2025年3月31日月曜日

ルカ18.35-43

 ルカ18.35-43


「絶対大丈夫!」と信じて疑わない人は強いです。ある盲人はイエス様に「ダビデの子のイエス様、私はあわれんでください!」と叫び続けました。人々が黙らせようとしても関係ありません。絶対にイエス様が癒してくれる、と信じて疑わないからです。これは思い込みではなくて聖書への信頼です。旧約聖書はキリストが来ると「目の見えない者の目は開かれ、耳の聞こえない者の耳は開けられる」と書いてあります。(イザヤ35.5)彼は絶対にそうなると信じて叫び求めました。



"イエスがエリコに近づいたとき、一人の目の見えない人が道端に座り、物乞いをしていた。

彼は群衆が通って行くのを耳にして、これはいったい何事かと尋ねた。

ナザレ人イエスがお通りになるのだと人々が知らせると、

彼は大声で、「ダビデの子のイエス様、私をあわれんでください」と言った。

先を行く人たちが、黙らせようとしてたしなめたが、その人はますます激しく「ダビデの子よ、私をあわれんでください」と叫んだ。"

ルカの福音書 18章35~39節



イエス様は信じる彼を呼び、「わたしに何をしてほしいのですか。」と聞かれます。答えは明白です。でも、イエス様はちゃんと願いを言う機会を与えてくださいました。そして、願い求めた通りに見えるようにしてくださり「あなたの信仰があなたを救いました」とおっしゃいます。



"イエスは立ち止まって、彼を連れて来るように命じられた。彼が近くに来ると、イエスはお尋ねになった。

「わたしに何をしてほしいのですか。」するとその人は答えた。「主よ、目が見えるようにしてください。」

イエスは彼に言われた。「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを救いました。」

その人はただちに見えるようになり、神をあがめながらイエスについて行った。これを見て、民はみな神を賛美した。"

ルカの福音書 18章40~43節



信じる人は強いです。絶対にその通りになることを知っているからです。

神様の御言葉への信頼が僕らを救います。僕らが祈り求め続けるのは、根性とか熱心さでなく、神様が必ず言葉通りにしてくれる、という信頼です。イエス様自身が求めなさい、求め続けなさい、そうすれば与えられます、とおっしゃるからです。僕らもちゃんと願いを言い表し、ちゃんと求めるのは大事です。神様はみことばの通り聞き、答えてくださいます。


不正な裁判官でさえ、何度もやって来て願い求めるやもめに対して、「このやもめは、うるさくて仕方がないから、彼女のために裁判をしてやることにしよう。そうでないと、ひっきりなしにやって来て、私は疲れ果ててしまう。」と言います。(ルカ18.5)まして神様は僕らを放っておくはずがありません。(ルカ18.7)


僕らに必要なのは神様の言葉を信じて、願い求めることです。神様の真実さと確かさに賭けることです。


イエス様から「あなたの信仰があなたを救いました」と言われるためには、聖書のことばを信じていることが前提です。だから毎日神様のことばを読み、聞き、信じて受け止めることが土台です。この土台を放棄したり、いい加減にしているならグラついて祈る気持ちも起きません。みことばによって「絶対大丈夫!」と思う人は強いです。イエス様は「子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに入ることはできません。」とおっしゃいます。(ルカ18.17)聖書を議論のネタにしたりこねくり回したりしないで、神様の息のかかった言葉そのままとして信じて求めるのが子どもです。みことばを疑う人は、求めることも願うこともしません。


今日も信じて求め続けましょう。神様を必ず聞いてくださいます。みことばは必ず実現します。

今日も子どもみたいに信じて祈り、求め、信じましょう!ハレルヤ!

2025年3月27日木曜日

ルカ17.5-19

 ルカ17.5-19


「薄い氷の上で強い信仰」を持つよりも、「分厚い氷の上で小さな信仰」を持つほうが安全です。ぐらつく足元で「信じよう、信じよう」とがんばるより、大きな神様の愛と保護の中で安心している小さな信仰の方が健全です。信仰とは神様への信頼です。信仰とは神様への安心感です。信仰とはパパ大好きな子がパパの近くで安心しているかのようです。パパは絶対に信頼を裏切らないし、絶対に悪い事はしません。しかも、パパが言ったことは必ずその通りになります。その子は喜んでパパに従います。パパのことばはその通りになるし良いことが起こるからです。その子は自分の願いと違っても、人から失敗だとかダメだったとか言われても安心しています。パパの計画はもっとすごいと知ってるからです。信仰者とは、そんな子どものような人です。その子の力は関係なありません。ただパパを喜び、信頼し愛し、喜んで従っているだけです。


ある時、ツァラアトに冒された10人が、イエス様に癒しを求めました。イエス様は癒された自分の体を祭司に見せなさい、とおっしゃいました。まだ癒されていないのに、イエス様はもう癒されたかのように祭司のところに出かけなさい、とおっしゃいました。当時、祭司は「あなたは癒された。あなたはきよい。」と宣言してくれる役目でした。


彼らは病気のまま祭司のところに出かけます。イエス様がおっしゃった通りになると信じたからです。そして言われた通りに途中できよめられました。信仰とは信じて動くことです。信仰は神様の安心感の中で行動させてくれます。



