2024年11月26日火曜日

いらない 石原奏


 

 
 いらない 詩曲 石原奏 本当にいい曲!
編曲とトラック制作させてもらえて光栄です。特に昇平のドラムはさすがです。
ミックスもお願いしました。

イザヤ54章

 イザヤ54章


人から責められたり、人との関係が悪くなって孤立したり、家族が壊れたり、僕たちの世界にはそのような恥や屈辱が満ちています。

ところが、そのように傷つき恥を受け孤立しているような人に対して、神様は「喜び歌え」「喜び叫べ」といいます。当時、子どもを産むことができず、夫に捨てられた女性は惨めな立場を強いられました。ところ、そのような女性が神様の妻となり、最高の祝福を受けます。本当の夫は絶対に見捨てることのない永遠の愛に満ちた神様です。



(イザヤ書 54章1節)

"「子を産まない不妊の女よ、喜び歌え。産みの苦しみを知らない女よ、喜び叫べ。夫に捨てられた女の子どもは、夫のある女の子どもよりも多いからだ。──主は言われる──"



神様は続けて何度も、あなたは恥じない、あなたは辱められない、あなたの恥は忘れ去られる、あなたの夫は神だから、と繰り返します。



(イザヤ書 54章4~5節)

"恐れるな。あなたは恥を見ないから。恥じるな。あなたは辱めを受けないから。まことに、あなたは若いときの恥を忘れ、やもめ時代の屈辱を再び思い出すことはない。

なぜなら、あなたの夫はあなたを造った者、その名は万軍の主。あなたの贖い主はイスラエルの聖なる者、全地の神と呼ばれているからだ。"



もちろん、通過点としては苦しみがあります。でもその先には永遠に愛され続け、裁かれることがない平和と喜びが満ちています。それが神様の約束です。



(イザヤ書 54章6~8節)

"主はあなたを、夫に捨てられた、心に悲しみのある女と呼んだが、若いころの妻をどうして見捨てられるだろうか。──あなたの神は仰せられる──

わたしはほんの少しの間、あなたを見捨てたが、大いなるあわれみをもって、あなたを集める。

怒りがあふれて、少しの間、わたしは、顔をあなたから隠したが、永遠の真実の愛をもって、あなたをあわれむ。──あなたを贖う方、主は言われる。"



僕らは欠点だらけです。だから人との関係に苦しみ、孤立します。でも、正しさは神様から来るものであって、僕らの欠点とか長所短所とは関係がありません。

神様に受け入れられ愛される時、人が責め立てるどんな言葉も無意味になります。自分で自分を責めることも無意味です。逆に、僕らを攻撃する人は、神様によって滅ぼされます。神様が僕らの夫だからです。



(イザヤ書 54章17節)

"あなたを攻めるために作られる武器は、どれも役に立たなくなる。また、あなたを責め立てるどんな舌も、さばきのときに、あなたがそれを不義に定める。これが、主のしもべたちの受け継ぐ分、わたしから受ける彼らの義である。──主のことば。」"



「義」は神様からもらうものです。僕らは義とされています。他人がどんなに責めても、自分で自分を責めても、僕らは神様から永遠の愛で愛されています。喜びの子、愛される妻、平和の契約を結んだ民、義とされたものです。それ故、喜び歌い、喜び叫べ、と神様は言われます。僕らは恥を見ることがありません。ハレルヤ!




2024年11月22日金曜日

イザヤ51章

 イザヤ51章


当たり前ですが、僕らは見える状況、聞こえてくる言葉にすごく影響を受けています。他人から攻撃を受ける時、僕らはそれが全てかのように悪影響を受けます。…が、それはごく一部でしかありません。真実は、神様の言葉こそがはるかに影響のある、力のある、そして絶対に実現する言葉です。恐れる時は神様を忘れている時です。神様を思い出すように、神様ご自身が僕らに呼びかけています。



(イザヤ書 51章12~16節)

"「わたし、わたしこそ、あなたがたを慰める者。あなたは何者なのか。死ななければならない人間や、草にも等しい人の子を恐れるとは。

天を延べ広げ、地の基を定め、あなたを造った主を、あなたは忘れ、一日中、絶えず、虐げる者の憤りにおののいている。まるで滅びに定められているかのように。その虐げる者の憤りはどこにあるのか。

