2024年11月29日金曜日

イザヤ57.15-21

 イザヤ57.15-21


僕らは自分の失敗や欠点でがっかりさせられ、人との関係が壊れ、神様の祝福を失い、不幸に見舞われます。ところがその苦しい経験には役目もあって、それによって僕らの神様に対する傲慢さが明らかにされます。あえて罪を犯す必要はないけど、それでも、自分の罪ゆえに失敗し落胆する人は幸いです。神様が砕かれた人を憐れみ、恵み、生かし、回復させてくださるからです。



(15節から16節)

いと高くあがめられ、永遠の住まいに住み、その名が聖である方が、こう仰せられる。「わたしは、高く聖なる所に住み、砕かれた人、へりくだった人とともに住む。へりくだった人たちの霊を生かし、砕かれた人たちの心を生かすためである。

わたしは、永遠に争うことはなく、いつまでも怒ってはいない。



罪を悲しむ人は幸いです。心貧しい人は幸いです。神様の癒しと回復はその人たちのものだからです。(マタイ5.3)



(18節から19節)

彼の道を見たが、それでもわたしは彼を癒やす。わたしは彼を導いて、彼とその嘆き悲しむ者たちに、慰めを報いる。

わたしは唇の実を創造する者。平安あれ。遠くの者にも近くの者にも平安あれ。わたしは彼を癒やす。──主は言われる──



僕らは自分の罪を知り悲しむからこそ、神様の癒しと回復を体験します。欠点を知るからこそ、人間の評価とは関係のない神様の愛と憐れみを知ります。高慢で神様に対して唾を吐きかけるような者たちなのに、それでもなお神様は見放すことなく癒してくださいます。

もちろん神様の怒りはあります。神様からの試練もあります。でも、その体験を通らないと僕らは自分を知り、砕かれ、神様の恵みを体験することもありません。試練は嫌だけど、感謝しましょう。悲しむ時、失敗した時、罪を犯した時、もう一度神様の愛と恵みを知る時です。悲しむ人は幸いです。希望はあります。罪と苦しみを通った人だけが「神様だけ」「十字架の恵みだけ」に頼り感謝し賛美する人に変えられます。罪と苦しみは賛美と感謝に向かう通過点のようです。「わたしは唇の実を創造する者。平安あれ。」(19)の「唇の実」とは賛美です。聖書は言います。(ヘブル13.15)「私たちはイエスを通して、賛美のいけにえ、御名をたたえる唇の果実を、絶えず神にささげようではありませんか。」ハレルヤ!



2024年11月27日水曜日

イザヤ56章

 イザヤ56章

イザヤ55章

 イザヤ55章


僕らの願いや計画と、神様の願いと計画は天地ほど違います。

だから、僕らの思い通りにならない方が絶対にいいし、正しいし、良いし、優れています。しかも、それは僕らに祝福をもたらすものだからです。



(イザヤ書 55章8~9節)

「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、あなたがたの道は、わたしの道と異なるからだ。──主のことば──

天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。



イエス様は「こう祈りなさい」と教えてくれました。それは「みこころが天で行われるように、地でも行われますように。」です。(マタイ6.10)僕らの計画でなく神様の計画がなりますように、僕の思いでなく神様の思いがなりますように、です。僕らの計画通りならない方が絶対にいいです。神様のご計画の方がはるかに高く良いものです。

ところが、僕らはない知恵を絞って、思い通りになるようにしよう、自分を満足させよう、幸せにしようとがんばります。その計画がうまくいったとしても、それはほんのつかの間です。水を飲んでもまた渇くように、お金が入ってもすぐに出ていくように、それは虚しい繰り返しです。だから、神様はそんな虚しいことに力や知恵を費やすのではなく、「わたしによく聞き従い、良いものを食べよ。」といいます。本当の満足は神様のことばをよく聞いて従うことです。「そうすれば、あなたがたは脂肪で元気づく。」「そうすれば、あなたがたは生きる。」からです。(3)



(イザヤ書 55章1~3節)

「ああ、渇いている者はみな、水を求めて出て来るがよい。金のない者も。さあ、穀物を買って食べよ。さあ、金を払わないで、穀物を買え。代価を払わないで、ぶどう酒と乳を。

なぜ、あなたがたは、食糧にもならないもののために金を払い、腹を満たさないもののために労するのか。わたしによく聞き従い、良いものを食べよ。そうすれば、あなたがたは脂肪で元気づく。