"さて、イエスはエルサレムに向かう途中、サマリアとガリラヤの境を通られた。

ある村に入ると、ツァラアトに冒された十人の人がイエスを出迎えた。彼らは遠く離れたところに立ち、

声を張り上げて、「イエス様、先生、私たちをあわれんでください」と言った。

イエスはこれを見て彼らに言われた。「行って、自分のからだを祭司に見せなさい。」すると彼らは行く途中できよめられた。"

ルカの福音書 17章11~14節



「きっとうまくいく」と思う人は、信仰がある人です。神様がおっしゃったことは実現するからです。自分の思い通りじゃなくても、神様は最善をしてくださいます。神様を信じる人は恐れることがありません。自分の力ではないからです。逆に「きっと失敗する」と思って足がすくむ人は悪い将来を信じ、また自分の力で対処しようとする人です。イエス様は癒された病人に「あなたの信仰があなたを救ったのです。」とおっしゃいます(19)信じた人は信じた通りに救われました。10人の病人はイエス様を信じて行動し、その通りに癒されました。

信仰は熱心さとか量ではありません。神様を信じるか、それ以外の情報を信じるかの2択です。小さなからし種のような信仰であっても、信じる1択であれば、それは大きく動きます。そして神様のおっしゃった通りになります。



"使徒たちは主に言った。「私たちの信仰を増し加えてください。

すると主は言われた。「もしあなたがたに、からし種ほどの信仰があれば、この桑の木に『根元から抜かれて、海の中に植われ』と言うなら、あなたがたに従います。"

ルカの福音書 17章5~6節



疑うか疑わないかです。疑わないのが信仰です。疑わない小さな信仰で十分です。僕らが神様から選ばれたのは、信仰によって神様を体験し、ますます信頼し、愛し、ほめたたえるためです。癒されるのが目的ではありません。10人の病人は癒されましたが、感謝してイエス様のところに戻った人は1人だけでした。



"そのうちの一人は、自分が癒やされたことが分かると、大声で神をほめたたえながら引き返して来て、

イエスの足もとにひれ伏して感謝した。彼はサマリア人であった。

すると、イエスは言われた。「十人きよめられたのではなかったか。九人はどこにいるのか。

この他国人のほかに、神をあがめるために戻って来た者はいなかったのか。」

それからイエスはその人に言われた。「立ち上がって行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです。」"

ルカの福音書 17章15~19節



今日も神様を信じましょう。祈る時は信じて祈りましょう。求める時は信じて求めましょう。ビクビクしないで、信じて踏み出ましょう。それは賛美と感謝を生み出します。小さな信仰で大丈夫です。絶対に神様は悪いことはしません。ハレルヤ!

2025年3月26日水曜日

ルカ16.14-31

 ルカ16.14-31


お金=悪ではないけど、お金で願いが叶ったり、周りからチヤホヤされるようになると神様との関係が遠くなっていく傾向があるようです。傲慢になり、本気で神様にすがり、求め、願うことをしなくなりがちだからです。だからイエス様は「金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうが易しいのです。」とおっしゃいます。(ルカ18.25)聖書は神様を求め従う人に豊かな収穫を与えると教えています。(申命記28章など)…ですが、お金が目的ではありません。多く与えられるているなら、それは神様を愛し、感謝し、神様のために使うためです。贅沢して威張るためのものではありません。

僕らは弱いもので、神様よりもお金、神様よりも賞賛を求めがちです。それは「神の前では忌み嫌われる」とハッキリ言われています。(ルカ16.15)



"金銭を好むパリサイ人たちは、これらすべてを聞いて、イエスをあざ笑っていた。

イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、人々の前で自分を正しいとするが、神はあなたがたの心をご存じです。人々の間で尊ばれるものは、神の前では忌み嫌われるものなのです。"

ルカの福音書 16章14~15節



富と名声を手に入れて永遠の苦しみに落とされるなら意味がありません。そのような死後の苦しみをイエス様はリアルに教えてくださいました。



"ある金持ちがいた。紫の衣や柔らかい亜麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。

その金持ちの門前には、ラザロという、できものだらけの貧しい人が寝ていた。

彼は金持ちの食卓から落ちる物で、腹を満たしたいと思っていた。犬たちもやって来ては、彼のできものをなめていた。

しばらくして、この貧しい人は死に、御使いたちによってアブラハムの懐に連れて行かれた。金持ちもまた、死んで葬られた。

金持ちが、よみで苦しみながら目を上げると、遠くにアブラハムと、その懐にいるラザロが見えた。

金持ちは叫んで言った。『父アブラハムよ、私をあわれんでラザロをお送りください。ラザロが指先を水に浸して私の舌を冷やすようにしてください。私はこの炎の中で苦しくてたまりません。』

するとアブラハムは言った。『子よ、思い出しなさい。おまえは生きている間、良いものを受け、ラザロは生きている間、悪いものを受けた。しかし今は、彼はここで慰められ、おまえは苦しみもだえている。

そればかりか、私たちとおまえたちの間には大きな淵がある。ここからおまえたちのところへ渡ろうとしても渡れず、そこから私たちのところへ越えて来ることもできない。』"

ルカの福音書 16章19~26節



僕らへの警告です。今預かってるお金は神様を愛し、隣人を愛するためのものです。預かってるものが少なくて飢えていたとしても、それは神様からの報いを信じて忍耐するためのものです。将来、必ず報われます。