うずくまる捕らわれ人もすぐに解き放たれ、死んで穴に下ることはなく、パンにも事欠かない。

わたしはあなたの神、主。海をかき立て、波をとどろかせる。その名は万軍の主。

わたしのことばをあなたの口に置き、この手の陰にあなたをかばい、天を置き、地の基を定め、『あなたはわたしの民だ』とシオンに言う。」"



神様は神様が見せてくれる将来の姿、本当の姿を思うように聖書を通して語りかけてくれています。今は苦しく、荒廃していたとしても、必ず神様によって回復し、楽しみ、喜び歌っている映像です。



(イザヤ書 51章3~4節)

"まことに、主はシオンを慰め、そのすべての廃墟を慰めて、その荒野をエデンのようにし、その砂漠を主の園のようにする。そこには楽しみと喜びがあり、感謝と歌声がある。

わたしの民よ、わたしに心を留めよ。わたしの国民よ、わたしに耳を傾けよ。おしえはわたしのもとから出て、わたしが、わたしのさばきを諸国の民の光と定めるからだ。"



神様は僕たちに「わたしに心を止めよ」「わたしに耳を傾けよ」(4) と呼びかけています。目に見える悲惨な状況、敵の罵りではなくて、です。人に状況におそれおののく必要はありません。くじけないコツは神様が与えくれる将来の映像をいつもみていることです。



(イザヤ書 51章7節)

"義を知る者たちよ、わたしに聞け。心にわたしのおしえを持つ民よ、人のそしりを恐れるな。彼らの、ののしりにくじけるな。"



信仰は望んでいる事柄を保証します。必ずそうなります。神様の言葉は実現します。



(ヘブル人への手紙 11章1節)

"さて、信仰は、望んでいることを保証し、目に見えないものを確信させるものです。"



神様の祝福が来ます。人の言葉は消えていきます。神様の言葉は必ずその通りになります。希望があります。大丈夫です。ハレルヤ!



(イザヤ書 55章11節)

"そのように、わたしの口から出るわたしのことばも、わたしのところに、空しく帰って来ることはない。それは、わたしが望むことを成し遂げ、わたしが言い送ったことを成功させる。"




2024年11月21日木曜日

イザヤ50章

 イザヤ50章


他人から侮辱されたりさばかれたり攻撃されたりすることがあります。その原因は僕らにあったりします。でも、神様は何度も僕らのことを「義」(無罪)だと宣言してくださっています。



(ローマ人への手紙 8章1節)

"こういうわけで、今や、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。"



だから僕らは恐れずに侮辱する人に向き合うことができます。もちろん罪は認めましょう。ご指摘のとおりです。でも、イエス様が十字架でその罪を背負い、神の裁きを受けてくださり、僕らは無罪とされました。だから言い訳したり言い返したり逃げたりする必要はありません。誰がなんと言おうと神様が「義」と宣言してくださっているからです。神様の前では僕らは侮辱されることも恥じることもありません。



(イザヤ書 50章7~8節)

"しかし、神である主は私を助けてくださる。それゆえ、私は侮辱されることがない。それゆえ、私は顔を火打石のようにして自分が恥を見ないことを知っている。

私を義とする方が近くにいてくださる。だれが私と争うのか。さあ、ともに立とう。だれが私をさばく者となるのか。私のところに出て来るがよい。"



火打石は一番固い石のことです。つまり、「顔を火打石のようにして」とは、周りの人が何と言おうと、固く神様のことばに立つことです。神様が無罪宣言をし恥を取り去ってくれた、この福音に固く立ち、ブレないことです。反論も仕返しも逃げも必要もありません。「私を義とする方が近くにいてくださる」からです。(8)神様は僕らに義としてくださる福音をいつも聞かせてくださっています。「神である主は私の耳を開いてくださった。私は逆らわず、うしろに退きもせず、打つ者に背中を任せ、ひげを抜く者に頬を任せ、侮辱されても、唾をかけられても、顔を隠さなかった。」(5-6)

むしろ、僕らを責め、攻撃する人は神様から裁かれてしまいます。神様を敵に回してしまうからです。



(イザヤ書 50章9節)