耳を傾け、わたしのところに出て来い。聞け。そうすれば、あなたがたは生きる。



イエス様は「何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようかと言って、心配しなくてよいのです。」とおっしゃいます。(マタイ6.31)心配してあれこれ考えるのは神様の圧倒的な祝福と幸せを知らない人のやり方です。神様の祝福を信じて聞き、従う世界があります。必要は全て与えられるとイエス様は断言されます。



(マタイの福音書 6章31~33節)

まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。



僕らの想像を遥かに超えているのが神様の国です。神様はことばによって世界を作り、僕らを作り、今も「その力あるみことばによって万物を保っておられます。」(ヘブル1.3)食べ物も大事だけど、僕らはそれだけで生きているのではなくて、神様のことばによって生きています。(マタイ4.4)


神様のことばは、必ずこの世界を祝福します。

だから僕らは、自分を捨ててイエス様に聞き従います。それが、命と祝福をもたらすものだと信じるからです。



(イザヤ書 55章10~13節)

雨や雪は、天から降って、もとに戻らず、地を潤して物を生えさせ、芽を出させて、種蒔く人に種を与え、食べる人にパンを与える。

そのように、わたしの口から出るわたしのことばも、わたしのところに、空しく帰って来ることはない。それは、わたしが望むことを成し遂げ、わたしが言い送ったことを成功させる。

まことに、あなたがたは喜びをもって出て行き、平安のうちに導かれて行く。山と丘は、あなたがたの前で喜びの歌声をあげ、野の木々もみな、手を打ち鳴らす。

茨の代わりに、もみの木が生え、おどろの代わりにミルトスが生える。これは主の記念となり、絶えることのない永遠のしるしとなる。」"



今日も僕らの思いや願いを神様に手放しちゃいましょう。むしろ、僕らの思い通りにならない方がはるかに良いことです。なぜなら神様の思いははるかに高く良いものだからです。神様は僕らをいじめようとか苦しめようとか少しも思っていません。そこには自由と喜びが満ちています。今日、もう一度自分の計画や計算を手放す祈りをしましょう。自分を明渡し献身しましょう。主ははるかに良いご計画をお持ちです。ハレルヤ!




2024年11月26日火曜日

いらない 石原奏


 

 
 いらない 詩曲 石原奏 本当にいい曲!
編曲とトラック制作させてもらえて光栄です。特に昇平のドラムはさすがです。
ミックスもお願いしました。

イザヤ54章

 イザヤ54章


人から責められたり、人との関係が悪くなって孤立したり、家族が壊れたり、僕たちの世界にはそのような恥や屈辱が満ちています。

ところが、そのように傷つき恥を受け孤立しているような人に対して、神様は「喜び歌え」「喜び叫べ」といいます。当時、子どもを産むことができず、夫に捨てられた女性は惨めな立場を強いられました。ところ、そのような女性が神様の妻となり、最高の祝福を受けます。本当の夫は絶対に見捨てることのない永遠の愛に満ちた神様です。



(イザヤ書 54章1節)

"「子を産まない不妊の女よ、喜び歌え。産みの苦しみを知らない女よ、喜び叫べ。夫に捨てられた女の子どもは、夫のある女の子どもよりも多いからだ。──主は言われる──"



神様は続けて何度も、あなたは恥じない、あなたは辱められない、あなたの恥は忘れ去られる、あなたの夫は神だから、と繰り返します。



(イザヤ書 54章4~5節)

"恐れるな。あなたは恥を見ないから。恥じるな。あなたは辱めを受けないから。まことに、あなたは若いときの恥を忘れ、やもめ時代の屈辱を再び思い出すことはない。

なぜなら、あなたの夫はあなたを造った者、その名は万軍の主。あなたの贖い主はイスラエルの聖なる者、全地の神と呼ばれているからだ。"



もちろん、通過点としては苦しみがあります。でもその先には永遠に愛され続け、裁かれることがない平和と喜びが満ちています。それが神様の約束です。



(イザヤ書 54章6~8節)

"主はあなたを、夫に捨てられた、心に悲しみのある女と呼んだが、若いころの妻をどうして見捨てられるだろうか。──あなたの神は仰せられる──

わたしはほんの少しの間、あなたを見捨てたが、大いなるあわれみをもって、あなたを集める。

怒りがあふれて、少しの間、わたしは、顔をあなたから隠したが、永遠の真実の愛をもって、あなたをあわれむ。──あなたを贖う方、主は言われる。"