"イエスは目を上げて弟子たちを見つめながら、話し始められた。「貧しい人たちは幸いです。神の国はあなたがたのものだからです。

今飢えている人たちは幸いです。あなたがたは満ち足りるようになるからです。今泣いている人たちは幸いです。あなたがたは笑うようになるからです。"

ルカの福音書 6章20~21節



富と名声に満足して神様を忘れるなら、その人はあわれです。



"しかし、富んでいるあなたがたは哀れです。あなたがたは慰めをすでに受けているからです。

今満腹しているあなたがたは哀れです。あなたがたは飢えるようになるからです。今笑っているあなたがたは哀れです。あなたがたは泣き悲しむようになるからです。

人々がみな、あなたがたをほめるとき、あなたがたは哀れです。彼らの先祖たちも、偽預言者たちに同じことをしたのです。"

ルカの福音書 6章24~26節



この世と神様の両方に仕えるのは無理だとイエス様はおっしゃいます。



"どんなしもべも二人の主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛することになるか、一方を重んじて他方を軽んじることになります。あなたがたは、神と富とに仕えることはできません。」"

ルカの福音書 16章13節



ただ神様だけを求めましょう。地上では忍耐だけだったとしても、必ず大きな報いの日が来ます。この世のもので満腹して神様を忘れることがありませんように。富と名声は全て主のものです。神様に捧げましょう。僕らが思うよりずっと大きな報いと喜びの日が待ってます。もし今貧しくても神様を愛し信頼しているなら絶対に大丈夫です。ハレルヤ!



2025年3月25日火曜日

ルカ16.1-10

ルカ16.1-10


神様を知らない人は利益や快楽のために知恵を使って生きています。相手に良く思ってもらう方法とか、お金が入ってくるための方法などです。

イエス様は不正を憎む方です。…が、この世の人たちは悪知恵であってもそれらを最大限に使います。イエス様は不正な人が自分の立場や利益のためにがんばる話をして、「不正はダメ」だけど「自分の未来のために考えて動くことは賢い」と評価します。

この世の人が将来の利益のためにに賢く動くのなら、クリスチャンは永遠のためもっと誠実に賢く準備する必要があるという話です。



"イエスは弟子たちに対しても、次のように語られた。「ある金持ちに一人の管理人がいた。この管理人が主人の財産を無駄遣いしている、という訴えが主人にあった。

主人は彼を呼んで言った。『おまえについて聞いたこの話は何なのか。会計の報告を出しなさい。もうおまえに、管理を任せておくわけにはいかない。』

管理人は心の中で考えた。『どうしよう。主人は私から管理の仕事を取り上げようとしている。土を掘る力はないし、物乞いをするのは恥ずかしい。

分かった、こうしよう。管理の仕事をやめさせられても、人々が私を家に迎えてくれるようにすればよいのだ。』

そこで彼は、主人の債務者たちを一人ひとり呼んで、最初の人に、『私の主人に、いくら借りがありますか』と言った。

その人は『油百バテ』と答えた。すると彼は、『あなたの証文を受け取り、座ってすぐに五十と書きなさい』と言った。

それから別の人に、『あなたは、いくら借りがありますか』と言うと、その人は『小麦百コル』と答えた。彼は、『あなたの証文を受け取り、八十と書きなさい』と言った。

主人は、不正な管理人が賢く行動したのをほめた。この世の子らは、自分と同じ時代の人々の扱いについては、光の子らよりも賢いのである。"

ルカの福音書 16章1~8節



お金や人間関係さえこの世の人は工夫してるのなら、光の子どもたちはなおさらそうあるべきです。快楽や利益のためではなく神様のためです。神様が富や能力を預けてくださっています。神様のために、永遠の住まいに迎えられる人が増えるためです。



"わたしはあなたがたに言います。不正の富で、自分のために友をつくりなさい。そうすれば、富がなくなったとき、彼らがあなたがたを永遠の住まいに迎えてくれます。

最も小さなことに忠実な人は、大きなことにも忠実であり、最も小さなことに不忠実な人は、大きなことにも不忠実です。

ですから、あなたがたが不正の富に忠実でなければ、だれがあなたがたに、まことの富を任せるでしょうか。

また、他人のものに忠実でなければ、だれがあなたがたに、あなたがた自身のものを持たせるでしょうか。

どんなしもべも二人の主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛することになるか、一方を重んじて他方を軽んじることになります。あなたがたは、神と富とに仕えることはできません。」"

ルカの福音書 16章9~13節



イエス様はこの世の富を「不正の富」と言います。僕らが使うお金や人間関係にはどうしても不正や罪が混じり込んでいるし、富はそれで人を安心させようとしてダマします。それでもイエス様はそのような富にさえも忠実であるように、とおっしゃいます。


この世のすべては神様のものです。そして神様は僕らにそれを管理する特権と機会を与えてくれています。クリスチャンになったら「早く天国行きたいな」と言う人もいるし、パウロも、世を去ってキリストとともにいるほうがはるかにまさっている、と言います。(ピリピ1.23)でも、永遠の天国に迎え入れられる友を増やすために、この世で忠実に用いるべき賜物やお金が任されています。(9)

アリは夏のうちに食糧を蓄えます。「怠け者よ、アリのところへ行け。そのやり方を見て、知恵を得よ。」(箴言6:6)とあるように、アリは冬が来るのを知っています。今できることをちゃんとやって将来に備えるのは賢いことです。今日も預かっているものを誠実に使いましょう。最も価値もある素晴らしい神様にお仕えするため、永遠になくなることのない御国のためです。ハレルヤ!