"見よ。神である主が私を助けてくださる。だれが私を不義に定めるのか。見よ。彼らはみな衣のように古び、シミが彼らを食い尽くす。"



誰よりも「打つ者に背中を任せ、ひげを抜く者に頬を任せ、侮辱されても、唾をかけられても、顔を隠さなかった。」(5-6)のはイエス様です。鞭で打たれ、唾をかけられ、それでも逃げずにその苦しみを受け忍耐されました。これが僕らのお手本です。

今日も僕らを義としてくださるイエス様が一緒にいてくださいます。十字架の苦しみをなし終えてくださったイエス様が一緒です。十字架を見上げましょう。空になったお墓を思い出しましょう。感謝しましょう。義と宣言されています。大丈夫です。それでも苦しめられるなら喜びましょう。イエス様に繋がっている証拠です。ハレルヤ!



(ペテロの手紙 第一 4章13~14節)

"むしろ、キリストの苦難にあずかればあずかるほど、いっそう喜びなさい。キリストの栄光が現れるときにも、歓喜にあふれて喜ぶためです。

もしキリストの名のためにののしられるなら、あなたがたは幸いです。栄光の御霊、すなわち神の御霊が、あなたがたの上にとどまってくださるからです。"





2024年11月20日水曜日

イザヤ49章

 イザヤ49章


闇の先には光があります。破壊の先には再建があります。飢餓の先にはには満足があります。

なんでそんなことが言えるのか?それは神様がハッキリとそう約束してくれているからです。

問題は僕らが神様のことばを信じるかどうかです。「わたしを待ち望む者は恥を見ることがない。」(イザヤ書49章23節)「この方に信頼する者は、だれも失望させられることがない。」(ローマ10章11節)神様のことばは単なる教えではなく、事実だし出来事となることばです。


僕らは悪い想像は得意なようです。若いカップルが幸せな将来をイメージするように、神様との素晴らしい未来をイメージすることはすごく大切です。それは現実となる真理のことばだからです。この当時のイスラエルは、神様に背き懲らしめを受け崩壊していく時代でした。周りを見るなら悲惨だし、どこにも希望がないように見えます。それでも、神様は彼らを見捨ててはいません。

イスラエルは確かに神様に背き、崩壊し捕囚とされていきます。でも、神様は回復を約束し、将来の映像を具体的に見せてくれています。



(イザヤ書 49章15~20節)

「女が自分の乳飲み子を忘れるだろうか。自分の胎の子をあわれまないだろうか。たとえ女たちが忘れても、このわたしは、あなたを忘れない。

見よ、わたしは手のひらにあなたを刻んだ。あなたの城壁は、いつもわたしの前にある。

あなたの子どもたちは急いでやって来る。あなたを破壊し、廃墟とした者たちは、あなたのところから出て行く。

目を上げて、あたりを見回せ。彼らはみな集まって、あなたのところに来る。わたしは生きている──主のことば──。あなたは必ず、彼らをみな飾り物として身に着け、花嫁のように彼らを帯に結ぶ。

あなたの廃墟と荒れ跡と滅びた地は、今に、住むには狭すぎるようになり、あなたを吞み込んだ者たちは遠くへ離れ去る。

あなたが子を失った後に生まれた子らが、再びあなたの耳に言う。『この場所は私には狭すぎる。私が住めるように場所を広くしてください』と。



人は現状だけを見ますが、神様は完成された世界を見ておられれます。エルサレムの城壁は壊されますが、神様は「あなたの城壁は、いつもわたしの前にある。」とおっしゃいます。

回復は100%神様の力です。人間にはありえないことです。回復した時、誰がこんなに人を増やし、育ててくれたのかと言います。答えは100%神様です。



(イザヤ書 49章21~23節)

そのとき、あなたは心の中で言うだろう。『だれが私に、この者たちを産んでくれたのだろう。私は子に死なれた女、子を産めない女、捕囚のさすらい人であったのに。だれがこの者たちを育てたのだろう。私は、ただひとり残されていたのに、この者たちはどこから来たのだろう。』」

神である主はこう言われる。「見よ。わたしは国々に向かって手を上げ、わたしの旗を諸国の民に向かって揚げる。彼らは、あなたの息子たちを懐に抱いて来る。あなたの娘たちは肩に担がれて来る。