僕らは欠点だらけです。だから人との関係に苦しみ、孤立します。でも、正しさは神様から来るものであって、僕らの欠点とか長所短所とは関係がありません。

神様に受け入れられ愛される時、人が責め立てるどんな言葉も無意味になります。自分で自分を責めることも無意味です。逆に、僕らを攻撃する人は、神様によって滅ぼされます。神様が僕らの夫だからです。



(イザヤ書 54章17節)

"あなたを攻めるために作られる武器は、どれも役に立たなくなる。また、あなたを責め立てるどんな舌も、さばきのときに、あなたがそれを不義に定める。これが、主のしもべたちの受け継ぐ分、わたしから受ける彼らの義である。──主のことば。」"



「義」は神様からもらうものです。僕らは義とされています。他人がどんなに責めても、自分で自分を責めても、僕らは神様から永遠の愛で愛されています。喜びの子、愛される妻、平和の契約を結んだ民、義とされたものです。それ故、喜び歌い、喜び叫べ、と神様は言われます。僕らは恥を見ることがありません。ハレルヤ!




2024年11月22日金曜日

イザヤ51章

 イザヤ51章


当たり前ですが、僕らは見える状況、聞こえてくる言葉にすごく影響を受けています。他人から攻撃を受ける時、僕らはそれが全てかのように悪影響を受けます。…が、それはごく一部でしかありません。真実は、神様の言葉こそがはるかに影響のある、力のある、そして絶対に実現する言葉です。恐れる時は神様を忘れている時です。神様を思い出すように、神様ご自身が僕らに呼びかけています。



(イザヤ書 51章12~16節)

"「わたし、わたしこそ、あなたがたを慰める者。あなたは何者なのか。死ななければならない人間や、草にも等しい人の子を恐れるとは。

天を延べ広げ、地の基を定め、あなたを造った主を、あなたは忘れ、一日中、絶えず、虐げる者の憤りにおののいている。まるで滅びに定められているかのように。その虐げる者の憤りはどこにあるのか。

うずくまる捕らわれ人もすぐに解き放たれ、死んで穴に下ることはなく、パンにも事欠かない。

わたしはあなたの神、主。海をかき立て、波をとどろかせる。その名は万軍の主。

わたしのことばをあなたの口に置き、この手の陰にあなたをかばい、天を置き、地の基を定め、『あなたはわたしの民だ』とシオンに言う。」"



神様は神様が見せてくれる将来の姿、本当の姿を思うように聖書を通して語りかけてくれています。今は苦しく、荒廃していたとしても、必ず神様によって回復し、楽しみ、喜び歌っている映像です。



(イザヤ書 51章3~4節)

"まことに、主はシオンを慰め、そのすべての廃墟を慰めて、その荒野をエデンのようにし、その砂漠を主の園のようにする。そこには楽しみと喜びがあり、感謝と歌声がある。

わたしの民よ、わたしに心を留めよ。わたしの国民よ、わたしに耳を傾けよ。おしえはわたしのもとから出て、わたしが、わたしのさばきを諸国の民の光と定めるからだ。"



神様は僕たちに「わたしに心を止めよ」「わたしに耳を傾けよ」(4) と呼びかけています。目に見える悲惨な状況、敵の罵りではなくて、です。人に状況におそれおののく必要はありません。くじけないコツは神様が与えくれる将来の映像をいつもみていることです。



(イザヤ書 51章7節)

"義を知る者たちよ、わたしに聞け。心にわたしのおしえを持つ民よ、人のそしりを恐れるな。彼らの、ののしりにくじけるな。"



信仰は望んでいる事柄を保証します。必ずそうなります。神様の言葉は実現します。



(ヘブル人への手紙 11章1節)

"さて、信仰は、望んでいることを保証し、目に見えないものを確信させるものです。"



神様の祝福が来ます。人の言葉は消えていきます。神様の言葉は必ずその通りになります。希望があります。大丈夫です。ハレルヤ!