2025年3月24日月曜日

ルカ15.24-32

 ルカ15.24-32


神様が与えたいと思っておられるものは、想像するよりずっと大きいようです。

クリスチャンは、神様の子ども(ヨハネ1.12、ローマ8.14、ガラテヤ3.26)とか、神様の相続人となる(ローマ8.17、ガラテヤ4.7、1コリント3.21-23)とか、祝福をを受け継ぐ(1ペテロ3.9、ヘブル6.12、ガラテヤ3.29)とか聖書に書かれています。僕らの思いを遥かに超えていて、しかも本気です。お父さんの財産を使い果たして帰って来た弟さえも受け入れて喜び、良いものを与えています。そんなお父さんに真面目に仕えてきた兄息子は怒ります。



"すると兄は怒って、家に入ろうともしなかった。それで、父が出て来て彼をなだめた。

しかし、兄は父に答えた。『ご覧ください。長年の間、私はお父さんにお仕えし、あなたの戒めを破ったことは一度もありません。その私には、友だちと楽しむようにと、子やぎ一匹下さったこともありません。それなのに、遊女と一緒にお父さんの財産を食いつぶした息子が帰って来ると、そんな息子のために肥えた子牛を屠られるとは。』"

ルカの福音書 15章28~30節



兄息子はどうせお父さんは良くしてくれない、と誤解していたようです。「友達とのパーティーもどうせダメなんでしょ」「そんなことには応援してくれないんでしょ」と思ってました。ところが、お父さんの答えは「子よ、おまえはいつも私と一緒にいる。私のものは全部おまえのものだ。」です。(31)


放蕩息子も愛され、真面目な兄息子も愛されています。2人に同じように与えたいと願っておられる神様です。「父はご自分の太陽を悪人にも善人にも昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからです。」(マタイの福音書 5章45節)


一生懸命やってるから何かくださいよ、と取引する必要はありません。熱心さで愛を手に入れようとする必要もありません。最初から愛されています。良いものを与え、祝福し喜んでおられます。神様のものは、全部僕らのものです。凄すぎます。信じる人は安心して恐れなく求めます。信じない人は「どうせダメなんでしょ」といじけまるか、神様に認められようとして頑張ってアピールしたり、反対にあきらめたりします。タダで喜ばれている人を見ては妬み、比較し、怒ります。僕らは神様を誤解しているようです。神様は僕らが思う以上に与えたい、喜びたい、祝福したいと待っておられるかのようです。行いによらず、ただ、めぐみと愛です。今日も「私のものは全部おまえのものだ。」です。感謝しましょう。安心して従い、求め、神様の喜びを体験しましょう。ハレルヤ!

2025年3月23日日曜日

「探し求める神様、大喜びする天国の大軍勢」 ルカ15.1-10 礼拝メッセージ

 「探し求める神様、大喜びする天国の大軍勢」 ルカ15.1-10


●悔い改めと大喜びする天国の大軍勢


先週ガーデンチャーチの洗礼式が東栄教会でありました。2人の若い男性でした。

一人の人は言ってました。みなさんの中で一番私は罪深いと思います。こんな私がゆるされてほんとに軽くなった気がします。嬉しいです。と。


彼は信じてすぐ神様から映像が与えられたそうです。それは赦されたことを感謝して賛美する人たちが大勢集まって札幌ドームが満員になって賛美をしている、そういうビジョンだそうです。信じてすぐにその思いが神様から与えられているそうです。


今日の箇所によると、それは妄想ではなく、霊的な現実です。天国では大喜びがあり、大軍勢が一緒に賛美していることがわかります。イエス様がそう言っています。そして、地上で僕らが一緒に喜ぶのは、天国の写しというか表れです。イエス様ご自身がおっしゃってます。


"あなたがたに言います。それと同じように、一人の罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人のためよりも、大きな喜びが天にあるのです。"

ルカの福音書 15章7節


大事なことは、罪人が悔い改めてイエス様のところに戻ること、です。その時に天では大きな喜びと賛美と喝采が起こっています。


"あなたがたに言います。それと同じように、一人の罪人が悔い改めるなら、神の御使いたちの前には喜びがあるのです。」"

ルカの福音書 15章10節


この天国の喜びが地上でも現れるのが僕らの礼拝や洗礼や賛美の集会です。天国の喜びが地上でも現れます。そのように札幌ドームで、みんなでイエス様に感謝しているその映像が最初から彼には与えられているそうです。


今日の話は有名な迷子になった1匹の羊を取り戻す羊飼いです。羊が戻ってきたときに、羊飼いは大喜びして知り合いをみんな集めます。


5,見つけたら、喜んで羊を肩に担ぎ、

6,家に戻って、友だちや近所の人たちを呼び集め、『一緒に喜んでください。いなくなった羊を見つけましたから』と言うでしょう。

7,あなたがたに言います。それと同じように、一人の罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人のためよりも、大きな喜びが天にあるのです。