王たちはあなたの世話をする者となり、王妃たちはあなたの乳母となる。彼らは顔を地に付けて、あなたを伏し拝み、あなたの足のちりをなめる。あなたは、わたしが主であることを知る。わたしを待ち望む者は恥を見ることがない。」



だれも奪われたものを取り戻すことができないし、囚われた人を救い出すことができません。でも神様は完全にそれをなさいます。そして神様の敵は滅びます。



(イザヤ書 49章24~25節)

"奪われた物を勇士から取り戻せるだろうか。捕らわれ人を横暴な者から救い出せるだろうか。

まことに、主はこう言われる。「捕らわれ人は勇士から取り戻され、奪われた物も横暴な者から奪い返される。あなたが争う者と、このわたしが争い、あなたの子らを、このわたしが救う。"



忍耐はやせガマンではなく、神様との将来像をイメージして希望を持つことです。神様の言葉にとどまる人は、希望にとどまる人です。その人は病気も災いも地球の終わりも恐れません。

その人はまるで神様の翼の下に住んでいるようです。神様の真実なことばが盾であり砦です。世界が滅び苦しんでいく時の安全な隠れ家のようだと聖書は言います。



(詩篇 91篇1~9節)

いと高き方の隠れ場に住む者その人は全能者の陰に宿る。

私は主に申し上げよう。「私の避け所私の砦私が信頼する私の神」と。

主こそ狩人の罠から破滅をもたらす疫病からあなたを救い出される。

主はご自分の羽であなたをおおいあなたはその翼の下に身を避ける。主の真実は大盾また砦。

あなたは恐れない。夜襲の恐怖も昼に飛び来る矢も。

暗闇に忍び寄る疫病も真昼に荒らす滅びをも。

千人があなたの傍らに万人があなたの右に倒れてもそれはあなたには近づかない。

あなたはただそれを目にし悪者への報いを見るだけである。

それはわが避け所主をいと高き方をあなたが自分の住まいとしたからである。



神様が回復させてくださる世界をイメージすることは信仰です。多くの人々が喜び歌っています。僕らは今からそれを喜び、期待し、感謝し、賛美する者たちです。



(9-13節)

わたしは捕らわれ人には『出よ』と言い、闇の中にいる者には『姿を現せ』と言う。彼らは道すがら羊を飼い、裸の丘のいたるところが彼らの牧場となる。

彼らは飢えず、渇かず、炎熱も太陽も彼らを打たない。彼らをあわれむ者が彼らを導き、湧き出る水のほとりに連れて行くからだ。

わたしは、わたしの山々をすべて道とし、わたしの大路を高くする。

見よ。ある者は遠くから来る。見よ。ある者は北から西から、また、ある者はシニムの地から来る。」

天よ、喜びの声をあげよ。地よ、小躍りせよ。山々よ、歓喜の声をあげよ。主がご自分の民を慰め、その苦しむ者をあわれまれるからだ。



闇の先には光があります。破壊の先には再建があります。飢餓の先にはには満足があります。それは神様がハッキリと約束してくれているからです。ハレルヤ!

イザヤ48.17-18

 イザヤ48.17-18


神様は僕らを平安と喜びで満たしたいと願っています。神様に従うことは神様の心と一つになることです。神様に従うことは、苦しんだり失ったりすることではなく、逆に神様から無限にあふれ出る平安や喜びで満たされることです。



(イザヤ48章17-18節)

わたしはあなたの神、主である。わたしはあなたに益になることを教え、あなたの歩むべき道にあなたを導く。

あなたがわたしの命令に耳を傾けてさえいれば、あなたの平安は川のように、正義は海の波のようになったであろうに。


ある人は「疲れを取る方法は、他人を助けたり励ましたりすることだ」と言いました。他人への励ましは、実は神様の働きです。僕らが他人を愛し励ますことは神様からの愛や励ましを自分を通過して他人に与え流すことです。だから自分も神様からの愛や平安で満たされます。


神様の命令に従うことは神様を愛し、隣人を愛することです。それは僕らから出たものではなく、神様と一つになることです。僕らはイエス様の枝であり、体の器官です。

困っている人に親切にした時、誰かを助けるためにお金を使った時、僕らは喪失感よりも喜びや平安がきます。イエス様は「受けるより与える方が幸いです」とおっしゃいました。それは神様からの愛と平安がその時に流れ出るからです。神様には無限に平安や喜びがあります。イエス様も同じように言われています。イエス様の命令に従うことは、イエス様の喜びが僕らの中に流れあふれるようになるためです。