(イザヤ書 55章11節)

"そのように、わたしの口から出るわたしのことばも、わたしのところに、空しく帰って来ることはない。それは、わたしが望むことを成し遂げ、わたしが言い送ったことを成功させる。"




2024年11月21日木曜日

イザヤ50章

 イザヤ50章


他人から侮辱されたりさばかれたり攻撃されたりすることがあります。その原因は僕らにあったりします。でも、神様は何度も僕らのことを「義」(無罪)だと宣言してくださっています。



(ローマ人への手紙 8章1節)

"こういうわけで、今や、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。"



だから僕らは恐れずに侮辱する人に向き合うことができます。もちろん罪は認めましょう。ご指摘のとおりです。でも、イエス様が十字架でその罪を背負い、神の裁きを受けてくださり、僕らは無罪とされました。だから言い訳したり言い返したり逃げたりする必要はありません。誰がなんと言おうと神様が「義」と宣言してくださっているからです。神様の前では僕らは侮辱されることも恥じることもありません。



(イザヤ書 50章7~8節)

"しかし、神である主は私を助けてくださる。それゆえ、私は侮辱されることがない。それゆえ、私は顔を火打石のようにして自分が恥を見ないことを知っている。

私を義とする方が近くにいてくださる。だれが私と争うのか。さあ、ともに立とう。だれが私をさばく者となるのか。私のところに出て来るがよい。"



火打石は一番固い石のことです。つまり、「顔を火打石のようにして」とは、周りの人が何と言おうと、固く神様のことばに立つことです。神様が無罪宣言をし恥を取り去ってくれた、この福音に固く立ち、ブレないことです。反論も仕返しも逃げも必要もありません。「私を義とする方が近くにいてくださる」からです。(8)神様は僕らに義としてくださる福音をいつも聞かせてくださっています。「神である主は私の耳を開いてくださった。私は逆らわず、うしろに退きもせず、打つ者に背中を任せ、ひげを抜く者に頬を任せ、侮辱されても、唾をかけられても、顔を隠さなかった。」(5-6)

むしろ、僕らを責め、攻撃する人は神様から裁かれてしまいます。神様を敵に回してしまうからです。



(イザヤ書 50章9節)

"見よ。神である主が私を助けてくださる。だれが私を不義に定めるのか。見よ。彼らはみな衣のように古び、シミが彼らを食い尽くす。"



誰よりも「打つ者に背中を任せ、ひげを抜く者に頬を任せ、侮辱されても、唾をかけられても、顔を隠さなかった。」(5-6)のはイエス様です。鞭で打たれ、唾をかけられ、それでも逃げずにその苦しみを受け忍耐されました。これが僕らのお手本です。

今日も僕らを義としてくださるイエス様が一緒にいてくださいます。十字架の苦しみをなし終えてくださったイエス様が一緒です。十字架を見上げましょう。空になったお墓を思い出しましょう。感謝しましょう。義と宣言されています。大丈夫です。それでも苦しめられるなら喜びましょう。イエス様に繋がっている証拠です。ハレルヤ!



(ペテロの手紙 第一 4章13~14節)

"むしろ、キリストの苦難にあずかればあずかるほど、いっそう喜びなさい。キリストの栄光が現れるときにも、歓喜にあふれて喜ぶためです。

もしキリストの名のためにののしられるなら、あなたがたは幸いです。栄光の御霊、すなわち神の御霊が、あなたがたの上にとどまってくださるからです。"





2024年11月20日水曜日

イザヤ49章

 イザヤ49章


闇の先には光があります。破壊の先には再建があります。飢餓の先にはには満足があります。

なんでそんなことが言えるのか?それは神様がハッキリとそう約束してくれているからです。

問題は僕らが神様のことばを信じるかどうかです。「わたしを待ち望む者は恥を見ることがない。」(イザヤ書49章23節)「この方に信頼する者は、だれも失望させられることがない。」(ローマ10章11節)神様のことばは単なる教えではなく、事実だし出来事となることばです。


僕らは悪い想像は得意なようです。若いカップルが幸せな将来をイメージするように、神様との素晴らしい未来をイメージすることはすごく大切です。それは現実となる真理のことばだからです。この当時のイスラエルは、神様に背き懲らしめを受け崩壊していく時代でした。周りを見るなら悲惨だし、どこにも希望がないように見えます。それでも、神様は彼らを見捨ててはいません。

イスラエルは確かに神様に背き、崩壊し捕囚とされていきます。でも、神様は回復を約束し、将来の映像を具体的に見せてくれています。



(イザヤ書 49章15~20節)

「女が自分の乳飲み子を忘れるだろうか。自分の胎の子をあわれまないだろうか。たとえ女たちが忘れても、このわたしは、あなたを忘れない。

見よ、わたしは手のひらにあなたを刻んだ。あなたの城壁は、いつもわたしの前にある。

あなたの子どもたちは急いでやって来る。あなたを破壊し、廃墟とした者たちは、あなたのところから出て行く。

目を上げて、あたりを見回せ。彼らはみな集まって、あなたのところに来る。わたしは生きている──主のことば──。あなたは必ず、彼らをみな飾り物として身に着け、花嫁のように彼らを帯に結ぶ。