大喜びの羊飼いは、知り合い友達、近所の人みんな集めて一緒に喜んでください!と言います。これはイエス様の姿です。迷子の羊を取り戻した時に、罪人が悔い改めた時には、みんな集めて、お祝いしよう、というイエス様です。


イエス様は天でのリアルをわかりやすく教えてくれました。罪を認めた人が、戻ってきた時には、大軍勢の大パーティーが起こっています。みんな、きてください!町中の人に触れ回って、一緒に喜んでください!と羊飼いは声をかけまくります。それがイエス様です。その表れとして、地上でも、どこの教会でも一緒に喜んでください、ってイエス様が声を駆け回ってるかのようです


大事なことは、悔い改めて戻ることです。イエス様のところに戻してもらうことです

悔い改めなしのパーティーではないんです。私悪くないし、って言いながらパーティだけをしよう、というのはありません。そこにはイエス様の喜びはありません。


なぜ天国で大歓声が起こり、天使たちが賛美を歌い喜ぶのか?それは罪人が自分の愚かさを認め、自分の足りなさを認め、神様に見つけてもらって、赦していただいたことを感謝するからです。罪の告白と悔い改め、方向転換が天使たちの大歓声、イエス様の大喜びです。


今日のメッセージの中心は、札幌ドームよりもっとすごいことが天で起こっている現実を伝えることです。


洗礼を受けた彼が「僕はここの人たちすべての人たちより罪深いと思います。こんな僕が赦されることが本当に嬉しいです」と言って洗礼を受ける時、天国で大パーティーが起きていることが、彼には最初からその映像がわかって、やがてその表れとして、札幌ドームでどこの教会とか関係なく、イエス様が一緒に喜んでください、と町中に声をかけるように集められる、その映像が与えられてる、と言っていました。


ちなみにですけども、ガーデンチャーチ始まって4年目ですけど、もう4年前から飯田ゆうき先生は同じこと言ってました。札幌で10万人の人たちが一緒に救われたことを感謝して賛美する。そのようなビジョンというか、そのような思いが与えられているとずっと言ってたんですね。打ち合わせなしに、彼が同じことを言っているのも神様だな、と思いました。


そしてもう1人洗礼を受けたのが大阪在住の大学生でした

彼は大阪の教会に通っていて、でも、飯田先生が導いいて、東栄で洗礼を受けました。

なので、ズームで大阪の堺シオン教会とつなげながら一緒に洗礼を喜びました。岳ちゃんが去年、奉仕神学生として通っていた教会です。山下先生も昨年東栄にご夫妻で来てくれました。そして、マスタードシード教会からも9人来てくれました。そして、東栄からも10数人参加して手伝ってくれました。


羊を取り戻した羊飼いであるイエス様が、町中の人たち友人知人、みんな呼んで喜ぶ話のようだと思いました。どの教会か関係なくみんなで喜ぶ姿が先週ありました。僕も4つの教会が一緒に洗礼を喜ぶのは初めてです。


5,見つけたら、喜んで羊を肩に担ぎ、

6,家に戻って、友だちや近所の人たちを呼び集め、『一緒に喜んでください。いなくなった羊を見つけましたから』と言うでしょう。


天国の喜びの表れとして、最初から4つの教会が集まって、悔い改めた罪人の洗礼を喜ぶっていうのはすごく意味があるなと思いました


この天の喜びとシードワーシップとすごく関係があると思います。2/24の賛美集会は集まったのは100人くらいで、20教会以上の人たちが一緒に賛美しました。これもまた、神様が願っている姿、イエス様が町中に声をかけて、友人知人みんなを呼んでくださっているかのようです。


少し前の金曜、有志の牧師たち宣教師たちの食事会に行ったら話題は、バラバラなような札幌の教会がどうしたら一緒に、一つのキリストの体として感謝できるんだろうか、という話でした。そして、そこで話題になったのは、シードワーシップです、この集会がもとになって、すでに一緒に天の喜びを表すことが既に始まっているのではないか、という話になりました。シードワーシップを知らない牧師さんもいたので、次回はぜひ参加します、って言っていました。


シードワーシップのロゴはまるで、イエス様の願いが芽を出しているかのようです。


こないだの4つの教会が合同で洗礼式をできたこと、シードワーシップ、そして、東栄が今まで交わりのなかったHBIとKBIの両者にも神学生を送っていることは、イエス様の願いが芽を出していると思わされます。全部繋がってるなぁと思わされております


天で大きな喜びが沸き上がるのはどんな時か?繰り返しますが、人が悔い改めた時です。悔い改めてイエス様の時に戻ってきた時です。


7,あなたがたに言います。それと同じように、一人の罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人のためよりも、大きな喜びが天にあるのです。


10,あなたがたに言います。それと同じように、一人の罪人が悔い改めるなら、神の御使いたちの前には喜びがあるのです。」


イエス様は必死に求めています。喜びとは、その人が見つけ出され、赦されて神様のところに戻った時です。悔い改めて戻るためには、自分の罪や欠点を知る必要があります。自分の弱さや欠点を認めるっていうことがすごく喜ばれています。そこに賛美があり、教会の一致があり、喜びがあります。


マタイ5.3

3,「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。

4,悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるからです。


反対に悔い改めたない人は不幸です。私は悪くないという人は不幸です。

罪人たちを見下し、イエス様を見下す人たちの姿が今日の箇所に書かれています。


●イエス様を求める罪人たち


どんな状況でイエス様はこの天の大歓声の話をされたか?