(ヨハネの福音書15章11-13節)

わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたが喜びで満ちあふれるようになるために、わたしはこれらのことをあなたがたに話しました。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。人が自分の友のためにいのちを捨てること、これよりも大きな愛はだれも持っていません。



「命令」は単にルールに従うことでなく、神様との愛の関係を深める行動です。イエス様の愛は僕らを通して流れ出ます。僕らの中にイエス様の御霊はもう住んでいます。御霊は愛と喜びと平安で満ちています。「御霊の実は、愛、喜び、平安…」とあります。(ガラテヤ5.23)「愛、喜び、平安」は神様の思いが僕らの心の内側に湧き上がるものです。だから神様は言われます。「あなたがわたしの命令に耳を傾けてさえいれば、あなたの平安は川のように、正義は海の波のようになったであろうに。」


今日も耳を傾け、従い、実行しましょう。平安が川のようにあふれ、愛と喜びがあふれます。ハレルヤ!





2024年11月19日火曜日

イザヤ45.20-25 メッセージ 「わたしを仰ぎ見て救われよ」

 イザヤ45.20-25 メッセージ 「わたしを仰ぎ見て救われよ」

クリスチャンになって信じた時は「イエス様ありがとう!私の罪は赦された!」と思うけど、クリスチャンが長くなるとイエス様以外のことを考えはじめたりします。私はもっとこうでなければ、とか、私は頑張ってるのにあの人はどうだ、とか、この教会はどうだ、あの牧師はどうだ、などです。もちろん人間なので問題でモヤモヤすることはあります。でもその解決や救いをイエス様以外に求めるならそれは愚かだ、イエス様以外には救いはない、と聖書は言います。


(ガラテヤ 3:1)

ああ愚かなガラテヤ人。十字架につけられたイエス・キリストが、あなたがたの目の前に、あんなにはっきり示されたのに、だれがあなたがたを迷わせたのですか。


今日のメッセージは基本に戻してくれる、そして神様の願いを私たちの願いとし、神様のビジョンを私たちのビジョンとするようなメッセージです。


⚫︎他に神はいない


神様でなく、周りを見ると恐れ、怒り、不安になります。自分を見ればがっかりします。


イスラエルは国としてそのような状態でした。神様を知りつつも、不安になると他にもっと自分たちを救ってくれるものを求めました。他に神はいないし他の神を作っても拝んではいけないことは知って今井sた。それは偶像です。でも、周りの国は、偶像で繁栄している気がします。軍事力で勝利している気がします。それでイスラエルも真似をして木や金や銀で作った神様を作り、拝み、他国の軍隊を求め、本当の神様を裏切ることになりました。その結果は悲惨です。イスラエルは外国に侵略され、バビロンに捕えられ、国を失います。


70年間苦しみ、その苦しみの中で自分たちが神様を裏切り偶像を求めてきたことがどんなに愚かなことだったかを学びます。70年もかかる苦しいレッスンを受けました。

そして70年後、もう一度神様はこの場所に返してくださいます。そのことを神様があらかじめ預言してくださった言葉です。


(イザヤ書 45章20~21節)

"諸国からの逃亡者たちよ。集まって来て、ともに近づけ。彼らは自分たちの木の偶像を担ぐ者、救えもしない神に祈る者たちで、知識がない。

告げよ。証拠を出せ。ともに相談せよ。だれが、これを昔から聞かせ、以前からこれを告げたのか。わたし、主ではなかったか。わたしのほかに神はいない。正しい神、救い主、わたしをおいて、ほかにはいない。"


僕らも人ごとではありません。神様を忘れてさまようことがあります。何かで幸せになりたい、満たされたいと探したりします。御霊に満たされることよりも人に頼ったり、自分の知恵や力に頼ったり、お金に頼ったり、楽しいイベントを求めたり、よくあることです。


