べる人は、主のために食べています。なぜなら、神に感謝しているからです。食べない人も、主のために食べないのであって、神に感謝しているのです。



僕らの日常は未だに来ていない神様の国を待ち望む日々です。また同時にもうすでに神様が心の中に来てくださって、僕らに安息と喜びで満たしてくださっています。


イエス様が一緒にいて下さることの平安と喜びこそ僕らが神様の子どもとなったしるしです。(マタイ11.28)「安息日を守らないと殺される!」という律法の恐怖からイエス様は僕らを救い出し、平安と喜びの子としてくださいました。(ガラテヤ4.5-6、ローマ8.14-15)


イエス様が与えて下さるのは平安です。これがしるしです。僕らは仕事の奴隷ではありません。律法の奴隷でもありません。良いもので満たしてくださり、平安と喜びで満たしてくださる神様の子どもになりました。すでに子どもです。でも、未だに完全に実現してはいません。将来を見て、信じて希望と喜びと期待を持ちつつも、苦しみの中にあるのが僕らです。

完璧な安息は用意されています。「信じた私たちは安息にはいるのです。」(ヘブル4.3)今日も希望を持ってイエス様と一緒に過ごしましょう。完璧な安息は用意されています。ハレルヤ!



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