それは罪人たちが集まった時です。


1,さて、取税人たちや罪人たちがみな、話を聞こうとしてイエスの近くにやって来た。

2,すると、パリサイ人たち、律法学者たちが、「この人は罪人たちを受け入れて、一緒に食事をしている」と文句を言った。


性格の悪い人たち、特に問題を起こす人たち、迷惑な人たち、最底辺の人たちがイエス様のところにみんな、話を聞きたくてやってきました。少し離れたところに、上品そうな、頭のいいたちが立っています。パリサイ人や律法学者たちです。こっちの人たちは地位があって、尊敬されていた人たちでした。


彼らは、罪人たちがイエス様のところに集まって食事をしている光景を冷たい目で見ながら、文句を言います。「この人は罪人たちを受け入れて、一緒に食事をしている」と。


イエス様が一緒に食べている人たちは、道徳的に問題のある人たちです。迷惑をかける人たちです。収税人とは、不正が当たり前で、強欲な人たちです。そして罪人たちとありますが、男も女も暴力や肉欲のままに生きることが当たり前になっていた人たちです。遊女たちもいたと思います。そんな彼らが揃って、イエス様のところに来ていました。イエスも彼らを愛して、一緒に食事をしていました。


みなさん、想像してみてください。

教会の食事会に集まっている人たちが、札幌市内で迷惑行為を繰り返す人ばかり、詐欺や不正で儲けるのを当たり前だと言うような人たち、そして体を売っている女性たちばが集まってきています?彼らに傷つけられた人もいます。100万円騙されて取られた、そんな被害者もいます。彼らが集まってきていたらどう思いますか?


取税人たちや罪人たちがみな、」全員、揃って集まっていた、とあります。

彼らによって被害を受けている人たちは周りにもいます。だのにイエス様は受け入れ、彼らと親そうに喜んで話しています。みなさん、その光景を見たらなんて言いますか?特に被害を受けた、不正にお金を取られた人はどう思うでしょう。


イエス様の時代、一緒に食事をすることは今以上に一体感を表すものです。一緒に食べることは家族や親友の証でした。

イエス様は罪人たちに関心があり愛があります。欲望や暴力や不正が当たり前の彼らを追い出すのでなく、愛されていること、そして罪を悔い改めること、赦されることを話しておられました。

よく読むと、彼らは食べるのが目的ではなかったようです。


1,さて、取税人たちや罪人たちがみな、話を聞こうとしてイエスの近くにやって来た。


イエス様が言いたかったことは、彼らが悔い改めるなら天ではものすごく大きな喜びがあることです。

そのままでいいよ、罪の生活のままでいいよ、とは話していませんでした。


イエス様の周りにいる罪人たちは、この時、永遠のいのちか、永遠の地獄かの境目にいます。

そして、イエス様は言ったはずです。「悔い改めさない。罪をやめなさい。どんな罪も赦され、あなたは新しくなり裁かれない。」イエス様が罪を容認したことは一度もありません。罪のままでいいよ、とイエス様が教えたことはありません。いつも罪を悔い改めなさい、と言われます。ザアカイは悔い改めて、騙し取ったお金を4倍にして返します、と言い、財産の半分を貧しい人にささげます、と言います。御国がザアカイにもきました。そのように、イエス様は彼らにも悔い改めなさい、と言っていたはずです。


イエスが来たのは、イエス様が探しているのは、自分に何も問題がないと思っている人たちのためでなくて、自分が醜くて汚い罪人だとわかってる人です。


「悔い改めさない。罪をやめなさい。」って言うと多くの人は、プライドを傷つけられた、と感じます。



※ケンジのニュースレター

ちょっと前に結婚して鹿追に移住したケンジのニュースレター、僕は面白くて毎回楽しみに読んでいます。一昨日のニュースレターのは、鹿追の人が異常に親切すぎるエピソードがありました。


当たり前のようにショベルカーで近隣の家の除排雪をする。

本業でないのに、自宅で収穫した野菜を毎月持ってくる。

クリスチャンでもないのに献金してくれる

長く楽しく熱心に会話し続ける

とにかく太っ腹。


彼は教会のスタッフだし伝道師だけど、叶わない、と書いてありました。

イエス様は「あなたがたは世の光として、良い行いをこの世に示して、光となりなさい」とおっしゃるけど、もはや鹿追の未信者の方が遥かに愛に満ちていて、実践していて、太刀打ちできません。これほどの高いレベルじゃないと、鹿追の人としてのスタートラインにすら立てない、と言うボヤキでした。


親切で愛に溢れている彼らに「悔い改めなさい、罪をやめなさい」って言ったらどうなるだろう、と思いました。どうなると思いますか?