神様が与えてくださったものはみんな良いものです。食べることも、楽しむことも、音楽もお金も仕事もあの人もこの人も、あの方法、この方法も、みんな神様が与えてくださったものです。感謝して楽しむことは100パーセントいいことです。…が、いつの間にかそれが神様より重要になって、まるで自分を救う偶像のようにそれを拝み、頼ろうとします。


大学生の時までずっと虚しかったです。何をしても虚しかった。心に穴が空いている感じがしました。何を聞いても、何をみても意味がなく色褪せて見えました。本当に自分を満たすものはなんだろう、と思っていました。絵にするとこんな感じです。




今日の箇所は神様以外に神はない他にはないとことを強調しています。


(21-22)

わたしのほかに神はいない。正しい神、救い主、わたしをおいて、ほかにはいない。"

地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ。わたしが神だ。ほかにはいない。"


自分たちが作ったもので救われようとする人は恥を受けます。満足に見えても、救いに見えても一時的です。最後には辱めを受け、偶像と一緒に消え去ります。この世の楽しみや強やも一時的に神様が与えてくださった良いものですが、それが永遠の救いをもたらすのものではありません。


(16-17)

偶像を細工する者どもはみな恥を見、辱めを受ける。彼らはともに、辱めのうちに去る。

イスラエルは主によって救われ、永遠の救いに入れられる。あなたがたは恥を見ることも辱めを受けることもない。永遠に至るまで。


偶像を作り、偶像に頼る人はそれが消えていく時に一緒に消えてしまいます。

これはイスラエルだけでなく、全ての人間に言われていることです。


🙆‍♀️イエス様を見上げて救われよ


(イザヤ書 45章22節)

"地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ。わたしが神だ。ほかにはいない。"


新約聖書はこの箇所を解説して、この神様こそイエスキリストだと言います。(ピリピ2章)

みことばは、「わたしを仰ぎ見よ」と言います。大事なことはいつも十字架のイエス様を見上げることです。いつもです。クリスチャンになったら今度は自分の信仰生活にに注目して落胆したり高ぶったりすることがあります。


「ああ、私は十分に悔い改めていない」と言います。それは自分を見ています。「私は十分に信じていない」と言います。それも自分を見ています。見えるものは自分や周りの欠点や問題ばかりで、それをいくら並べても問題点を分析しても救いがありません。そこに平安を見いだすことはできません。イエス・キリストは、『わたしを見よ』と言われます。今すべきことはキリストを、あの血だらけになって赦してくださったイエス様を見ることです。「わたしを仰ぎ見て救われよ」と書いてあります。


イエス様だけがあなたの罪を赦し、あなたが出来なかった正しいことを、すべきことを全部成し遂げてくださいました。正しい方はイエス様だけです。そして、僕らに赦しと、新しい力と、完全な正しさを与えきよさを与えてくださるのイエス様だけです。このイエス様を見上げ、信じる人は、イエス様と繋がり、イエス様と同じように正しいと宣言され、完全な赦しをいただき、復活したイエス様と一緒に永遠に生きます。イエス様のものは僕らのものです。イエス様と僕らは繋がっています。


誰もが自分に目を向けたがり、他に目を向けたがります。それで高ぶったり落ち込んだりします。十字架を見なさい、血にまみれてあなたを赦し、きよめてくれたイエスを見なさい、です。今、生きていて全ての権威を持っているイエス様を見なさい、です。回復を与えてくれるイエス様を見なさい、です。

自分を見ている限り、そこには希望がありません。周りを見ている限り、そこにも希望はありません。自分がどんな者かを考えることではなく、神がどんな者でありるか考えることです。周りのことを考えることでなく、イエス様がどんな者であるかを考えることです。視点を自分からイエスに変えること、それが必要です。


溺れている人が、見るべきは助けに来てくれる人です。溺れている自分を見ても救いはありません。僕らはイエス様を見上げます。溺れている自分を見ても、他に溺れている人を見ても救いになりません。僕らは自分で自分を救うことも癒すこともできません。溺れている人は溺れている人を救うことはできません。



聖書の教えはたくさんありますが、それを聞いた時に、僕には出来ない、神様の教えには程遠い、と感じます。それは健全です。


(ガラテヤ 3:24)

こうして、律法は私たちをキリストへ導くための私たちの養育係となりました。


(ローマ 5:20)

罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました。


罪悪感を感じたときに、イエス様を見上げます。敗北感を感じた時に、イエス様を見上げます。イエス様は十字架の上で、友よ、あなたの罪は赦された、と宣言してくださっています。100個罪のある人は100赦されます。1000個罪を犯した人は1000個許されます。罪が増し加わるなら、恵みも増えていきます。


救いはイエス様を見上げ信じた時にスタートします。しかも、それで一丁上がりではありません。一生かけて救いは完成していきます。自分の罪と神の聖さについての理解が深まると、他にも深まるものがあります。それは、自分の惨めさです。その時に見上げるべきはイエス様の十字架です。そして、僕らはイエスさまによる完全な赦しときよめ、愛を感謝します。復活のイエス様がわたしはあなたと一緒にいる、恐れるな、とおっしゃいます。罪が多ければ多いほど、失敗と傷が多いほど、イエス様を見上げ、イエス様に赦され、イエス様に憐れみを求める機会が多くなります。救いは生涯かけて達成します。聖書は「救いを達成してください」と言います。(ピリピ2.12)



(出典 キリスト聖書神学校「福音中心の生活」)

罪の自覚は一生続きます。それは、神様の聖さに目を開かれ、知っていくからです。神様の聖さは大きさは無限です。それを一生かけて知って行きます。すると、自分がいかに罪深く、ふさわしくないか、も一生かけて知ってきます。


(イザヤ書 45章22節)

"地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ。わたしが神だ。ほかにはいない。"


※悪い例。


神様のきよさ、義を知るほどに、僕らは背伸びをしたり誤魔化したり、十字架のイエス様を見上げること以外で救われようとすることもあります。



神様の義やきよさに到達するために、自分の行いによる義を求め、十字架を小さくすることがあります。


私はよく働くから… 私は親としてよくやっているから‥ 私の神学は良いから… 私は多才で明瞭に話すことができるから…私は貧しい人や恵まれない人をきちんと気にかけているから…お金を賢く管理しているから…自分とは意見が違う人にも心を開いているから… などは自分の行いによる義です。


もちろん、働くことも、親の役目を果たすことも、神学を学ぶことも、貧しい人を気にかけることも良いことです。それは自分から出たのでなく神様が与えてくださっている良いものです。最初から最後まで神様の恵みです。


今、生きておられるイエスを見上げることがないといつも自分の正しさ、自分の義、自分の力に注目してしまい自分の良さで救われようとします。聖書は言います。正義と力はただ主にあります。


24,わたしについて、『ただ主にだけ、正義と力がある』と言う。

25,イスラエルの子孫はみな主によって義とされ、主を誇りとする。」


誇り、頼り、感謝すべきはイエス様だけです。十字架で死に、復活して今一緒にいてくださる、聖霊によって新しい心を与え続けてくださっているイエス様を見上げて救われよ。です。


(イザヤ書 45章22節)

"地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ。わたしが神だ。ほかにはいない。"


CBIに見学に行ったら、CBIで出版している本をいただきました。無料で配布しているそうです。本当に良い本でした。CBIの物販サイトに行ったら無料で購入できます。自宅に届きます。

その中にイエス様によって子供とされた人と、イエス様に頼らず自分で生きていく孤児の特徴のチェックリストがありました。

神様の言葉はイエス様によって受け入れられ、イエス様の十字架に頼る人。

そうでない人は自分の頑張りで生きる孤児。

イエス様を見上げず、イエス様の十字架を忘れている人の福音を見上げない人の特徴のリストがありました。


当てはまるかどうか、チェックを入れてみてください。

ーーーーーーー

よく見られたい。

よく見られなければならないと思います。

いつも不安です。

いつも罪悪感があります。

問題は自分で解決しなければならないと思います。

失敗や弱さを指摘されると、守りの姿勢になり時に攻撃的になります。

自分が正しくなければと思います

自信がありません

自分のやり方、考え、意見にこだわります

他の人の弱点や欠点を分析するのが得意です

地位に満足を見出そうとします

所有物に満足を見出そうとします

ーーーーーーーー

聖書は、十字架以外で救われようとする人のことを愚かな人(馬鹿な人)と言います。自分の力できよさや救いを達成しようとする人も馬鹿な人だと表現します。


(ガラテヤ人への手紙3章)

