2024年7月11日木曜日

1サムエル20.24-42

 1サムエル20.24-42


他人の苦しみにはかかわらず、自分だけはラクをしたいと思うのが本音です。トラブルのないところで静かにしていたいのです。

ですが、僕らがイエス様につながるなら、イエス様の苦しみにもつながります。イエス様は「人々がわたしを迫害したのであれば、あなたがたも迫害します。」とおっしゃいます。(ヨハネの福音書 15章20節)迫害は嫌ですが、それ以上にイエス様と一緒に忍耐することは喜ばれることです。報いが大きいから喜びなさい、イエス様はとおっしゃいます。



(マタイの福音書 5章10~12節)

義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。

わたしのために人々があなたがたをののしり、迫害し、ありもしないことで悪口を浴びせるとき、あなたがたは幸いです。喜びなさい。大いに喜びなさい。天においてあなたがたの報いは大きいのですから。あなたがたより前にいた預言者たちを、人々は同じように迫害したのです。



ヨナタンはダビデを愛しました。愛することはダビデへの苦しみを共有することでもありました。ダビデを愛し友となったゆえにヨナタンは父サウルから罵られ殺されそうになります。



(30節から34節)

30,サウルはヨナタンに怒りを燃やして言った。「この邪悪な気まぐれ女の息子め。おまえがエッサイの子に肩入れし、自分を辱め、母親の裸の恥をさらしているのを、この私が知らないとでも思っているのか。

31,エッサイの子がこの地上に生きているかぎり、おまえも、おまえの王位も確立されないのだ。今、人を遣わして、あれを私のところに連れて来い。あれは死に値する。」

32,ヨナタンは父サウルに答えて言った。「なぜ、彼は殺されなければならないのですか。何をしたというのですか。」

33,すると、サウルは槍をヨナタンに投げつけて撃ち殺そうとした。それでヨナタンは、父がダビデを殺そうと決心しているのを知った。

34,ヨナタンは怒りに燃えて食卓から立ち上がり、新月祭の二日目には食事をとらなかった。父がダビデを侮辱したので、ダビデのために悲しんだからである。



ダビデの悲しみはヨナタンの悲しみです。彼らは一緒に一緒に泣き苦しみます。そして、これからもどんなときにも連帯することを約束しました。



(41節から42節)

41,子どもが行くと、ダビデは南側から出て来て地にひれ伏し、三度礼をした。二人は口づけし、抱き合って泣いた。ダビデはいっそう激しく泣いた。

42,ヨナタンはダビデに言った。「安心して行ってください。私たち二人は、『主が、私とあなた、また、私の子孫とあなたの子孫との間の永遠の証人です』と言って、主の御名によって誓ったのです。」そして、ダビデは立ち去った。ヨナタンは町へ帰って行った。



僕らはキリストを信じました。それはキリストの苦しみにつながるだけでなく、兄弟姉妹の苦しみにも連帯することを意味します。「一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。」(コリント人への手紙 第一 12章26節)



他人の苦しみには関わりたくないのが本音です。でも、イエス様は真逆です。不敬虔な罪人を愛し、弱い罪人に連帯し、罪人の代表となって苦しみ、十字架で全てを捨ててくださる方です。(ローマ5.8、ピリピ2.6-8)愛するための苦しみは神様に喜ばれることです。今日も損得計算でなく、神様のことばを聞きましょう。「わたしのために人々があなたがたをののしり、迫害し、ありもしないことで悪口を浴びせるとき、あなたがたは幸いです。喜びなさい。大いに喜びなさい。天においてあなたがたの報いは大きいのですから。」迫害されても大丈夫です。むしろ喜ばれています。ハレルヤ!

0 件のコメント:

コメントを投稿