すごく親切にしてくれる相手に悔い改めなさい、罪をやめなさい、と言ったら「俺を侮辱してるの?とか、俺、何か悪いことした?」と言われそうです。彼の悩み、すごくわかります。


でも、イエス様の周りに集まったのは、そう言う親切な人ではありません。イエス様が探しているのは親切で愛に溢れた立派ではないです。真逆です。人から奪い、利用し、傷つけてばかりの人たちです。自分さえ良ければいいと思ってきた人たちです。


自分は汚れてない、って思っている人は「私を洗いきよめてください」って言えません。傷ついてないって思ってる人は「私を癒してください」って言えなません。

罪に縛られていないって思ってる人は、「私を解放してください」って言えません。 


自分が汚くて、傷だらけで、罪にまみれ、神様の裁きを受けると思う人だけが、キリストに頼って救いを求めることができるし、イエス様の話を聞きたい、と思います。そして、また、イエス様はそのような人を探し求めています。1節は罪人たちが皆、イエスの話を聞こうとして集まってきた、とあります。彼らはイエス様の救いの言葉を求めてきたんです。


イエス様はおっしゃいます。

「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。」(マタイ9.12)病気の自覚がある人だけが医者を求めます。病気の自覚がない人は医者を求めません。そしてイエス様は言われます。「わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」(マタイ9.13)


みなさんはどうですか?正しくて親切な人ですか?病気でなく、汚れもない人ですか?

それとも、イエス様にきよめてもらいたい、助けてもらいたい人ですか?


1,さて、取税人たちや罪人たちがみな、話を聞こうとしてイエスの近くにやって来た。


自分を正しいと思う人たちは文句を言います。


2,すると、パリサイ人たち、律法学者たちが、「この人は罪人たちを受け入れて、一緒に食事をしている」と文句を言った。


●迷った羊を探し求めるイエス様


イエス様が探し求めているのは、自分は正しい、という人ではなく、自分では良くなれない、迷った羊のような人です。自分では正しくなれない、神様のところに帰れない人だ、ということを教えるためにこの例えを話されました。


3,そこでイエスは、彼らにこのようなたとえを話された。

4,「あなたがたのうちのだれかが羊を百匹持っていて、そのうちの一匹をなくしたら、その人は九十九匹を野に残して、いなくなった一匹を見つけるまで捜し歩かないでしょうか。


羊は羊飼いがいなければ自分で餌場に行けず、水場にも行けないそうです。目が悪くて、ただ、前の羊についていくだけで、前の羊が崖から落ちれば自分も落ちる。そのような弱いものだそうです。もし、迷子になったら自分では戻れないのが羊です。ただ、うずくまって死んでいくか、他の動物に襲われて殺されるか、何処かに落ちて死ぬかです。


イエス様の周りに集まる罪人たちはまるでそのような人たちです。

だれも導いてくれなかった教えてくれなかった、世話をしてくれず、ただ自分なりに悪知恵を使って生きてくるしかなかった人たちです。弱って傷ついて、自分も相手を傷つける側になって、人々を苦しめるけど、自分も苦しめられ搾取されてどこにも助けがない羊のようです。


ただ、羊は耳だけは良くて、羊飼いの声を聞き分けるそうです。

罪人たちは聞く耳がありました。イエス様の言葉を求め、イエス様の話をもっと聞きたいと思っている人たちです。彼らは汚れているけど、ただ一つ、イエス様の言葉だけは聞きたい、という願いがありました。

イエス様は彼らが苦しんでいるのを見て、深く憐れみます。


イエス様は言われます。


4,「あなたがたのうちのだれかが羊を百匹持っていて、そのうちの一匹をなくしたら、その人は九十九匹を野に残して、いなくなった一匹を見つけるまで捜し歩かないでしょうか。


良い羊飼いはいなくなった一匹を見つけるまで捜し歩きます。見つけるまでです。どれだけ心配だったか、愛する羊が一匹、どこかで苦しんでいるなら、見つかるまで必死です。

これは、イエスが地上に降りてきて、自分の羊を探しに来た姿そのものです。どんなに時間がかかっても、イエス様は夜も昼も祈りと涙で、失われた者を見つけるまで決して諦めない羊飼いです。

「なんでこの愚かな羊のために苦労しなきゃいけないんだよ」なんて言いません。彼らを求め、探し出す愛しかありません。


イエス様は「見つけるまで」探し続ける羊飼いです。2025年の今もです。迷子になった羊はどこかでうずくまって怯えていると思って、憐れんで探している羊飼いです。


イエス様が求めているのは自分では戻れない弱い羊のような人たちです。それでもイエス様にとっては宝です。自分は大丈夫、という人ではなく、自分ではどうしたら助かるのかわからない人たちです。その罪人の一人が見つかったら帰ってきたら大パーティをするくらいに嬉しい人です。イエス様の周りの罪人たちはイエス様にとって大事な宝でした。


7,あなたがたに言います。それと同じように、一人の罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人のためよりも、大きな喜びが天にあるのです。


●なくなった銀貨を求めるイエス様


イエス様はもう一つの話をしました。同じテーマです。

今度は汚いところに落ちてなくなってしまった銀貨のようです。銀貨は自分では絶対に戻れません。イエス様の周りに集まる罪人たちも落ちて汚くなって、相手にされなくなってしまったような人たちです。


8,また、ドラクマ銀貨を十枚持っている女の人が、その一枚をなくしたら、明かりをつけ、家を掃いて、見つけるまで注意深く捜さないでしょうか。


1ドラクマは1日分の労賃です。もちろん大金です。ある学者の説ですが、この銀貨はもしかしたら、何枚かをつなげた銀のチェーンにした装飾品かもしれないそうです。しかもそれは既婚女性の証みたいなものだったそうです。だから、これは単なる銀貨以上に大切なもので、どこかに落ちてなくなったんだけど、明かりをつけ、家を掃いて、見つけるまで注意深く捜します。