あなたの廃墟と荒れ跡と滅びた地は、今に、住むには狭すぎるようになり、あなたを吞み込んだ者たちは遠くへ離れ去る。

あなたが子を失った後に生まれた子らが、再びあなたの耳に言う。『この場所は私には狭すぎる。私が住めるように場所を広くしてください』と。



人は現状だけを見ますが、神様は完成された世界を見ておられれます。エルサレムの城壁は壊されますが、神様は「あなたの城壁は、いつもわたしの前にある。」とおっしゃいます。

回復は100%神様の力です。人間にはありえないことです。回復した時、誰がこんなに人を増やし、育ててくれたのかと言います。答えは100%神様です。



(イザヤ書 49章21~23節)

そのとき、あなたは心の中で言うだろう。『だれが私に、この者たちを産んでくれたのだろう。私は子に死なれた女、子を産めない女、捕囚のさすらい人であったのに。だれがこの者たちを育てたのだろう。私は、ただひとり残されていたのに、この者たちはどこから来たのだろう。』」

神である主はこう言われる。「見よ。わたしは国々に向かって手を上げ、わたしの旗を諸国の民に向かって揚げる。彼らは、あなたの息子たちを懐に抱いて来る。あなたの娘たちは肩に担がれて来る。

王たちはあなたの世話をする者となり、王妃たちはあなたの乳母となる。彼らは顔を地に付けて、あなたを伏し拝み、あなたの足のちりをなめる。あなたは、わたしが主であることを知る。わたしを待ち望む者は恥を見ることがない。」



だれも奪われたものを取り戻すことができないし、囚われた人を救い出すことができません。でも神様は完全にそれをなさいます。そして神様の敵は滅びます。



(イザヤ書 49章24~25節)

"奪われた物を勇士から取り戻せるだろうか。捕らわれ人を横暴な者から救い出せるだろうか。

まことに、主はこう言われる。「捕らわれ人は勇士から取り戻され、奪われた物も横暴な者から奪い返される。あなたが争う者と、このわたしが争い、あなたの子らを、このわたしが救う。"



忍耐はやせガマンではなく、神様との将来像をイメージして希望を持つことです。神様の言葉にとどまる人は、希望にとどまる人です。その人は病気も災いも地球の終わりも恐れません。

その人はまるで神様の翼の下に住んでいるようです。神様の真実なことばが盾であり砦です。世界が滅び苦しんでいく時の安全な隠れ家のようだと聖書は言います。



(詩篇 91篇1~9節)

いと高き方の隠れ場に住む者その人は全能者の陰に宿る。

私は主に申し上げよう。「私の避け所私の砦私が信頼する私の神」と。

主こそ狩人の罠から破滅をもたらす疫病からあなたを救い出される。

主はご自分の羽であなたをおおいあなたはその翼の下に身を避ける。主の真実は大盾また砦。

あなたは恐れない。夜襲の恐怖も昼に飛び来る矢も。

暗闇に忍び寄る疫病も真昼に荒らす滅びをも。

千人があなたの傍らに万人があなたの右に倒れてもそれはあなたには近づかない。

あなたはただそれを目にし悪者への報いを見るだけである。

それはわが避け所主をいと高き方をあなたが自分の住まいとしたからである。



神様が回復させてくださる世界をイメージすることは信仰です。多くの人々が喜び歌っています。僕らは今からそれを喜び、期待し、感謝し、賛美する者たちです。



(9-13節)

わたしは捕らわれ人には『出よ』と言い、闇の中にいる者には『姿を現せ』と言う。彼らは道すがら羊を飼い、裸の丘のいたるところが彼らの牧場となる。

彼らは飢えず、渇かず、炎熱も太陽も彼らを打たない。彼らをあわれむ者が彼らを導き、湧き出る水のほとりに連れて行くからだ。

わたしは、わたしの山々をすべて道とし、わたしの大路を高くする。

見よ。ある者は遠くから来る。見よ。ある者は北から西から、また、ある者はシニムの地から来る。」

天よ、喜びの声をあげよ。地よ、小躍りせよ。山々よ、歓喜の声をあげよ。主がご自分の民を慰め、その苦しむ者をあわれまれるからだ。



闇の先には光があります。破壊の先には再建があります。飢餓の先にはには満足があります。それは神様がハッキリと約束してくれているからです。ハレルヤ!