1ああ、愚かなガラテヤ人。十字架につけられたイエス・キリストが、目の前に描き出されたというのに、だれがあなたがたを惑わしたのですか。(…中略…)

3あなたがたはそんなにも愚かなのですか。御霊によって始まったあなたがたが、今、肉によって完成されるというのですか。


イエス様を見上げて救われるとは。


1神様の教えを守れない自分の愚かさを認識すること。

2イエス様だけが完全であり、正しい方であり、神様に完全に従った方であることを見上げること。

3そのイエス様と繋がり、ゆるされ、きよめられ、変えられ途中であることを信じること。


(21-22)

21,告げよ。証拠を出せ。ともに相談せよ。だれが、これを昔から聞かせ、以前からこれを告げたのか。わたし、主ではなかったか。わたしのほかに神はいない。正しい神、救い主、わたしをおいて、ほかにはいない。

22,地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ。わたしが神だ。ほかにはいない。


他に救いはありません。


(使徒 4:12)

この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです。」


🙆‍♀️全ての人を招いている主。


(22)

地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ。わたしが神だ。ほかにはいない。"


地の果ての全ての者に言われています。

神はすべての人を救いたいと願っています。そして、この福音を、この救いを全ての人に伝えなさい、と言われます。



(マルコ 16:15)

それから、イエスは彼らにこう言われた。「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。


今や、この喜ばしい救いの知らせを世界中に広める使命は教会に委ねられています。どんな人でも、このイエス様の十字架によって救われます。こないだ行った世界宣教の学びで、ようやく初めて神様のビジョンがわかった気がしました。


聖書が最初から最後まで伝えている神様の壮大なビジョンはすべての人が膝をかがめ、イエスキリストは主です、と言ってイエス様をほめたたえることです。

信じる人も信じない人も、やがてイエス様がこられたときには、膝をかがめて、ある人たちはものすごく後悔し、ある人は喜んで感謝して膝をかがめる日がきます。


しかも、イエス様は滅ぼすために来たのではなく救うために来た、とおっしゃっています。神様の願いはすべての人がこのこの真理を知って救われることです。イエス様の十字架によってどんな人でも赦され、受け入れられることです。この福音を地の果てまでも伝えなさい、というのが神様の願いです。


(イザヤ書 45章22節)

"地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ。わたしが神だ。ほかにはいない。"


宣教師の90%以上が既に伝道されている民族の中で働いているそうです。そして全く伝道されていないところに行って伝えている人は10%以下だそうです。


既に知らされているところにたくさんの力が注がれていて、そして伝わっていないところには力が向いていない、というアンバランスが指摘されていました。


(22)

地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ。わたしが神だ。ほかにはいない。"


神様の願いは地の果ての全ての人の救いです。そして、地の果てにまで伝えるのはイエス様につながる僕ら教会の役目です。


世界はどんどん変わって、世界中に人々が移住する時代だそうです。日本にもたくさんの移住者が現れて、そしてうちの町内にもたくさんの外国人労働者がいます。伝道することが許されないイスラムの国とか、そういう人たちが日本に移住しています。移住者と言うのは、自分たちの居場所を手放しながら動く人たちなので、いつも新しい人間関係、そして新しい文化に対して心を開いている人たちだそうです。だから日本に来ている移住者たちはオープンで、外国に宣教に行かなくても、もう、玄関先まで伝えるべき人たちが来ている時代です。


(イザヤ書 45章22節)

"地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ。わたしが神だ。ほかにはいない。"


地の果てに僕らが行かなくても、地の果ての人たちがウチの周りに、玄関先に来ている時代です。祈って伝える必要があります。僕らの力ではないです。最初から最後までイエス様の力、イエス様の恵み、イエス様の愛です。イエス様の愛と力は聖霊によって与えられています。


(使徒 1:8)

しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」


イエス様がこれを言われた時、イザヤ45章をイメージしていたのかな、って思います。

イエス様を見上げましょう。これからも戦いはあります。がっかりすることもたくさんあります。でも、イエス様を見上げましょう。十字架を見上げましょう。最初から最後まで見上げるべきは自分ではなくイエス様です。宣教するのも伝えるのもイエス様の力と愛と恵みです。


イエス様を伝えましょう。全ての人が救われることは神様の願いです。


(22節)

地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ。わたしが神だ。ほかにはいない。"