この銀貨はこの女性にとっては宝です。埃だらけできったないところで転がっているべきではない

どこかな隙間に挟まってべきではないです。とにかくそのコインは彼女の誇りであり、宝です。


彼女が他にどんな用事があったのかは分からないけど、少なくとも見つけるために、全部の用事は後回しです。当食事の準備なんて全部やめたかもしれません。少なくとも彼女はその銀貨を見つけることが最優先でした。


彼女は「明かりをつけ、家を掃いて、」とあります。当時の家は窓が小さくて、家は暗いです。まずは灯りをつけて、よく見えるようにして家を掃除しました。他の人が家にいれば、彼らにもほこりがかかる。全部を後回しにするので、家族中が混乱したし、不快な時間を過ごしたと思います。銀貨に興味がない人は、ほこりにイライラしたかもしれません。ほこりが舞って咳き込んでるかもしれないけど、そんなこと気にせず、掃除して手を汚い床につけて、膝をつけてかがみ込んで探し回りました。


文句を言われたかもしれません。無くなった銀貨のことで夢中になって、明かりのろうそくをこんなに無駄にして。食事の用意もしないで、とか。でも、その女性は銀貨を見つけるのが最優先事項です。

そして、見つけたら大パーティです。


●適用 イエス様の願いを共有しよう


イエス様が探し続けるこの羊飼いです。イエス様がこの必死に探し続ける女の人のようです。憐れみ、と愛と情熱に満ちています。そして、最後はご自分が失われた羊となり、身代わりに死んでくだいます。


イエス様はこの話で、君たちも頑張りなさい、必死に探しなさい、とは言っていないです。

イエス様がおっしゃったのは、羊飼いがどれだけ愛に満ちた、諦めない、憐れみ深い、そして諦めない方か、です。そして、悔い改めて帰ってくることがどれほど喜びか、です。


探し、連れ戻し、悔い改めさせて取り戻すことができるのは神様だけです。


イエス様は弱ってる羊たちを見て、立ち上がれない人たちを見て、まるで自分のことに悲しんで深く憐れむ方です。汚いこの世に来て、汚い床に手をついて、床に顔をつけるかのようになくなった銀貨を探しまわるような神様です。


弱り果てている羊を見て激しく悲しみ、はらわたがちぎれるように憐れんでくださり、求めてくださり探してくださるのはイエス様です。そのような御霊に満ちた働き人にしてくださるのは神様です。


HBIの霊性の神学のクラスで使ってる教科書「スピリチャリティー信仰への道」の抜粋です。


「しばしば、我々に欠けているのは、信仰ではなく、思いやりや憐れみである。

祈るものと祈られるものの間に純粋な共感があるかないかが、祈りの結果を違うものにするように思われる。主イエスは、人々への憐れみの上で心を動かされた方である。

新約聖書の中のすべての癒しの奇跡において、憐れみや思いやりは共通して明らかな特徴である。」


イエス様は愛と憐れみが満ちています。そして、神様がその愛を与えてくださいます。御霊によって与えられます。僕らもイエス様に見つけてもらい、悔い改めて戻ることができた罪人です。


宣教部を作ろうとか、柚帆や市子さんを送り出そう、神学生を支えよう、って話をします。

でも、それは単純にお金を集めようとか、お金を出そうとか、仕組みを作りましょう、と言うことではないです。僕らが神様と一緒に、赦された罪人として感謝して、神様の御霊の愛と憐れみに満ちたイエス様の働き手になろう、一緒になろう、イエス様の思いを共有しよう、という話です。


※何のための神学生の基金?何の宣教のための基金?


神学生の基金、宣教のための基金を作って献金してください、祈ってください、って言うけど、これはお金くださいって言っているのではなく、「神様の憐れみと愛を一緒に求め、一緒に探し、一緒に喜びませんか?」って話です。神様が求める罪人への愛と憐れみ、失われた人への愛と求めを一緒に持とう、という話です。

この神様の思いを一緒に持たなかったら、仮にだけど、神様の罪人への愛と求め、そして喜びがないまま、基金を作ろうとか、宣教部を作ろうとか、支える会で献金集めようとか言っても、ただの「お金ちょうだい」に見えちゃいます。


女の人は一枚の銀貨を失ったとき、必死に探しました。羊飼いは見つかるまで、他のこと、九十九匹を残して必死に探しました。教会は罪人を愛し、求めるキリストの体です。そして、赦され悔い改めた罪人の集まりです。


教会がそれを忘れるなら、東栄教会は、問題のない正しい人たちです、あの問題のある人とは関係ありません、興味もありません、と言うなら、イエス様の教会ではなくなっています。


罪に落ちていった人を、迷子になってしまった人を諦めずに探し続けるイエス様が僕らにいます。僕らも迷子でした。そして、罪人が悔い改めて戻ってくることを大喜びするイエス様がおられます。僕らはその体、一人一人はイエス様の器官です。イエス様が僕らの中におられます。


ーー考えてみましょうーー

悔い改めて、もう一度イエス様に戻るべきことがあったらあげてみましょう

問題のある人を見下す心はありますか?イエス様はどんな対応をされているでしょう

イエス様と同じ愛と憐れみが与えられるように祈り求めましょう。